愛(かな)しとき
木々の間にすらりとした人影を認め、レゴラスは地面を蹴った。頭上に張り出した枝をつかみ、樹上へ身体を持ち上げる。飛ぶように枝を渡り、さっき見た人影に追いつくや地面に降り立った。ほとんど真下にいた人物は、頭上からの攻撃に対抗するよう身を引き、素早く右腕を動かした。
キィン……。
木立の中、硬い音が反射したが、その剣呑な響きをものともせず、レゴラスは人の子に飛びついた。
「エステルッ!」
「……レゴラス。……どこから降ってくるんだ」
相手——今や大国の王となった人の子、アラゴルンはしみじみとため息を吐いた。ほとほと呆れ返った様子だったが、レゴラスは気にせず笑った。
「君が素通りしようとするからだよ」
彼の黒髪をくしゃりと撫でる。その手を払いのけながら、アラゴルンが言った。
「そんなつもりはない。館には寄るつもりだった」
「僕がここにいるのに、館に行っても無意味じゃないか」
レゴラスは不満げに口を尖らせた。
「仕方ないだろう。そっちが外にいるなんて、こっちは知りようがない」
「嘘。気づいてたでしょ」
エルフ並みに気配に聡い彼が気づかぬはずがない。だが、愛しい人の子から返ってきたのは素っ気ない言葉だった。
「……知るか。緑葉の王子が一人でほっつき歩いているとは思わないからな」
レゴラスの一人歩きが珍しくないことぐらい知っているくせに、とぼけたことを言う。子供の頃は素直で可愛かったのに、たった八十年でこうも変わってしまう。だから——、
人の子は面白い。
レゴラスは唇の端をにっとつり上げ、アラゴルンの顔を覗き込んだ。
「そう言う君こそ、大国の王が一人でふらふらしてていいわけ? お伴も連れずに出歩いたら、また右腕にしぼられるんじゃないの?」
「散歩の許可はもらった」
「ずいぶん遠出の散歩だね」
ゴンドールの王となったアラゴルンの居城はミナス・ティリスだ。ここ北イシリアンからはアンドゥインを挟んだ白の山脈の麓だ。散歩という距離ではない。
「オスギリアスの東岸に用があったんだ」
アラゴルンがアンドゥインを挟む都の名を口にした。
「そのついでに足を伸ばしただけだ」
「ふぅん……」
そういう事情があっても、主君大事のあの執政が一人歩きを奨励するはずはない——そう思ったが、レゴラスはこれ以上訊かないことにした。彼が訪ねてきてくれたことのほうが、自分にとっては重要だ。
「ついででも、僕に会いに来てくれたのはうれしいよ。エステル」
「飛びつくな!」
首に腕をまわし抱きしめようとしたが、邪険に振り払われた。本当につれない。
「冷たいなぁ。僕と君の仲じゃない」
「どういう仲だ……」
肩を落としてげんなりとため息を吐いたアラゴルンだったが、顔を上げると案内を促すように言った。
「それより、ずっとここで立ち話か?」
「もちろん——」
レゴラスは笑顔で彼の手を取った。
「館へ招待するよ。とっておきのお茶があるんだ」
◆◇◆◇◆◇◆
「はい。僕のスペシャルブレンド」
中庭を臨む露台に客を通し、レゴラスはとっておきのカップでお茶を出した。心尽くしのもてなしだ。なのに、麗しい客人は実に可愛げのない口を利いた。
「何が混ぜてあるんだ?」
酷い言い様である。しかし、こんなことでめげてはいられない。レゴラスは片目を瞑り、にっこり笑って答えた。
「ヒ・ミ・ツ」
アラゴルンは苦笑したが、素直にカップに口を付けた。最初からそうすればいいものを。
「こっちは木の実入りで、こっちのはベリー入り。食べるときはこのクリームを付ける」
焼き菓子の説明をしているとき、脇の建物の回廊を旅装のエルフが数人、横切っていくのが見えた。青灰色の瞳がそれを追う。
「彼らは?」
「ああ。灰色港へ行くんだ」
彼らは闇の森で暮らしていたエルフだ。港へ向かう途中、ここへ立ち寄った。
「灰色港……。船に乗るのか」
アラゴルンがぼんやりと呟いた。既に旅装の一団の姿は見えなくなっていたが、青い目はまだ回廊を眺めていた。
「そう。やっと冥王が滅んだのに、今、渡っちゃうなんてもったいないよねぇ。——ほら、食べてよ。このクリーム、格別なんだから」
軽口を叩いて焼き菓子を勧めてみたが、根が真面目な人の子の気を逸らすことはできなかった。真剣な眼差しがこちらを向く。
「——レゴラス」
「何?」
憂いを含んだ呼びかけに、レゴラスはわざと明るい声で答えた。
「渡らなくていいのか?」
エルフのために用意された浄福の地へ行かないのか――青灰色の瞳が揺れていた。
「まだ渡れないね」
冗談でしょ、と、レゴラスは肩をすぼめた。
「まだ、この地(中つ国)で見たいものがたくさんある」
澄ました顔で言ってやると、アラゴルンの首が小さく傾いた。
「見つくしたら渡るのか?」
「かもね」
レゴラスはまた肩をすぼめた。
「でも、そんなのはずっと先。まだリューンの向こうへも行っていないし、南だってポロス川止まり。白の山脈の南側もまわっていないところが多いし……これじゃあ、離れられないよ」
「そんな悠長なことを言っていると、乗る船が無くなるぞ」
幾分呆れた声で、アラゴルンが言った。
「そしたら自分でつくるさ」
事もなげに言ってみせると、ため息とともに憎まれ口が返ってきた。
「沈まなきゃいいがな」
まったくもって可愛げがない。
「……ずいぶん言うじゃない。エステル」
思い切り睨んでやると、アラゴルンはしらっと目を逸らした。お茶に口を付け、こちらを窺うようにちらりと目を動かす。むくれた顔をしてやると、黒髪の麗人は軽く吹き出した。
「悪かった」
謝りながら、アラゴルンが朗らかに笑った。それを見てレゴラスも笑った。二人でひとしきり笑った後、ゴンドールの王が改まった調子で言った。
「船出するときは報せてくれ。見送りに行く」
「憶えてたらね」
軽い返事をしながら、レゴラスは胸の内で呟いた。
——それは無理だよ。
君の生あるうちは渡らない。そう決まってるんだから……。
見送るのは僕のほうだ。君の行くところなら、どこへでもと思う。けれど、君の最後の旅だけはどうやっても一緒に行けない。見送ることしかできないんだ。現世には戻らない旅へ発つ君を。
海を渡るのはそれからだ。その日はやがて訪れる。君の時間は永遠じゃない。だから——、
どうか、その日までは僕の時間を君への想いで満たさせておくれ。
パイプを取り出し、椅子に背を預けて目を閉じた人の子の横顔を眺めながら、レゴラスはカップを取り上げた。
END
どんな話でも……ということでしたが、こんなレゴアラでもよろしかったでしょうか。