Tonight's Special
燭台の蝋が切れかかったのを機に、書類を片づけたファラミアの元へ侍従長が訪ねてきた。少々のことでは顔色を変えない男が、複雑な表情を浮かべている。
——さっそくか。
ある予想をしながら用向きを尋ねれば、
「陛下のお姿が執務室より消えました」
ズバリそのとおりの返事があった。
「最後に見たのは?」
「夕食後、執務室へお戻りになったところまでは、立哨の兵士が確認しております」
既に一刻以上過ぎている。
「もう城内にはいらっしゃらないな」
ファラミアはフッと息をこぼした。
「申し訳ありません。気をつけておりましたが……」
侍従長が発見の遅れを詫びる。
「仕方あるまい。相手が悪過ぎる。あからさまに見張るわけにもいかぬしな……」
ゴンドールの王エレスサールには気晴らしと称して城を抜け出し、街をそぞろ歩く悪癖がある。時々、護衛を連れて……というレベルなら目を瞑らないでもない。が、敬愛する主君は常にこっそり単独でお出かけになる。しかも、このところ毎晩、城を抜け出しているようだった。
近習の者たちで気をつけているが、未だに脱走するところも帰還の場も押さえられずにいる。留守を押さえた翌朝に夜間徘徊を嗜めるのがせいぜいだ。それとて、年の功を如何なく発揮した王のはぐらかしには敵わず、側近一同、対処に頭を抱えている。
現場を押さえられないのも痛いが、何より問題なのは、エレスサールがどこへ出かけているのか皆目わからないことだった。庶民に交じってエールを一杯——を好む風変わりな主君だが、息抜きと称するとおり、毎晩出歩くことはなかった。今までの頻度は“しばしば”といったところだ。それがなぜ毎晩出かけるようになったのか。いったい何のために……。
——まず、行き先を突き止めなければ。
今夜から対処方法を変更した。エレスサールを見張るのはこれまでどおりだが、脱走防止やその現場を押さえることに血道を上げるのは止め、抜け出した彼を追うことにした。
だが、追うとしても、こちらの追尾を許す相手ではない。撒かれるのがオチである。結局、なるべく早く脱走を察知し、心当たりを当たるという消極的な手段を取るしかなかった。
「とにかく捜してみよう。下層へお出かけなら、まだ間に合うだろう」
ファラミアはマントを羽織った。
「遅くまですまなかった」
「ご武運を」
侍従長に見送られ、ファラミアは足早に執務室を後にした。
◆◇◆◇◆◇◆
イシリアンの野伏からエレスサールらしき姿を見たという報せを受け、ファラミアは第一環状区へ向かった。
「あそこか」
葡萄の房の看板がかかった宿屋を見遣り、ファラミアは傍らの野伏に確かめた。
「はい。ですが……」
頷きながらも、野伏は歯切れの悪い言葉を返した。
「陛下はまだ中にいらっしゃるのだろう?」
ですが……の後に「もういらっしゃいません」なんて言葉が続いては堪らない。そう思って念押せば、野伏はあっさり「はい。いらっしゃいます」と答えた。しかし——、
「ですが……」
煮え切らない言葉がくっつくのは変わらない。いったい何なのだと思いながら、ファラミアは宿屋へ足を踏み出した。
カランカラン……。
扉を引くと上でベルが鳴った。酒場特有の喧噪に包まれる。燭台がそこここで灯っているが、中は薄暗かった。間口は狭いが奥の深いつくりで、一見してすべての客を把握するのは困難だった。
——さて、どこにいるのか。
ファラミアはフードをかぶったまま、カウンターに近づいた。注文しながら、主の人相を尋ねようと思ったのだが……、
「いらっしゃ……」
カウンターの中で振り返った人を見て絶句した。
「……陛下」
「ファラミア……」
青灰色の目を見開き、こちらを見つめている人は、まぎれもないファラミアの主君だった。外にいた野伏が言葉を濁したのも当然だ。王が腰に黒いエプロンを巻き、酒場のカウンターに立っている——とは、とても口にできないだろう。
目を剥く光景だが、緩くうねる黒髪を後ろで束ね、手に木杓子を持っている姿はなかなかお可愛らしい……などと観賞している場合ではない。
「何をなさっているのですか!」
ファラミアはカウンターに乗り上がる勢いでエレスサールの襟首をつかんだ。
「何って……手伝いだ」
カウンター越しに襟元を締められながら、エレスサールはのんきな答えを口にした。
——誰がそんなことを訊いた。
ファラミアの頭の中でピシリと不穏な音が鳴った。
「わたしがお訊きしているのは、なぜ、あなたが酒場のカウンターに立っているかということです」
すっと息を吸い、ぎろりと睨みつける。
「あなたの居る場所ではないでしょう!」
「まあ、そうだが……そう頭の固いことを言うな」
のんびりと答えながら、手を放してくれというようにファラミアの腕をとんと叩く。
「これは頭の固い、やわらかいの問題ではありません」
ファラミアは手を緩めて言った。
「とにかく帰りましょう。話はそれからです」
ここで押し問答をしていても埒が明かない。それに、酒場のカウンターにいつまでも国王を立たせておくわけにもいかない。しかし、エレスサールはきっぱりと言った。
「いや、まだ帰れない。やることが残ってる」
「何をおっしゃっているのです!」
思わず声が高くなる。
「ここはあなたの居る場所では……」
再び襟首をつかみ、詰め寄ろうとしたところ、エレスサールの背後から「おい」と声がかかった。
「何してるんだ。大丈夫か?」
目を向ければ、続きの厨房から壮年の男が出てくるところだった。この宿の亭主だろうか。袖まくりした右手に包帯を巻いている。
「ああ、なんでもない。大丈夫だ」
エレスサールが振り返った。ファラミアも仕方なく手を放す。
「そうか? ——お客さん、どうかなさいましたかね」
男は訝しげな顔で近づいてきて二人を見比べ、ファラミアの顔を覗き込んだ。
「彼を迎えに……」
とにかくここから主を連れ出そうと思い、ファラミアは口を開いた。が、自分を見る男の表情が激変したため、つい言葉が途切れた。
「……ファラミア様」
男の口から掠れた声が漏れる。どうやらファラミアの顔を知っていたらしい。この街で生まれ育ったせいもあるのだろうが、自分は予想以上に顔を知られているらしい。それで国王の顔を知らぬというのはけしからぬ話だが、エレスサールが北方の出身で、戴冠したのが数年前ということを考えると致し方ないと言える。
「どうして……」
口をぱくぱくさせながら、男はまじまじとファラミアを見つめ、やがて隣のエレスサールの脇をつついた。
「おい。こりゃいったいどういうわけだ」
執政職を務める者が第一環状区の宿屋に来て、手伝いの男に用があるというのは普通では起こり得ない。彼が疑問を抱くのも当然だ。ファラミアは厳かに答えを告げた。
「彼はわたしの主だ」
エレスサールが心地悪そうに目を逸らす。
「あるじ……って……」
男の目が、今度はエレスサールに釘づけになった。
「まさか……」
エレスサールが観念したように頷く。男の喉から、ひゅうと声とも息とも付かぬ音が漏れた。その身体がカタカタと震え出す。
「おい、大丈夫か?」
エレスサールが男の肩に手を置き、気遣う声をかけたが——、
「じょ、冗談じゃない!」
男は叫ぶや、エレスサールの手をはね除けた。
「王をこき使ったなんて、首を刎ねられちまう!」
手を握り締め、ぶるりと肩を震わせると、エレスサールの背中をぐいと押した。
「さあ、もういいから、帰ってくれ……いや、どうかお帰りになってください」
ぐいぐいとカウンターから、エレスサールを押し出そうとする。
「おい……」
追い出されそうになり、エレスサールが戸惑った声を上げた。
「だが、まだ手が治っていないだろう」
気遣う青灰色の眼差しの先に、包帯を巻かれた男の手があった。
「もう大丈夫です。痛みも引いたし、かなり動かせるようになった」
男は右手をエレスサールの眼前に突き出し、言葉を証明するように握って開いてを繰り返した。
「……そうか」
エレスサールは苦笑した。気のせいか、その表情はさみしげに見えた。
「ならいいが、無理はするなよ」
「ご心配なく」
答えた男の口調はややきつかった。強がっているのか、エレスサールの正体を知ったことで気を張っているのか……。
「すまないな。最後まで手を貸せなくて」
エレスサールがぽんと男の肩を叩く。男はぎょっとし、慌てたように首を振った。
「いいえ、とんでもない」
「それから、首は刎ねられないから安心しろ」
「あ、はい……」
「楽しかった。ありがとう」
エレスサールはエプロンの紐をほどき、壁に掛けてあったマントを取ると、ファラミアを振り返った。
「行こうか」
◆◇◆◇◆◇◆
「——では、火傷した亭主を気の毒に思って、手を貸してらっしゃったわけですか」
エレスサールを連れ帰る道すがら、ファラミアは“手伝い”の訳を聞いた。
「まあ、そんなとこだ」
十日程前、あの宿屋で客同士の喧嘩があったらしい。酒場での喧嘩は酔っ払いがやり合うから、どうしても派手になる。一人がカウンター内に乗り込み、沸騰している鉄瓶に手をかけた。それを止めようとした亭主の右手に、鉄瓶の中身がかけられた——というのが、あの包帯の理由だった。
包丁を握る者が利き手を負傷しては確かに気の毒だ。給仕を一人雇っているらしいが、亭主に代わって厨房に立てるほどの料理の腕はない。手を動かせるようになるまで店を閉めることになる——そう肩を落としている姿を見ていられず、エレスサールは手伝いを申し出たわけだ。まったくお人好しにも程がある。
「つまり、その事件があった夜も、陛下はあの宿屋においでだったのですね」
エレスサールの性格を考えれば、鉄瓶の中身をかけられていたのは彼自身だったかもしれない。そう思うとぞっとする。
「そのような危険な場所へお出かけになるのは……」
「別段、毎晩、乱闘騒ぎがあるわけじゃない。たまたまだ」
釘を刺そうとするファラミアの言葉を、エレスサールの慌てた声で遮った。
「それに、わたしが立ち寄ったのは騒ぎのあった後だ」
「それこそ“たまたま”ではありませんか」
万が一、乱闘騒ぎの真っただ中に行き合っていたらどうなっていたのか、この主はどう行動するのか。素直に避難してくれそうにないから、気を揉むのだ。
「慎重に行動なさってくださいと、これまで何度も申し上げて参りました。侍従長や近衛隊長も心配しております」
数えきれないほど呈してきた苦言を繰り返す。
「わたしどもの気持ちを少しは考慮していただけませんか」
言質を取るべく、やんわりと問いかけたが、隣から返事はなかった。仕方なく意地の悪い質問をする。
「それとも、臣下の心配は要らぬお世話でしょうか」
「そんな……」
効果は抜群。エレスサールの足が止まった。
「そんなつもりはない。要らぬお世話などと……」
青い瞳がフードの下で揺れる。
「いつも……心配をかけてすまないと思っている」
低い声が石畳に落ちた。気楽に微行を繰り返す主だが、周囲の者が「万が一のことがあっては……」と心配しているのを知らないわけではない。だから、そこにつけ込む。
「では、もう少しご自重いただけませんか」
「……できるだけ、気をつける」
返ってきたのは呟くような声だったが、ファラミアは満足した。
「では、参りましょうか」
主を促し、歩き出す。その後、長い間、無言が続いたが、環状区を上へと進み、賑わいが途絶えたところでエレスサールがぽつりと訊いた。
「——わたしを見つけたのはイシリアンの野伏か?」
「ええ。そうです」
「手間をかけさせたな。すまなかった」
「どういたしまして」
ファラミアは微笑で答えた。
「ついでにもうひと手間かけさせていただいて、館にお誘いしたら乗ってくださいますか? 夜食をご用意いたしますよ」
「いいだろう」
エレスサールが笑った。しかし、その笑顔は一瞬で、ふと何かを思い出したような表情に変わった。
「——考えてみれば、残念だったな」
「何がです?」
「あそこの宿はチキンの煮込みが評判なんだ。そのうち執政殿に食べさせたいと思っていたんだが……」
機会を逃してしまったというふうに、エレスサールは苦笑した。自重すると言ったそばから何をのんきなことを! ——と思わないではなかったが、お気に入りの煮込みについて「中まで味が染みていて、やわらかいんだ」と微笑ましく話す姿を目の前にしては、怒る気も失せてしまう。
まだまだ自分も甘いと思うが、いたし方ない。彼がうれしそうに笑っていることが、ファラミアにとって歓びになるのだから。どんな労苦も、主の歓びがあれば吹き飛んでしまう。
エレスサールは癒し手の持ち主だが、その技を用いる必要がないほど、彼の存在は癒しだ。独り占めしたくなるほどに——。
「構いませんよ。わたしはスペシャルメニューをいただきますから」
ファラミアは湧き上がった想いそのままのことを口にした。
「スペシャルメニュー?」
エレスサールがこくりと首を傾げる。
「執政館の夜食にはそんなものがあるのか?」
「夜食のメニューにはございませんが——」
ファラミアは周囲に人目がないことを確かめながら足を止めた。
「ここに……」
エレスサールのフードを落としながら、その首に手をまわし、束ねられたままになっている髪をほどく。かすめるように口づけてから、そっと囁いた。
「たっぷりいただきたいと思います」
END
お茶目な王様の世話を焼いているけど、実は王様に救われてたり依存してたりしてる執政——をお送りしました。……って、あまり依存している様子が出ていませんね(^^;)すみません。
自分で迎えにいき、(城に送るのではなく)自分の館に連れ帰ってしまうあたりが“依存”と、そういうことで……。<こら
自分で迎えにいき、(城に送るのではなく)自分の館に連れ帰ってしまうあたりが“依存”と、そういうことで……。<こら