夜遊び
陽光の下では呼称どおり壮麗なる白い姿を誇る都も、夜の帳が下りれば暗闇に沈む。だが、暗い冷たさはない。夜警の篝火と家々から漏れる灯りは、昼間とは異なる賑わいとあたたかみがあった。
最上層の第七環状区は篝火の数が目立って多い。王の御座所であるため警備が厳重なのだが、夜間、城を抜け出す国王を阻むため、夜警の数が多くなっている——と、衛兵の間でまことしやかに囁かれている。もっとも、その真偽を問えば、誰もが肩を竦めて首を振った。
一方、建物の窓から漏れる灯りは、他の環状区より少なかった。文官の多くは日が沈めば帰宅する。書物を繰るには明るい日中のほうが効率が良い。それでも、復興の道を歩む国政の場は多忙であり、塔や建物の窓の幾つかからは灯りが漏れていた。そんな窓のひとつに執政の執務室があった。
ファラミアはため息を吐き、読んでいた書類を巻き直した。元どおり箱に収め、一緒に提出されてきた資料と共に棚へ置く。
「返却ですか」
残っていた部下が苦笑しながら訊いた。
「ああ。緊急を要するものではない」
アンファラス方面の領主たちの連名による、街道整備の陳情書だった。確かにあちらのほうに大きな街道はない。だが、アンファラスには海路という代替手段がある。比較的大きな船の場合、エゼルロンドまで行かねばなるまいが、現地には浜に合った暮らしがある。
背後にピンナス・ゲリンがあり、住民は地の実りも海の恵みも享受し、過不足ない生活をしている。道があれば便利になる面もあるだろうが、急を要することではない。
モルドールは滅亡したが、長く続いた戦いの影響は大きく、ゴンドールの国庫に余裕はない。緊急を要する件へ効率よく資金をまわそうと、諸侯に領内で緊急の要件があるか尋ねたところ、出てきたのは緊急性のないものばかりだった。
彼らも領を持つ主のため、単に提案を却下してもなかなか納得しない。意見を覆す証を得るために調査が必要になる。主君が止めなければ、調査費用を請求しているところだ。
実際のところ、調査に大して費用はかからなかった。変わり者のエルフの道楽と、北方の野伏が蓄積してきた資料で事足りたおかげだ。そうでなければ、いくら主が止めてもファラミアは費用を請求していただろう。そうすれば、彼らも二度と的外れな提案をしようとは考えるまい。いい薬だ。
——費用の請求をほのめかしておくか。
本当に払わせる気はないが、警告になる。そう思ったが、
——ファラミア……。
苦笑交じりの主君の声が耳に蘇った。
——警告は次の機会にするか……。
そんなことを考えながら、ファラミアは机の上を整理し、マントを手にした。
「お送りします」
すかさず立ち上がった部下が、ファラミアの羽織ったマントを見て呆れたように笑った。
「まだそのマントをお使いなんですか」
野伏時代のマントだった。
「一人歩きに重宝している」
日中、城の中を歩くときは立場に合う身なりを心がけている。それもまた務めのひとつだ。だが、夜間、一人で城を出るとなると事情が違ってくる。一目で身分がわかるような姿は避けたほうがいい。
先月、第六環状区で老貴族が襲われ、怪我を負った。同じ環状区に住む貴族の子弟二名が、老人に叱責されたことを逆恨みして起こした事件だった。行きずりの強盗が横行する心配はない環状区でも、私怨ならば襲われる可能性はあるのだ。そして、恨みを買う覚えならたっぷりあるファラミアだった。最低限の用心をしておいて損はない。
「それでは、あまり陛下のことを言えませんね」
「一緒にしてくれるな。あの方は普段から軽装を好むのだから」
あまり変わらないような……という呟きにファラミアが睨むと、彼はひょいと首をすぼめ、慌ててマントを羽織った。燭台を手にして、他の灯りを消していく。部屋を出る直前、その燭台の灯も消し、脇の台に置いて扉を閉めた。
「足の具合はどうだ?」
彼はイシリアンの野伏だった。指輪をめぐる戦いの中、左脚を負傷した。その傷が元で、僅かに左脚を引きずるようになった。日常の不便はないそうだが、野伏を続けるには支障があると引退した。その後の身の振り方が決まっていないと聞き、文官にならないかと声をかけた。彼が快諾し、今に至っている。
「最近はいいですよ。この前の冬もあまり痛まなかったし……、雪の降ったときはさすがに響きましたが」
彼は屈託なく笑った。
「そうか」
「閣下こそ、大丈夫ですか? 近頃、お顔の色が悪いですよ」
「心配ない」
確かに寝台に倒れ込むような日もあるが、それでも、以前のような逼塞感はない。東の空を覆う影は払われ、今、この国には善き王がおわすのだから。
「ようやく国の未来が明るくなったのだ。倒れている暇はない」
「そうですね。でも、無理をなさらないでくださいよ」
「ああ」
部下の気遣いをありがたく感じる一方、心配させるようではまだまだかとも思う。
「そっちも無理はするな」
彼も自分に付き合うかのように残っているのだから、他人の心配をしている場合ではない。
「大丈夫です。しぶといのが売りですから。なにしろ、あの戦いを生き残ったんですから」
説得力があるでしょう——と、部下はのんきに笑ってくれた。
「それなら、わたしも同じだ」
「ああ、そういえば……。では、二人とも——」
「しぶとい、ということだ」
二人は軽く笑いながら城塞へ出た。第六環状区へ下りる隧道へ向かう。現在、第七環状区を生活の場とできるのは王と王妃に限られている。ファラミアが決めたことだ。寛容な王は「執政殿も最上層に暮らしたほうが便利だろう」と、ありがた過ぎるほどのお言葉をくださったが、それでは王の御世となった示しがつかない。謹んで辞退した。
「まだ、働いている者がいるんですね」
部下が塔を見上げて言った。
「ああ、そうだな」
ファラミアも塔へ目を遣った、そのとき視界の端に人の影が走った。足を止め、目を凝らす。
「どうなさいました?」
——今のは……。
目に映ったのは一瞬。だが、その一瞬で充分だった。疑惑を抱く間もなく確信する。
「用ができた。すまないが、館へ伝言してくれ。帰りが遅くなる、ひょっとしたら明日になるかもしれないと」
「あの……、ご用なら、お伴いたします」
「一人でいい。それより伝言を頼む」
ファラミアは影の見えた方向へ駆け出した。
塔をまわり込み、城塞に並ぶ建物に目を凝らす。耳が微かな物音を捉えた。そちらへ向かって走ると、建物の角でマントの裾がひるがえった。相手は既に気づいている。追いつけるだろうかと足を速め、角を曲がったところで、ファラミアは危うく叫び声を上げそうになった。待ち構えるように立っていた人物とぶつかりそうになったのだ。
「見つかってしまったな」
相手はゆっくりとフードを脱いだ。思ったとおり、緩やかにうねる黒髪と青灰色の瞳が現れる。ファラミアが仕える主君、エレスサールの姿がそこにあった。黒っぽいコートに粗末なマント、銘の無い剣。すっかり微行姿だ。口許には笑みが浮かんでいる。「見つかってしまった」と言いつつ、困っていないのだ。
「お戻りください。陛下」
ファラミアは腕を取ろうとしたが、彼はすっとそれを躱した。
「否と答えたら?」
挑発するような表情で軽く首を傾げる。ファラミアはゆっくりと一歩退いた。離れ過ぎては逃してしまう。だが、近過ぎては攻撃に対処できない。
エレスサールは暴力を好まないが、いざとなれば使用を躊躇わない。近衛兵の足を払った前科がある。ファラミアは慎重に間合いをはかった。彼が本気になれば、自分が敵わないことは承知の上だが、「いってらっしゃいませ」と送り出すことはできない。
「見逃す気はないわけだ」
「はい」
「……そうか」
エレスサールはふうっと息を吐いた。同時に彼の纏う気配が和らぐ。まだ油断できないが、どうやら諦めてくれるようだ……と、思ったとき、主の右手がファラミアに向かって差し出された。
「では、ご一緒にいかがかな? 執政殿」
どういうことか意味を計りかねた、その一瞬を逃さず、彼は間合いを詰めてきた。
「一緒に夜の散歩を楽しまないか?」
「……なるほど、わたしを脱走の共犯になさるおつもりですか」
ファラミアは主君を睨んだ。まったくタチの悪い人だ。
「共犯などと人聞きの悪い。夜の街を一緒に散歩しないかと尋ねているだけだ」
「それは詭弁というものです。夜遊びをなさりたいだけでしょう」
素っ気なく言ったが、エレスサールは気にした様子もなく、楽しげに笑った。
「そう、夜遊びだ」
すっと優雅に伸びた手がファラミアの右手を取った。恭しい仕草で持ち上げられ、両の手で包まれる。
「ファラミア」
首を傾げ、やや顎を引いた上目遣いの視線がファラミアを捉えた。闇の中で迫る青灰色の瞳は濡れたように潤んでいる。我知らず、こくりと喉が鳴った。
「付き合ってくれないか? 何より——」
ささめごとに相応しい、少し掠れた声が耳朶を震わせる。
「夜遊びは一人より二人のほうが楽しい」
誘惑の声は背筋に痺れが走るほど甘美だった。
「いいだろう?」
気がつけば、ファラミアは頷いていた。
◆◇◆◇◆◇◆
執政とその護衛は堂々と環状区の門を通り抜け、第四環状区まで下りてきた。ファラミアが「所用がある」と言えば、大抵の者は深くは問わない——とはいっても、門番の誰一人として国王だと気づかないのは、かなり問題があるのではないか。
「誰も気づかなかっただろう?」
隣から楽しげな声がかかる。
「問題ですね。こんなにたやすいとは」
ファラミアは唸った。これでは治安面で大いに不安だ。
「もしかして、普段も門から出入りなさっているのですか?」
門を通ろうと主張したのはエレスサールだ。執政の護衛なら疑われないと。事実そのとおりで、彼らはフードを被っている男を検めようともしなかった。ひょっとすると、普段の微行も“国王の使い”や“執政の使い”で誤魔化しているのではと疑念が湧いた。
「まさか」
エレスサールは笑いながら首を振った。
「夜間の通行は顔を検めるのが基本だ。今晩それがなかったのは、信頼厚い執政殿のおかげだ。あなたが身元保証しているのなら大丈夫だと、彼らは判断した。それともうひとつ——」
エレスサールは篝火の焚かれた城塞を見上げた。
「上の環状区から来た人間は、外部からの侵入者とは考えにくいからだよ。彼らには、上層の環状区へ怪しい者は通していないという前提があるんだ」
「それは危険な思い込みではありませんか」
ファラミアは眉を顰めた。エレスサールの言うとおり、身元の怪しい者が上層の環状区へ入るのは難しい。けれど、老人を襲った放蕩息子たちのような例もある。身元は確かでも犯罪者の可能性はあるのだ。
「確かに危険だが、今晩、素通りできたのは特別だ。さっきも言ったように、執政殿の同行者であること、上の環状区から下りてきたこと——二つが揃って初めてまかり通ることだ。他の場合では通用しない」
エレスサールは確信した口振りだが、ファラミアにはそう簡単に不安を払拭できなかった。
「そうでしょうか。わたし以外の者、高官や諸侯でも可能ではありませんか」
「やってできないこともないが……、彼らがやるときはせいぜい怪しまれないよう、貴族のお付きに相応しい身なりをさせるだろう。当然、顔を晒すことになる」
それもそうかと、ファラミアは隣を眺めた。他の貴族たちはこんな怪しげな風体の者を連れて歩きたがらない。連れていてはいたって怪しまれるだけだ。ファラミアが咎められなかったのは、イシリアンの野伏の長だったという前身のおかげだろう。
「北方の野伏が言うには、夜間、第七・第六環状区の門を通るときは、わたしの書簡を持っていても面を検められるそうだ。門番はきちんと仕事をしている」
心配するなと笑い、エレスサールは小路へと道を逸れた。特にややこしい道順を取るでもなく、エレスサールは小路を二度曲がり、隔壁沿いに立ち並ぶ建物の前で足を止めた。
「ここだ」
頭上に、鷲らしい鳥の形をかたどった看板がぶら下がっている。エレスサールはもの慣れた様子で扉を開けた。
「……っしゃい」
入り口近くにいた男がにこやかな声とともに振り向いた。客に対するごく普通の態度だったが、エレスサールがフードの端を持ち上げると、それは一変した。男は瞠目し——、
「お久しぶりです!」
感激の叫びを上げ、飛びつくようにファラミアの主君の肩を抱いた。
「ああ、しばらくだった。元気そうで何よりだ」
「そちらこそ、お変わりなく……。お忙しいでしょうに、お運びいただきありがとうございます」
「なかなか来られなくて残念だ」
「そんな……、お出かけになるだけでも大変でしょう。今以上にお越しになったら、かえって心配になりますよ」
どうやら、彼はエレスサールの身元を承知しているようだ。いったいどういう人間なのだろう。
「……と、失礼。今夜はお連れの方がいらっしゃるようで……」
男がファラミアのほうを向いた。ファラミアもエレスサールに倣って、フードの端だけを持ち上げた。入り口から見えるカウンターに客が二人座っている。見覚えはないが、あちらが自分の顔を知っているかもしれない。顔を晒すのはまずい。
「……ア様」
ファラミアの顔を確認し、男はあんぐりと口を開けた。
「驚かせてすまない」
エレスサールが落ち着かせるように男の肩に手を置いた。
「あ、いえ……、ようこそおいでくださいました」
男はそう言ったものの、茫然としていた。
「空いているかな?」
エレスサールが席を尋ねると、男はハッとして、入り口脇の階段を指した。
「あぁ……はい。どうそ上をお使いください」
「ありがとう。上がっていいかな?」
「どうぞ。すぐに料理をお持ちします」
その声に手を挙げて答え、エレスサールは階段を上がっていった。ファラミアも後に続く。階段を上がると、エレスサールは当たり前のように扉の開いている部屋へ入った。たとえテーブルは別でも、自分たちが他の客の間に座るのはどうかと思ったが、その部屋に人はいなかった。
暖炉の火が照らす部屋は、落ち着いた調度品で飾られていた。テーブルにはグラスとカトラリーがセットされている。燭台のまわりには花が飾られ、まるで祝いの席のようだ。部屋の隅にも花が生けられている。織り模様の入ったあたたかな色合いのカーテンをめくると、幾つかの街灯りと小路が見えた。大切な客をもてなすための個室だ。大切な客といっても、店にとってとは限らない。店を利用する者にとって大切な客——というケースが多いだろう。
貴族をはじめ、位の高い将や官吏、豪商たちが人をもてなすときは自邸に招く。礼を失しないだけの屋敷があり、客の舌を楽しませる料理人も抱えている。しかし、それは限られた者たちの話だ。ミナス・ティリスの住人すべてが料理人を雇っているわけもない。家族に料理上手な人間がいればいいが、独り暮らしの男が自宅に人を招いたとして、どんな料理を振る舞えるというのだろう。
また、独立前の貴族の子息も自邸に人を招くには微妙な立場だ。親の同意が必要になる。承諾を得たとしても招待主が自分ではなくなり、親の意向で話が進む可能性が高い。この部屋はそういった者たちのもてなしの場、社交の場となっているのだろう。
「ファラミア、座っていてくれ」
声に振り向くと、エレスサールが部屋を出て行くところだった。何事かと足を踏み出したところ、脇の壁を指された。
「マントはそこに掛けてくれ」
壁に金具が据え付けられ、既にエレスサールのマントがぶら下がっていた。そちらに目を遣った隙に、主の姿は戸口から消えた。
——どこへ……。
慌てて駆け寄ったところ、開いたままの戸口からエレスサールが顔を出した。
「葡萄酒は何がいい?」
「……葡萄酒?」
咄嗟に意図を計りかね、鸚鵡がえしに訊いてしまった。
「レベンニン、ドル=アン=エルニル、ベルファラス……、どれも赤と白、両方ある」
産地を上げられ、これから飲む葡萄酒の好みを訊かれていると了解した。自分の好みで決めてしまわず、臣下に尋ねるあたりがいかにもエレスサールらしい。そして、食事との相性を考えないところもらしかった。
「料理はどんなものが?」
「訊いていないが……夕食を済ませていることはわかっているから、そんなにしっかりした物は出てこないだろう。酒肴の類だ」
「では、レベンニンの白を」
エレスサールはわかったと頷き、顔を引っ込めた。ファラミアはマントを脱いで廊下に出た。壁に沿って瓶の首が突き出した棚があり、そこからエレスサールが瓶を一本取り出していた。二階へ上がってきた様子といい、かなり勝手を知っているようだ。
「ずいぶん足繁くこちらにお通いなんですね」
エレスサールを部屋に招き入れながら、ファラミアは尋ねた。しかし、彼は意外そうな表情で首を傾げた。
「足繁く、というほどでもないよ」
「ですが、店の中をよく存じてらっしゃる」
「二、三度来れば覚わる」
エレスサールはファラミアをテーブルに促し、どこから取り出したのか専用のナイフで栓を抜き始めた。これでは自分が手を出すどころか、口を挟む間もない。ファラミアが突っ立っている前で、彼は手際良く栓を抜いた。
「座ったらどうだ?」
不思議そうな顔でそんな提案をしてくれる。ここで自分が腰を下ろしたら、誰が葡萄酒を注ぐのか……。主君の微行に付き合わされた執政——なら、過去に存在したかもしれない。しかし、主君に給仕させる執政は前代未聞だろう。
「わたしが……」
そう声をかけたとき、扉の叩く音がした。
「失礼します」
エレスサールが答えると、先程の男が盆を手にして入ってきた。
「こちらは鱒のマリネ、ハムと玉葱を合えたもの、子鹿のローストになります」
「ありがとう。あとは勝手にやるよ」
「ごゆっくりどうぞ」
男は一礼して出て行った。足音が遠ざかるのを聞いてから、店に入って以降、気になっていることをファラミアは訊いた。
「どういうお知り合いなんですか?」
「さあ」
エレスサールは答えず、ただ肩を竦めた。
「さあって……」
「とりあえず、座らないか」
そう言って、エレスサールは椅子を引いた。仕方なくファラミアは腰を下ろしたが、彼は立ったままだった。
「乾杯しよう」
さっと葡萄酒の瓶を取り上げ、ファラミアのグラスに傾けた。トクトクトク……、心地良い音を立てて、黄金色にほんのり色付いた液体がグラスを満たしていく。
——だから、なぜ、ご自分でなさるのです……。
ファラミアはひっそりと心の内で呟いた。口に出しても事態が一向に変わらないことは、短い付き合いの中でわかってしまっている。エレスサールは手早く自分のグラスにも葡萄酒を注ぎ、腰を下ろした。
「では乾杯」
にこりと笑ってグラスを持ち上げる。
「何にでしょうか」
「執政殿が付き合ってくれたことに」
こんな台詞をうれしそうに言うから扱いにくいのだ。
「今後は控えていただきたいですが」
ファラミアはグラスを手にしたが、釘を刺すことは忘れなかった。
「わかってる。——乾杯」
カチリとグラスを合わせ、エレスサールは葡萄酒に口を付けた。
「うまいな。香りもいい」
二口ほど飲み、子鹿のローストに手を伸ばしかけたが、ファラミアが口を付けていないことに気づいたのだろう。怪訝な顔で首を傾げた。
「飲まないのか?」
「気になることがありますので」
ファラミアの脳裏に店に入ったときの光景が蘇る。あの飛びつかんばかりの歓迎ぶりは気になった。しかし、日頃から感覚のズレのある主君はここでもズレていた。
「気になること? 葡萄酒に何か入ってたか?」
もしそうだったら大問題だ。のんびり「気になることが」などと言っているわけがない。
——あなたに飲ませていません。
こめかみを押さえながら、ファラミアは口を開いた。
「そうではなくて、先程のお話です。どういったお付き合いなんです? こちらとは」
「ああ、そのことか」
なんだ、という顔でエレスサールは言った。
「以前、道で絡まれていたのを助けた」
なんでもない口調だったが、これで誤魔化されていてはこの王の補佐は務まらない。
「それだけですか?」
「ああ」
他に何か? と、首を捻る姿は隠し事があるようには見えなかった。最初の問いかけを「さあ」とはぐらかしたのに、意味はなかったということか。とにかく一点だけは追求しておこうと、ファラミアは口を開いた。
「ようするに、そのときもお忍びだったのですね」
念押すと、青灰色の瞳が恨みがましくこちらを一瞥した。
「頭の固いことを言わないでくれ」
「頭が固いのは生まれつきです。——それで、そのときからこちらに?」
「まあね。気になったし……。それに探していたんだ。あまり下まで行かなくても良い場所を。ほら、第二や第一の環状区だと、どうしても行き来に時間がかかるだろう?」
そう思わないか、と同意を求める顔はなんというか……無邪気ですらある。こういうとき、この人は感覚がズレているのではなく、頭のネジが緩んでいる、もしくは二、三本抜けているのではないか、と大変失礼な懸念を抱く。それが要らぬ心配だということくらい、日頃の執務で充分わかっているが……。脱力しそうになる己を叱咤し、ファラミアは顔を上げた。
「お出かけにならなければ、そのようなご心配はご不要かと」
「それは、そうだが……」
はぁ、と息を吐いて、エレスサールは子鹿のローストをつまんだ。
「執政殿は夜遊びに興味はないか」
「そんな年齢はとうに過ぎました」
「そうか……」
もぐ、とローストを咀嚼しながら、彼はつまらなさそうに呟いた。
「わたしは過ぎていないようなんだが……どうしたものかな」
思わず吹き出しそうになる。エレスサールの場合、夜出かけるといっても毎晩出歩くわけではない。ましてや、貴族の子弟がやるような悪所通いでもない。安宿でエールを飲んだり、そういう場での賭けに加わったりはあるらしいが、限度は弁えている。いわば息抜きだ。
「ほどほどになさってください」
ファラミアはいくらか表情を緩めて、ため息を吐いている主君に声をかけた。
「それにしても、お探しになったせっかくの場所に、わたしのような者を連れてきてよろしかったのですか?」
「なぜ?」
彼はきょとんと首を傾げた。
「次から真っ先にここを捜しますよ」
手加減はしませんよ、とファラミアは笑う。
「構わないさ。行き先はここだけじゃない」
エレスサールは余裕の表情で、さらりと言った。やはりそうかと思ったが——、
「それに、あなたが迎えに来てくれるのなら、悪くない」
にこりと目を細められたのには参った。こういうことを意識せずにやるから困るのだ。ファラミアは葡萄酒をひと口飲んで言った。
「では、どこへでもお迎えに参じられるよう、陛下のお馴染みの場所をすべてお教えいただけますか?」
少しは困ってくれるかと思ったが、声に力が入っていたのか、表情が硬かったか……。エレスサールはファラミアの裡を見透かしたように、くすりと笑った。
「順番にね。また、夜遊びに付き合ってくえれたら、教えるよ」
これだから手に負えないと、ファラミアは鱒のマリネを口に運んだ。
——いいだろう、別の機会に訊くこともできる。
とりあえず、今夜はここへ迎えに来たつもりになればいい。連れて帰る先が国王の私室ではないかもしれないが。ファラミアはグラスを傾け、青灰色の瞳に微笑んだ。
END
ハオト様からのリクエスト「お忍びでミナスティリスを散歩するアラゴルンについて行くことになったファラミア」をお送りしました。

「散歩」ではなく、飲み食いしているだけのような(汗)……。「ついて行くことになった」というより、誑かされてなし崩しといったほうが正しいでしょうか。

執政が迎えに行った場合、王を連れ帰るのは執政館ばかりになりそうです(職権乱用)。