ランデブー
明るい月が東の空に浮かんでいる。円く満ちた月の輝きに、星の光もかすんでしまっている。さやけき光の下、古の時代、建てられたと思われる宮は一際幻想的な空気を醸し出していた。しかし、そこに佇む男は浮かぬ顔をして、ため息を吐いていた。
——やはり、来るのではなかった。
白の都を守護する大将、ボロミアは月を見上げ、また息を吐いた。
先月、ミンドルルインの中腹で古の建築らしき小さな宮が見つかった。廃墟ではあるが、時代を経ている割に傷みが少なく、手を入れれば使えるのではないかと報告があった。その場所がミナス・ティリスからほど近いと聞き、ボロミアと執政を務める弟のファラミアは密かに警戒した。国王が抜け出して様子を見に行くのではないかと——。
案の定、彼は報告を聞いて宮に興味を示した。
——見に行きたいな。
国王と執政と大将、三人が王の執務室に居るときだった。のほほんと口にしたエレスサールにファラミアが釘を刺した。
——然るべく手を入れ、整えた後、ご案内いたします。
——それではつまらない。
子供のような反論にファラミアの眉がぴくりと動いたが、それに気づかなかったのか、はたまた気づいていながらだったのか、エレスサールは不満そうに言った。
——視察くらいさせてくれてもいいだろう。
——なりません。
ぴしゃりとファラミアが言った。
——陛下には他に為すべきことがございます。
——それはわかっているが……。
——さようでございますか。おわかりならば、フォルノストやアンヌミナスの再建案、水路や街道の整備、税の暫定法案……、これらの書類に目を通していただけますね。
執務机に積まれた未処理の書類をファラミアに読み上げられ、エレスサールは口を噤んだ。それでその場は収まったのだが、妙なところで粘りのある主君はそんなことでは諦めなかった。
十日ばかり前の夜、ボロミアが王の執務室を訪ねたところ、彼はまさに脱走直前の状態だった。野伏装束に身を包んだ男を抱きかかえるようにして引き留め、近衛兵、侍従、執政——彼らに報せるぞと脅し、なんとか脱走は未遂で終わらせた。
しかし、彼がまた抜け出すであろうことは、短くない付き合いでわかる。とにかく二度とするなと、懇々と説教を始めたボロミアに、青い瞳の悪魔がにっこりと微笑んだのだ。
——ならば、一緒に行こう。
そんなことが出来るはずもないと首を振れば、敵はうっとりするようなやさしい囁き声を出した。
——日暮れに出て、夜明け前に戻ってこればバレやしない。あんたとわたしだけの秘密になる。
そういう問題ではないと言うと、主君はタチの悪い癖をここぞとばかりに披露してくれた。上目遣いに小首を傾げる例のやつだ。
——残念だな。あんたと二人きりで出かけられると思ったのに……。
潤んだ瞳に見つめられ、手をそっと包まれた。だめ押しに縋るような声が耳に流れ込む。
——だめか、ボロミア。
ボロミアは敢えなく陥落した。その場で、決行日には日暮れの半刻前、都の門で落ち合うことを約束させられてしまった。そして本日、侍従が主君の署名の入った書類を届けに来た際、そこに一片の紙が混ざっていた。
——今夜
走り書きの単語が意味するところはひとつきり。彼を一人で城外へ出すよりは、自分が付いていったほうがまだマシだ。そう言い訳しながら、ボロミアは閉門直前の都を出てきたのだった。一人の野伏とともに……。
——止めるべきだったのだ。
ボロミアは肩を落とし、ここに着いてから幾度目かわからないため息を吐いた。そんな人間の心情とは無関係に月は明るく、廃墟となった宮を照らしている。その情景にまたため息を吐きそうになったが、
——いつまでも、ため息を吐いている場合ではない。
下降する気分を払うようにボロミアは頭を振った。今からでも遅くはない。
——戻れば良いのだ。
ボロミアは決然と頭を上げ、振り返って主君を呼んだ。
「陛下」
しかし、返事はない。
「陛下、エレスサール王」
再び呼んだが、廃墟の柱や壁にボロミアの声が空しく反響するだけだった。
——まさか……。
ボロミアの心に、先程までとは違う焦りが生じた。
——逃げられたのか……?
ちょっと目を離した隙に、と思っても遅い。前歴が野伏の長で、気配を消すことに長けた彼が、ボロミアの目を盗んで姿を眩ますなどたやすいことだ。
——最初からこのつもりで……。
廃墟となった宮を冷えた風が吹き抜ける。
「アラゴルン!」
再び声を張り上げたとき、「こっちだ。ボロミア」と上から声がかかった。
——上……?
ぱっと顔を上げると、部分的に残っている屋根の上に人影が見えた。手を振っているのは、紛れもない我が王である。
「……な、何をしているのだ!」
ボロミアは蒼白になった。手すりも柵もない不安定な場所に大切な主がいる。一大事である。しかも、廃墟の屋根だ。いくら歳月を経ている割に傷みが少ないとはいえ、脆くなっているはずである。安易に上がるべき場所ではない。しかし、主君はこちらの胸中など知らぬ顔で、のんきなことを仰せになった。
「いい眺めだぞ」
「何をのんきなことを! 危ないではないか。早く下りてくれ」
「慌てるな。向こうのほうは崩れているが、この辺りは大丈夫だ」
こちらは血相を変えているというのに、屋根の上の貴人はのんびりと笑った。腹が立つといったらない。
「何を言っている! さっさと下りろ!」
敬語も丁寧語もうっちゃった命令口調で、ボロミアは怒鳴った。エレスサールが小さく首を竦める。
「わかったわかった。下りる。そんなに怒鳴るな」
ひらひらと手を振って塔の方向へ歩いていく。そこが出入り口だったのか、ほどなくして主の姿は見えなくなった。
——まったく、人の気も知らずに……。
ボロミアは腹立ち紛れに傍らの石柱を殴りつけた。途端——、
ミシッ……。
きしむ音が響いた。恐る恐る柱に目を遣る。だが、異変を認める前に、後ろから鋭い叫び声が聞こえた。
「ボロミア! 離れろ!」
ぱら、ぱら、と石の欠片が落ちてくる。そのひとつが足に当たり、ボロミアはハッと飛び退いた。
「こっちだ!」
横から腕を強く引かれた。
「急げ!」
腕をつかまれて走り、頭を抱えられるような格好で石畳に転がった。背後で凄まじい音が轟き、石畳が揺れた。振動が静まり、尾を引くような余韻も収まってから、ようやくボロミアは顔を上げた。
「大丈夫か?」
心配そうな声に「大丈夫だ」と答えようとしたが、間近に迫った顔に目を見張った。
「……大丈夫ではない」
「どうした、どこか傷めたか?」
焦ったように訊く主に、ボロミアはため息を吐きそうになった。
「傷めたのはあなただろう」
石材の破片が当たったのか、倒れ込んだときに擦ったのか、彼の頬は血が滲んでいた。いたわるようにそっと頬に触れると、彼はなんだというように笑った。
「気にするな。かすり傷だ」
被った砂埃を払いもせずに立ち上がろうとする。その肩を押さえて引き留め、髪や衣服から埃を払い落としながらボロミアは言った。
「かすり傷でも、あなたが負うのは問題なんだ」
「そうは言っても……この場合、仕方ないだろう」
いささか呆れた調子でアラゴルンが呟く。それをボロミアは否定した。
「仕方なくはない」
防げたはずだ。柱の崩れも、主君の頬の傷も、自分の不注意が招いた。主の身に危険がないように付いてきたというのに……。
「かすり傷ひとつでも、あなたに負わせてはならないんだ。それが役目だというのに……。あなたに庇われた上に傷を負わせてしまった」
立場がないと、ボロミアは俯いた。
「何もそんな……気に病むことではないだろう」
「そうはいかない」
「いかないって……堅苦しいことだな」
アラゴルンは夜空を仰ぎうんざりした様子で息を吐いたが、ボロミアに向き直るとおもむろに言った。
「では、大将職を解任しようか」
ボロミアは何を言われたのか咄嗟に理解できなかった。耳から飛び込んできた音が頭の中で渦巻いているが、なかなか意味がつかめない。そんな気分で突っ立っている間にも、目の前の麗人は話し続けていた。
「大将でなければ立場を気にすることもない。秘書官か何か……とにかく武官でなければ、王を警護する義務は無くなる。わたしがあんたを守ろうと庇おうと気にせずに済む。——いい考えだろう?」
いたずらっぽい笑みに彼の意図を知って、呪縛が解ける。ボロミアは拳を握り締めた。
「そういう問題ではないだろう!」
「確かに、そういう問題ではない」
彼はくすっと笑って頷いた。
「だが、役目に縛られるようなあんたは見たくない」
「別に縛られているつもりはない」
ボロミアは憮然とした。
「だといいが……」
釈然としない表情でアラゴルンは首を捻った。
「役目に相応しい働きをするのは縛られることではないだろう」
執政家の長子として育ったボロミアは、仕える者の規範となることを求められてきた。名家の長子というのは多かれ少なかれ、そういった姿勢を求められる。中にはその手の義務を疎ましく思う者もいるらしいが、ボロミアはむしろ誇りと考え、課せられた義務を果たすべく努めてきた。
アラゴルンも野伏の長を務めていたのだから、そういった意識はあると思っていた。あの旅での彼の行動はそれを示すものであったし、だからこそボロミアも剣を託せると認識した。けれど、アラゴルンに言わせると、それはボロミアの勘違いらしい。
脱走癖のおさまらない彼に、頂点に立つ者が規範となる行動をすべきだと説教したことがある。野伏の長だったならばそれくらいわかるだろう、と続けたら、あっさり否定されたのだ。
——単独で動く野伏が“他者の規範になる”なんてこと、考えるわけないだろう。
では、旅の間、それとなく同行者を助け、気遣っていたのはどういうわけなのか。ボロミアは彼の姿に野を旅する者の心得を学んだ。そう告げると、彼は苦笑いを浮かべた。
——あの旅はわたしだけが生き残っても意味がないものだった。だから当然の義務として同行者を気遣った。規範だとか模範だとか、そんな意識はなかった。
ボロミアにはアラゴルンがそんな計算高い人間だとはどうしても思えないが、彼が断言するのだからこだわるのは止めた。野伏時代そうだったと言うなら、それでいい。だが、国を統べる者となった今、それでは困る。ボロミアは真正面から主君を見つめた。
「堅苦しいと思われるかもしれないが、上に立つ者が身分や立場を蔑ろにしては、それこそ組織が乱れる。おわかりいただけないか」
「それはわかる。わたしも蔑ろにするつもりはない」
アラゴルンは穏やかに答えた。
「だが、こだわっていては命取りになることもあるだろう? さっきは正にそうだった。あんただって、まさか、柱に潰されるのを黙って見ていろと言うわけではあるまい?」
「声をかけていただいたことには感謝するが……」
ボロミアは渋々言った。アラゴルンに手を引かれなければ、潰されずとも怪我をしていた可能性は高い。
——だが……。
ボロミアはアラゴルンの顔を見た。頬の傷は既に血が止まっているようだが、国王の顔にあっていいものではない。ボロミアは傷に触れぬよう、静かに指を伸ばした。
「大丈夫だ。すぐ治る」
アラゴルンがふわりと笑う。
「しかし……」
かすり傷ひとつとはいえ、負わせてしまったことが許せない。
「あんたはこだわり過ぎなんだ」
じっと傷を見つめるボロミアの肩を、アラゴルンが軽く叩いた。
「役目や責任、立場……、それらを考慮するのは悪いことではないが、そればかりに目を向けていると大事なものを見失う。ときには破ることも必要だ」
もっともらしく言って、にっと口の端を上げた。寛容なのは臣下としてありがたいが、彼自身懲りていないのが問題である。
「……あなたは破り過ぎだと思うぞ」
ボロミアがため息交じりに言うと、主は声を立てて笑った。
「あんたとファラミアがこだわるから、わたしがこれくらいでちょうどいいんだ」
「それには異論があるが——」
ボロミアは空を見上げた。月が先程より高い位置に昇っている。
「まずは帰ろう。夜のうちに戻れなくなる」
「そうだな……」
アラゴルンはボロミアの肩ごしを窺うように見遣った。
「なんとか下りられるだろう」
どういう意味かと思って、山道から上がってきた階段を振り返れば、その手前に横倒しになった柱が転がっていた。
「……修復作業の職人たちに申し訳ないことをしてしまったな」
ボロミアは肩を落としたが、アラゴルンはいたって気楽に言った。
「なに、倒す手間が省けたと思うかもしれない。あんたが叩いたくらいで崩れたんだ。放っておいてもそのうち倒れただろう」
柱を避けながら、階段へ向かう。
「しかし、ファラミアに言ったら大目玉だろうな」
微行を止めなかっただけでも弟の眉は吊り上がるだろうが、行き先がこの宮で、柱を倒壊させたとあっては、カラズラス越えもかくやという吹雪を吹かせてくれそうである。しばらくミナス・ティリスから離れる任務を言い渡されるかもしれない。弟であるだけに、ボロミアにとって何が一番堪えるか知っているのだ。
「ファラミアにはわたしが倒したと言っておくよ」
隣を歩く人が軽く肩を竦めた。
「な、なにを言うのだ、アラゴルン。そんなことをしたら——」
数ヶ月間は禁足措置を食らうに違いない。彼に一番効く薬である。けれど、アラゴルンは「そもそも、わたしが誘ったことだ」と言い、どうということはないと笑った。
「いや、だからといって……」
主君に罪をかぶってもらうわけにはいかない。柱の件については正直に話す——そう言いかけたとき、青灰色の瞳がきらっと光った。
「ただし、大将殿にひとつ頼みがある」
「な、なんだ?」
「またこうして付き合ってくれるかな?」
「な……」
ようするに柱の件は引受けるから、また微行に付き合えと……。
「野伏の身なりで大将殿と門で待ち合わせれば、馬で都を出てくるのも簡単だ。実に都合がいい。今度は——」
楽しげに話す主君の前にボロミアは立ちはだかり——、
「断る!」
ひと言告げて踵を返した。山道は静寂に覆われていたが、やがて後ろからくすくすと忍び笑いが聞こえてきた。まったく、どこまでも人を振り回してくれる主君である。ボロミアは道を下りきるまで、背後を振り返らないことに決めた。なぜなら——、
自分が振り返らずにいられるのは、きっとこの道を下る間くらいだから。
END
ボロミア生還設定のお話。一枚上手な王様が見たいです。——というリクエストにより、お送りいたしました。
一枚上手というより、振り回しているというか、勝手に振り回され……げふげふっ……失礼しました。ランデブー(rendezvous)は仏語の「会合、会合の約束」が元の言葉だそうです。でも、この場合は逢い引きって感じですね(笑)。
解任発言の元ネタは「フラッシュダンス」……って、古いな(^^;)
上司に食事に誘われたヒロインが、上司とは食事をしないことに決めていると断る場面が二度あります。でも、諦められない彼は三度目のトライをする。ヒロインが同じ理由で断ろうとしたら、「じゃあ、クビだ」と(笑)。
クビにすれば自分は上司でなくなり、その理由は無効になる、ということですね。もちろん、本当にクビにはしませんが。
……って、上記は字幕でのやり取りなので、英語の台詞と合っているのかわかりません(ヲイ)。
一枚上手というより、振り回しているというか、勝手に振り回され……げふげふっ……失礼しました。ランデブー(rendezvous)は仏語の「会合、会合の約束」が元の言葉だそうです。でも、この場合は逢い引きって感じですね(笑)。
解任発言の元ネタは「フラッシュダンス」……って、古いな(^^;)
上司に食事に誘われたヒロインが、上司とは食事をしないことに決めていると断る場面が二度あります。でも、諦められない彼は三度目のトライをする。ヒロインが同じ理由で断ろうとしたら、「じゃあ、クビだ」と(笑)。
クビにすれば自分は上司でなくなり、その理由は無効になる、ということですね。もちろん、本当にクビにはしませんが。
……って、上記は字幕でのやり取りなので、英語の台詞と合っているのかわかりません(ヲイ)。