デスクワーク
部屋の中にペンを走らせる音だけが響く。窓の外からは若手の訓練のかけ声や、女たちの話し声が聞こえてくる。時折、子供を叱る声が交じり、いつもと変わらぬ村の日常——のはずだが……。
——落ち着かない。
これでもう何度目になるのか、ハルバラドは小さく息をこぼした。作業に集中しようとしたが、ペンはハルバラドの期待を裏切るように、カリと乾いた音を立てて文字をかすれさせた。仕方なくペンをインク壺に付ける。そのついでのように、ちらと向かいを見遣って——、
青灰色の瞳としっかり目が合い、ハルバラドは後悔した。
さっきからこれなのだ。こちらが目を向けると、書面を注視しているはずの彼が、なぜか応えるように目を上げるのだ。口許を綻ばせ、目を細めるというおまけ付きで。
アラゴルンは昨日、村へ戻ってきた。彼が旅路で得た情報と、村と周辺の情報をやり取りすると、話題はお互いの些末事へ移った。個人的な話と言っても、野伏のそれは大抵任務絡みである。記録するほどことではないから、報告と呼ばないだけだ。
杯を傾けながら話すうちに、古書の修復の話が出た。書庫には北方王国から伝わる書物が保管されている。幾度か修復され、写本もつくられてきたが、ここ何年かで傷みが目立ち始めた。それらを若手の数人が、長老たちの指導を受けて修復作業を始めた。
書の楽しみを知る一族の長は目を細めて話を聞いていた。そのうえ、ハルバラドがクウェンヤの書物の写本に手を貸していることを聞くと、彼は手伝うと言ってくれた。ありがたい話だった。
野伏でもクウェンヤに精通している者は少ない。エルフの智恵者の下で育った彼が手を貸してくれるなら、これほど頼もしいことはない。それに帰村したと思ったら、すぐ旅立つ彼をしばらく留めておける。良いこと尽くめだと喜んだのだったが——。
ふぅ……。
問題があると気づくのに、大して時間はかからなかった。先程のように何気なく目を向けただけでも、必ず青灰色の瞳が応じる。ふと視線を感じて目を上げれば、上目遣いの眼差しとぶつかる。しかも、ご丁寧に毎回、口許に笑みをつくってくれる。
思えば、アラゴルンと二人きりで机上の作業をするのは、これが初めてかもしれない。報告や打ち合わせは数え切れないほどあったが、いつも必ず長老や他の野伏など第三者が居た。静まりかえった室内で差し向かい、黙々と作業をこなすのとは雰囲気が異なる。
食事や酒の席なら、二人だけになっても何ということはないのだ。笑い話や冗談で気を紛らすことができる。また、そういう席で目が合って微笑を送られたなら、そこに意味を持たせてもいいだろう。
しかし、今この場で意味を持たせるのは強引に過ぎるというものだ。なにしろ、彼がそういう人柄ではないことを、自分はよく知っているのだから。だからこそ、焦燥にも似た衝動をやり過ごそうと努力をしている。
「……はぁ」
つい大きなため息が漏れた、途端——
「ハルバラド」
向かいの席から気遣わしげな声がかかった。
「さっきからどうした。あまり捗っていないようだが……」
訝しげに首を傾げたアラゴルンの、探るような視線が注がれる。
「あ、いえ。文字が薄くなっていて読み辛いので……」
ハルバラドは慌てて言い繕い、乾いた笑いを浮かべた。文字が薄くて読み辛いのは嘘ではない。もっとも、古書はみなそうしたものだが……。
「どれ——」
律儀な長は席を立ち、ハルバラドの手許の書物を取り上げた。
「これは確かに見にくいな」
納得したように頷き、「休憩するか」と笑ってハルバラドの肩に手を置いた。タイミング良く、暖炉にかけてあった鉄瓶がカタカタと蓋を鳴らす。
「お茶にしよう」
アラゴルンが暖炉へ近づく。
「わたしがしますよ」
ハルバラドがそう言って立ち上がったが、素直に聞く長ではない。彼は茶器を温めるという手間をかけながら、手際良く茶を淹れてくれた。茶の香りに混ざって、清々しい香りが立ち上る。
「いい香りがしますね」
「裂け谷でもらった。集中力を高める効果があるそうだ」
「それ、嫌みですか」
ハルバラドが憮然とすると、アラゴルンは声を立てて笑った。
「気分転換にも良いと聞いた」
「そうですか。では、せいぜい気分を改めさせていただきますよ」
「そうしてくれ」
アラゴルンはくすくす笑ったが、ふと表情を改めると真面目な声で言った。
「ハルバラド。退屈か?」
意外なことを訊かれて、ハルバラドは戸惑った。
「退屈って……この作業ですか? そういうわけでは……」
「いや、この作業ではなく、副長の仕事のことだ」
一瞬、耳を疑った。相手がアラゴルンでなければ、怒鳴りつけていたかもしれない質問だった。副長の座を継いで以降、旅に出ることはめっきり減った。その代わり、留守居役として雑事全般を引き受けているのだ。退屈していられる暇などない。
「……族長。ずいぶんなお言葉ですね。退屈そうに見えるかもしれませんが、連絡役の調整やら若手の訓練やら備品の管理やら……他にもいろいろ、これでも忙しいんですよ」
トゲのある言葉になったせいか、アラゴルンが慌てたように言った。
「悪い。それはわかっている。すまない。訊き方が悪かった。そういうことじゃなくてだな——」
黒髪の麗人は、怒っていないかと確かめるように首を傾げ、おもむろに訊いた。
「旅に出たくないか?」
ハルバラドは虚を突かれた。
「ずっと留守番で役目に倦んでいないか……? わたしの思い過ごしならいいんだが」
心配そうな青灰色の眼差しが、ハルバラドを窺う。
「もしそうなら、このまま続けるのは良くない。短期間ならわたしが代わりに残る。旅に出れば——」
「気分転換になる——ですか?」
ハルバラドはそれ以上聞いていられず、笑い含みに彼の言葉を引き取った。
「せっかくですが、お断りします」
「ハルバラド……」
「族長、ずいぶんですね。『役目に倦んでいる』とは」
睨んでやると、アラゴルンはしまったという表情になった。
「あ、いや……すまない。その……」
ちらりと覗く上目遣いを睨むと、彼はとうとう肩を落とした。
「本当にすまない」
「構いませんよ。はじめの頃、性に合わないと思ったのは事実ですから」
気にしていないというふうに、ハルバラドは軽く笑った。それは動揺を隠すためでもあった。
「最近は気に入っていますよ。なにしろ、相手が誰であろうと指図出来て、威張れますからね」
本心を悟られまいと、冗談めかして片目を瞑る。アラゴルンが呆れたように、ぽかんと口を開けた。それを見て、なんとか誤魔化せそうだと息を吐く。
エルフに育てられた影響なのか、人間と感覚のズレがある彼だが、時折、鋭く本質を突く。青灰色の眼差しは、人が一番覗きたくない、蓋をしておきたい想いを陽の下へ引きずり出す。
——役目に倦んでいないか……?
どきりとした。倦むほどではないが、しばしば嫌気がさすようにはなっていた。自分たち一族が何を為そうと、事態はじわじわと悪い方向へ進んでいく。好転したと思っても束の間、年を経るごとに自分たちの力は確実に削がれていく。
それに焦りを感じられるうちはまだいい。当たり前に感じるようになってくると、緊張感は薄れ、為していることに意味を見出せなくなっていく。ただひとつ恐れるのは——、
目の前の人にそんな醜い心を悟られることだった。
「こういう資料や文献も、最近は面白いと思うようになりました」
ハルバラドは彼の視線から逃れるように書物に目を遣った。
「そうか」
ほっと息を吐くような彼の言葉で、ハルバラドは気づかれなかったことに安堵した。けれど、まだ油断は出来ない。話を少しだけ逸らす必要がある。ハルバラドは意地の悪い笑みを浮かべて見せた。
「それに、あなたのほうが似合いませんよ、族長」
なにが? と首を傾げる長に、ハルバラドは涼しい顔で答えた。
「机に向かって書類をめくる作業」
「……言ってろ」
アラゴルンがムッとしてそっぽを向いた。その様子にくすくす笑っていると、彼はぼそりと呟いた。
「確かに、それだけ軽口が叩ければ心配なさそうだな」
仕事に戻るか——と、茶器を置いた顔に、一瞬やわらかな笑みが浮かんだ。思わず目を奪われる。それが少し悔しくて、立ち上がった彼の横顔に声をかけた。
「族長」
「なんだ?」
「さっきのは嘘です。よくお似合いですよ、書類仕事。拝見していると、少々あやしい気分になるくらいに」
青い目が見開かれ、ついで瞼がじとりと下がる。
「——ハルバラド」
「はい」
低い声におどけた仕草で答えると、更に低い声が降ってきた。
「あやしい気分になったら正直に言ってくれ」
「おや、応えていただけるので?」
「ああ。即刻、部屋から叩き出してやる」
容赦のない長の言葉に、ハルバラドの口からやるせないため息がこぼれたのだった。
END
nora様からのリクエスト、ハルアラをお送りいたしましたm(_ _)m
ぐらりと来ちゃうけど、手を出せないシチュエーションがお好きとのことだったので、そんな雰囲気が出せればと思ったのですが……玉砕(涙)。「真面目に仕事しようと〜」ということでしたので「デスクワーク」にさせていただきました(そういうオチか)。