湯煙の効能
書記官が書類箱を持って扉を出ていった後、アラゴルンはぐいと腕を伸ばし、大きく息を吸った。久しぶりに執務が早く片づいた。窓の外はまだ明るい。
——出かけるかな。
夕食後、アラゴルンはさりげなく人払いをし、私室化している隣室へ引き取った。地味なコートに着替え、使い込んだ剣を佩いて灰色のマントを羽織る。懐に小銭の入った革袋をしまい露台へ出た。ちょうど太陽が山際に隠れたところだった。薄闇は生半可に見える分、真の闇より人を油断させる。
アラゴルンは灯りのともりはじめた街へ下りていった。
◆◇◆◇◆◇◆
軍務の高官たちとの夕食を済ませ、館へ引き取ったイシリアン公ファラミアの元に、思わぬ客が訪ねてきた。灰色のマントと地味なコートを纏い、書斎の窓枠を叩くという、夜這いのような経路で入ってきたのはファラミアが膝を折った主、エレスサールだった。
雨でもないのに濡れそぼった姿で現れたエレスサールは、開口一番——彼にしては珍しいことに——湯を使わせてくれと言った。
理由は訊かなくてもわかった。エレスサールから酔いそうな匂いが漂ってくる。芳醇なうまみと少々の苦み、そして爽快な喉越しを連想させるそれは、間違いなくエールの匂いだった。
白い泡の立つジョッキからならわかるが、なぜ、主から立ち昇っているのか。どんなに大量に飲んでもこうは匂うまい。第一、そんな度を超した飲み方はしない人だ。その謎も、湿り気を帯びた髪やマントの陰に覗く服の染みを見れば一目瞭然だった。主の服がエールを浴びたのだ。
それだけわかれば後は尋ねるまでもないこと——だが、ゴンドールの王がエールを浴びるに至った経緯は聞いておかねばならない。それに、物わかりのいい臣下の顔で黙認するのは
——つまらぬではないか。
ファラミアは湯の支度を用人に申しつけると、主君に向き直った。
「陛下。ただいま支度をしておりますゆえ、今しばらくお待ちください」
「ありがとう。世話をかけるな」
エレスサールは詫びるように軽く顎を引いた。
「いいえ。とんでもない」
ファラミアはにっこりと笑い、主のマントを取りながら尋ねた。
「ところで、いったいどちらへお出かけだったのです?」
「えっ……と……」
途端に、主君は口ごもった。
「その、ちょっと下層に……」
ちらちらとファラミアを窺いながら、言葉を濁す。それで誤魔化そうというのだろう。そうはさせじとファラミアは問い質した。
「第一環状区ですか? それとも第二でしょうか」
一瞬詰まったエレスサールだったが、諦めの息とともに言った。
「第二だ……」
だが、環状区がわかっただけでは満足できない。ファラミアは更に質問を重ねた。
「第二環状区のどちらです?」
「え……と、東寄りの……」
エレスサールはもごもごと方角を呟いた。オスギリアスの西岸・東岸ではあるまいに、ミンドルルインの東端に建つミナス・ティリスは街ごと東寄りだ。しかし、ここで「ふざけるな」と怒鳴ってはいけない。曖昧さを一つ一つ潰していくほうが効果的であり確実だ。
「東側のどこです?」
「小路を折れた……」
「どちらの小路です?」
「あー、それは……その……」
青灰色の瞳が泳ぐ。笑ってしまいそうになるほど顕著な反応だが、ここは怒っている振りをしなくてはならない。
「そんなに店の名をおっしゃりたくないわけですか」
ファラミアは肩で息を吐いてみせた。
「いったいどんないかがわしい場所へおいでになったのです?」
わざと呆れたふうに言うと、エレスサールは心外だとばかりに目を見開いた。
「いっ、いかがわしいって……普通の酒場だぞ」
「客にエールを浴びせる店を普通とは申しません」
ファラミアは反論をぴしゃりと否定した。しかし、主は言い訳を続ける。
「これはちょっとした事故だ。普段は違う」
「普段は、ですか。そんなに足繁くお通いになっておいでとは存じませんでした」
ちくりと嫌みを言ってやると、エレスサールは再び口ごもった。
「いや、そんな頻繁なわけでは……」
では、頻度はいかほどか——それを尋ねれば更におもしろくなると思ったとき、扉を叩く音に続いて用人が顔を出した。
「お湯の支度が整いました」
◆◇◆◇◆◇◆
ファラミアが浴室の扉を開けると、エレスサールは湯船に浸かっていた。白い湯気から薔薇の香りが漂ってくる。
「どうした?」
浴槽のへりに頭を乗せていたエレスサールが身を起こした。ファラミアの用が急の報せだとでも思ったのだろう。主の生真面目な反応に微笑し、ファラミアは袖をまくりながら浴室へ足を踏み入れた。
「介添えして差し上げようと思い参りました」
「……趣味が悪いな」
エレスサールは呆れたように笑い、軽く首を捻ってこちらを見た。
「不要だと言ったら?」
自称“野育ち”の我が王は他者にかしずかれることに戸惑う。身のまわりのことに他者の手を借りるのはいたって居心地が悪いという、王冠を戴いたにしては稀な人柄だった。
「では、こういうのはいかがですか」
ファラミアはやさしくエレスサールの肩に手を置いた。ゆっくりと肩の中央を押す。それを繰り返すうちに、ふうっと息の漏れる音が聞こえた。確かめるべくもなく、エレスサールの息だ。
ファラミアはその反応に満足し、筋肉の凝り具合を確かめながら、己の指をエレスサールの腕の付け根や首筋へと移動させた。その間も気持ちよさそうな息が幾度も湯気の中に消えた。
「うまいものだな」
感心する言葉が独りごちるように呟かれる。
「執政家の人間は按摩の技を学ぶのか?」
他愛ない主の問いかけに、ファラミアは微笑した。
「これでも野伏でしたから。筋をほぐす術は存じております」
指は張りのある肌を滑りながら背を下り、肩胛骨の脇にあるくぼみや、背筋のくぼみへと移っていった。
半生を闇の勢力との戦いに費やしてきた主の身には、多くの傷痕が残っている。腕には斬られたと思しき痕が幾つもあるし、脇腹に引き攣れた古い痕があるのをファラミアは知っている。
だが、背中に残る傷は比較的少なかった。とはいえ、無傷ではない。オークやウルクに“背後から襲うのは卑怯”などという騎士道精神はない。肩胛骨の上に刃が走ったであろう薄い痕があった。
——これ以上、増やすことがあってはならない。
ファラミアがそっと薄い痕をなぞろうとしたとき、身じろぐように背が動いた。
「はぁ……」
寛いだ吐息がエレスサールの口から漏れる。顔を覗き込めば、彼はうっとりと目を閉じていた。そんな顔をされると、腕の中におさめたくなる。欲求のまま、彼の首筋に唇を寄せようとして、ファラミアは気づいた。眼前の黒髪が発酵した麦の香りを放っていることに——。
「おぐしは洗われたのですか」
「……いや、まだだ」
「エールの匂いがしますよ」
「そんなに匂うか?」
こちらを振り向きながら、エレスサールは首を傾げた。
「ええ」
ファラミアは頷きながら櫛を手に取り、黒髪を梳いた。注ぎ足しのために置いてある桶から湯をすくい、黒髪に流しかける。濡らした髪を再び丁寧に梳いて、ファラミアは石けんを手に取った。南国に生える植物の油と、薔薇の香油を海の塩で固めたそれはご婦人方にも人気だ。
豊かな泡で髪を包み、頭皮を揉むように洗っていく。浴槽のへりに首をもたせかけた主君は目を閉じて、されるがままになっている。それが心地良さそうに見えるのは、願望だろうか。
ファラミアは泡を洗い流すと、湯にビネガーを垂らし、髪に含ませるようにしてすすいだ。これで髪のきしみがおさまる。仕上げに水気をしぼった。
「ありがとう」
洗い終えると、エレスサールは身を起こした。どうやら上がるつもりらしい。
「ローブをお持ちします」
ファラミアは控えの間からローブを取り、湯から上がった主の肩に着せかけた。撚りのない糸を立たせたやわらかい布地が、しなやかな肌を包み込む。
エレスサールを控えの間の椅子にいざない、濡れて黒さの増した髪をローブと同様のやわらかな布で拭った。あらかた水分を飛ばしたところで櫛をとおし、再度、水気を拭き取る。そうしていると、エレスサールが小さく笑った。
「何かおかしいですか」
「いや、執政閣下に髪を洗ってもらう日が来るとは想像したこともなかったと、そう思ってね」
そう言いながら、主はくすくすと笑う。
「お気に召したなら、毎日洗って差し上げますよ」
水気を落とした黒髪を梳きながら、ファラミアは提案してみた。
「遠慮する」
すぐさま断りの言葉が返ってきた。まったくつれない。
「それは残念ですね」
ファラミアは美しいラインを描く首筋につと指を走らせ、感想を言った。
「まったく……。本当に趣味が悪いな」
呆れたようにため息を吐かれる。そんな主の肩にファラミアはすっと手を置いた。
「あなたに触れることで趣味が悪いと評されるなら、それでも構いませんよ」
温まった肩の筋を押す。
「触れられないより、趣味が悪いと言われたほうがずっといい……」
「それを趣味が悪いと言うんだが……」
エレスサールが苦笑いを浮かべた。
「どうぞ、なんとでも——」
ファラミアは首筋を押しながら、そっとこめかみに唇を寄せた。
「こうして触れられるほうが、わたしには重要です」
「こら。悪ふざけは止さないか」
こめかみから頬へ唇を滑らせると、エレスサールの手がぐいとファラミアの額を押し返した。
「では真面目な話をしましょうか」
ファラミアは素直に唇を離すと、形の良い耳朶に問いかけた。
「どこの店でエールを浴びてらっしゃったのです?」
「……なるほど。こうして気の緩んだところで聞き出そうというわけか」
エレスサールは軽く顎を上げ、目を眇めた。少し伏せられたまぶたの下で、美しい青灰色の瞳がすっとファラミアのほうへ寄った。その眼差しにぞくりとする。
「まさか——」
身の裡に起こった衝動を隠すようにファラミアは微笑んだ。
「陛下のお気持ちがこれしきのことで緩むとは思っておりませんよ。この程度でなんでも話してくださるぐらいなら、わたしも苦労が少なくて済みますが」
「よく言う……」
投げやりな口調の語尾に欠伸が交じった。ふわぁ、と口を開け目を潤ませる姿に、ファラミアは目を細めた。
「続きは寝台でいたしましょうか」
「ちゃんと眠らせてもらえるのかな」
エレスサールが意味ありげな目つきで振り返る。
「わたしの望みを叶えていただけたら」
図々しいことを口にすると、主は肩を竦めて苦笑したが、何も言わなかった。
——どうやら、望みは叶うようだ。
ファラミアはにこりと笑み、賓客を部屋へいざなうべく、温かな手を取った。
END
微に入って磨き立てられずに申し訳ありませんm(_ _)m 洗髪しかできていませんね(汗)。
……って、「磨き立てる」はこういう意味でよろしかったでしょうか。<今頃訊くな
はじめは洗う気満々だったのですが、ちょっと西洋での入浴の仕方を調べたところ、これぐらいしか書けなくなりました(^^;)
あちらの入浴は浴槽の中で体も頭も洗うのが一般的だそうです。当然、浸かっている湯は泡だらけ(落とした汚れも含まれている)になるのですが、あちらの方々は浴槽を出たらすぐにタオルで体を拭いておしまい——なんだそうです。
——泡をすすぎ落とさないの?
と思うわけですが、(少なくとも英国生活をなさっている方によると)そんなことはしないそうです。
使う湯量もとても少なく、浴槽の半分ほどの湯ですべてをまかなうらしいです。給湯器が溜めた湯を使うタイプ(給湯しながら沸かせない)のこともあるらしく、それだと浴槽の半分ほどが湯量の限界で、それ以上は蛇口をひねっても水しか出ない場合もあるとか……。
これでは、しっかり洗ってたっぷり湯を浴びせ、のぼせて肌がほんのりと染まった王様なんて、夢のまた夢。ぬるい湯の中でぱしゃぱしゃと手短に洗って、そそくさとローブを着せかけなければ風邪を引きかねません。
——そんなのはイヤ……。
でも、西洋の事情とあまりかけ離れたことを書くのも……う〜ん、スパなら湯量もたっぷりかな……でも、ミナス・ティリスじゃ、掘って温泉というわけにもいかないか……と、ぐるぐるした結果、こういうことになりました(言い訳)。
リクをくださったH様、本当に申し訳ありませんm(_ _)m
それと、欧州の水は硬水が多いので、石けんを使ってもあまり泡立たないそうです。ミナス・ティリスの水はどうなんでしょうね。
あ、王がエールをかぶったのは喧嘩に巻き込まれたからです。<本文で説明しなさい
……って、「磨き立てる」はこういう意味でよろしかったでしょうか。<今頃訊くな
はじめは洗う気満々だったのですが、ちょっと西洋での入浴の仕方を調べたところ、これぐらいしか書けなくなりました(^^;)
あちらの入浴は浴槽の中で体も頭も洗うのが一般的だそうです。当然、浸かっている湯は泡だらけ(落とした汚れも含まれている)になるのですが、あちらの方々は浴槽を出たらすぐにタオルで体を拭いておしまい——なんだそうです。
——泡をすすぎ落とさないの?
と思うわけですが、(少なくとも英国生活をなさっている方によると)そんなことはしないそうです。
使う湯量もとても少なく、浴槽の半分ほどの湯ですべてをまかなうらしいです。給湯器が溜めた湯を使うタイプ(給湯しながら沸かせない)のこともあるらしく、それだと浴槽の半分ほどが湯量の限界で、それ以上は蛇口をひねっても水しか出ない場合もあるとか……。
これでは、しっかり洗ってたっぷり湯を浴びせ、のぼせて肌がほんのりと染まった王様なんて、夢のまた夢。ぬるい湯の中でぱしゃぱしゃと手短に洗って、そそくさとローブを着せかけなければ風邪を引きかねません。
——そんなのはイヤ……。
でも、西洋の事情とあまりかけ離れたことを書くのも……う〜ん、スパなら湯量もたっぷりかな……でも、ミナス・ティリスじゃ、掘って温泉というわけにもいかないか……と、ぐるぐるした結果、こういうことになりました(言い訳)。
リクをくださったH様、本当に申し訳ありませんm(_ _)m
それと、欧州の水は硬水が多いので、石けんを使ってもあまり泡立たないそうです。ミナス・ティリスの水はどうなんでしょうね。
あ、王がエールをかぶったのは喧嘩に巻き込まれたからです。<本文で説明しなさい