継承
西に傾く陽を眺めながら、エルダリオンは露台の手すりに肘をついた。何度も彼とここから見える景色を楽しんだ。星が瞬く夜空、暁の陽が昇る山並み、白い陽射しに輝く街並み、そして今のように暮れていく空——。
眼下の街は静まり返っているように見えた。無理もない。
偉大な王を喪ったのだから。
エルダリオンは室内を振り返った。窓際のテーブルの上で、翼ある冠が黄金色の陽光を弾く。眩しさに目を眇めたとき、扉を叩く音がした。応えると、イシリアン公が姿を現した。
「葬儀の件ですが、陛下——」
「“陛下”はまだ早いよ。バラヒア」
エルダリオンは室内に入りながら苦笑した。
「戴冠式までは——」
「“我が殿”ですね」
付き合いの古い相手は、“火の司”の名とは程遠い柔和な笑みを浮かべた。こういうところは祖父譲りかと思う。エルダリオンの脳裏に昔日の執政の姿がよぎった。もっとも、あの執政も苛烈な一面を持っていた。その怒りは火が燃え立つのではなく、辺り一面を凍りつかせ、口許に微笑を浮かべながら目は笑っていないという恐ろしいものだった。
その息子のエルボロンは表面的には武張って見え、激したときは青筋を立てるというわかりやすさがあったが、なかなか察しの良いところもあり、冷静な政治手腕も持ち合わせていた。こうして考えると、二面性を持つのがフーリンの血筋なのかもしれない。
目の前の男も名前どおり“火の司”となることがある。鎮めるにはけっこう骨が折れるが、今までは鎮火の名人がいた。けれど、もう頼むことはできなくなった、永久に……。
「不思議なものですね」
ぽつりとバラヒアが呟いた。
「実感が湧きません」
エルダリオンは「そうだな」と頷いた。そう、まだ自分は受け止めきれていない。彼が永遠にこの世を去ったということを——。
「祖父のときも、父のときも、彼らが二度と目覚めることはない……もう言葉を交わすことはできないと、自然にそう思いました。けれど——」
なぜでしょう、とバラヒアは淋しげに笑った。
「かの人に限っては、回廊の柱の陰からひょっこりお顔を覗かせるのではないかと……。歩いていてもそんなことばかり……」
声が途切れ、バラヒアが俯いた。泣いているのかと思ったが、覗いた口許は微笑んでいた。しかし——、
「おかしいと思われるでしょう」
顔を上げてこちらを見る碧い瞳は潤んでいた。人は過ぎるほどの衝撃を受けたとき、感情が混乱するのかもしれない。
「おかしくないさ」
エルダリオンは静かに首を振った。
「あの人は脱走の天才だったから、ひょっとしたら抜け出してくるかもしれない」
「エルの御業からですか」
「ああ」
エルダリオンは頷いてくすりと笑った。つられたようにバラヒアも笑う。二人でひとしきり笑い、エルダリオンは王冠を箱に入れた。
「戴冠式までしまっておいてくれ。王笏も」
「かしこまりました」
「葬儀は……諸侯が揃ってからになるか」
「ええ」
バラヒアが頷いた。
「ローハンやアルノールへも報せておりますから、国葬は遠方の方々が揃ってから行いましょう」
エルダリオンの頭に隣国の王、北方の官吏や諸侯たちの顔が浮かんでは消えた。彼ら弔問客から悔やみを受けるのは他の誰でもない自分になる。
「おおごとだな」
思わずため息を漏らすと、バラヒアが一瞥を寄越した。
「他人事のようにおっしゃらないでください。喪主はあなたですよ。エルダリオン様」
「わかっている」
そう答えたが、葬儀だけで済むことではない。戴冠すれば、事あるごとにあのきざはしの上に座らなければならない。いずれ継ぐとわかっていたことだが、いざとなってみると落ち着かない。式典の都度、無駄な抵抗をしていた父の気持ちが少しわかる気がした。
「主立った官吏や将は既にお別れを済ませておりますので、廟を一旦閉めようと思うのですが……」
バラヒアが窺うようにエルダリオンを見た。
「夕星の王妃が付き添ってらっしゃいまして……」
「ずっと廟に?」
「はい」
暗い顔でバラヒアが頷く。
「お食事も召し上がらず……」
エレスサールが永遠の眠りにつくと同時に、妃の瞳から輝きが失われた。エステル——彼女にとって、彼の存在は真実生きる“のぞみ”だったのだろう。
「後で話してみるよ」
バラヒアは一礼すると、近衛兵に王冠と王笏の箱を運ばせ、執務室を出ていった。
一人になってからエルダリオンは執務机に近づいた。昨日の朝まで彼が座っていた場所だった。片づけられた机上に、忘れられたかのようにパイプが転がっていた。
習慣にするほどではないが、何度かパイプを吸ったことはある。エルダリオンはそっとパイプを手に取った。彼がしていたように引き出しから葉を取り出し、パイプの先に詰めて暖炉の火を移した。翳る部屋の中を、仄白い煙がゆらりと立ちのぼる。
ふうっと煙を吐き出しながら、エルダリオンは露台に出た。西の空は雲が薔薇色に染まり、東には既に月が輝いていた。
——正に“月の地”と“太陽の地”だな。
そう思ったとき、強い風が露台を吹き抜けた。煙がなびきカーテンが揺れる、その流れを追って室内を振り向けば——、
「うまいだろう? 長窪葉だ」
窓際の椅子に、昨日別れたはずの人の姿があった。既に閉じられたはずの青灰色の瞳がエルダリオンを見ている。
「この部屋に一人でいる気分はどうだ?」
エルダリオンが声も出せずに立ち尽くしていると、彼は目を細めくすっと笑った。
「王冠はかぶらなかったんだな」
執務机を振り返り、緩くうねった髪を揺らして、にっと口の端を上げた。
「執務机の椅子にも座っていない。そうだろう?」
「……本番まで取っておこうと思って」
ようやくエルダリオンは答えた。
「もう本番だろう?」
彼は呆れたように首を傾げた。
「戴冠式まで……」
「そうか」
彼は頷き、懐かしそうな表情を浮かべて小さく笑った。
「考えてみれば、王冠はとうの昔にかぶっていたな。まあ、あれは嵌ったというほうが正しいかもしれないが……」
「よく憶えているね」
エルダリオンは感心した。あれは、自分がこの人の膝の上で遊んでいた頃の話だ。
「忘れるものか。なにしろ、『わぁ、ちちうえ、おーさまみたい』と言われたんだからな。その後、かぶりたいと言って、わたしの頭から取り上げた」
言われて、エルダリオンは吹き出した。自分はその“迷言”を憶えていない。周囲の証言によれば三、四歳の頃の話らしい。自分のことはもちろん、親の身分もよくわかっていない頃だ。とはいえ、幼子の無邪気な言葉ほど残酷なものはない。さすがの父も絶句したそうだ。
子供のほうは、言葉を失った父親の胸中など察するはずもなく、その身体をよじ登り、冠を半ばずり落とすようにつかんで、頭を突っ込んだらしい。しかし、サイズの違いは如何ともし難く、ずっぽりと頭をすり抜けて肩で止まった。その情けない結末だけ、ぼんやりと記憶に残っている。
「それだけ好きだったんだと思う」
エルダリオンは穏やかに笑った。
「なんだ。それならかぶればいいだろう。誰にも遠慮は要らないぞ」
もうお前のものだ——そう言う彼に、エルダリオンはかぶりを振った。
「あなたがかぶった姿が好きだったんだ。父上」
あの冠をかぶった父の姿が眩しくて、小さな自分は同じものを頭に載せたくなった。
「王様みたい、だからか?」
青灰色の瞳にいたずらっぽい光を浮かぶ。エルダリオンは小さく肩をすぼめた。
「かもね」
そう答えたとき、背後から室内に向かって強い風が吹き込んだ。
「…………れだ」
彼の言葉が一瞬、風で途切れる。
——じかん……切れ?
訊き直そうとしたが、今度は外へ押し返すように室内から風が吹いてきた。思わず目を閉じる。そのとき風の中から声が聞こえた。
「……は、お前のほうがきっと似合う」
ふっと冷たい感触が額を触れ、目を開けたときには風はおさまっていた。目の前の椅子には誰の姿もなく、振り返れば既に太陽は山の陰に隠れ、西の空は朱色に染まっていた。
「……父上」
改めて椅子を振り返ると、その脚下で残照に鈍く光るものがあった。エルダリオンは信じられない思いでそれを拾い上げた。二匹の蛇が交差する意匠——バラヒアの指輪。
——父上……。
風が吹き去った空は急速に夜の色に染まり、やがて星が瞬きはじめた。その眺めは灯りが満ちていく街の景色と重なり、エルダリオンの視界で滲んでいった。
END
エルダリオン登場で、王位継承時の話をお送りいたしました。
ゴルンが幻覚(?)でしか出てこない、アラ受サイトらしからぬ話にお付き合いいただき、ありがとうございます。これが管理人の精いっぱいでございますm(_ _)m
バラヒア(Barahir)はエルボロンの息子でファラミアの孫です。エルボロンの嫁は誰だというツッコミは自分でしておきました(苦笑)。そうなるとエルダリオンの妃は誰だという話にもなるので軽くスルーの方向で(コラ)……。
“火の司”というのはシンダリンの“bara”が“fiery”に当たるそうなので、勝手に訳させていただきました。“猛火”や“燃え立つ”や“激しやすい”という意味もあるようですが、これらに司と付けるのもなんだかなァ、と思った次第です。
エルボロンを勝手に他界させてしまいました(汗)。彼の母がエオウィンでロヒアリムということを考えると、実父のファが長命でも百歳以上は無理かなと。伯父にあたるエオメルが長生きなのでビミョーなところですが……、バラヒアに代替わりしている設定で進めました。
ゴルンが幻覚(?)でしか出てこない、アラ受サイトらしからぬ話にお付き合いいただき、ありがとうございます。これが管理人の精いっぱいでございますm(_ _)m
バラヒア(Barahir)はエルボロンの息子でファラミアの孫です。エルボロンの嫁は誰だというツッコミは自分でしておきました(苦笑)。そうなるとエルダリオンの妃は誰だという話にもなるので軽くスルーの方向で(コラ)……。
“火の司”というのはシンダリンの“bara”が“fiery”に当たるそうなので、勝手に訳させていただきました。“猛火”や“燃え立つ”や“激しやすい”という意味もあるようですが、これらに司と付けるのもなんだかなァ、と思った次第です。
エルボロンを勝手に他界させてしまいました(汗)。彼の母がエオウィンでロヒアリムということを考えると、実父のファが長命でも百歳以上は無理かなと。伯父にあたるエオメルが長生きなのでビミョーなところですが……、バラヒアに代替わりしている設定で進めました。