舞踏会
空を覆う闇を払い、ゴンドールに春をもたらした人は、その季節の生まれだった。
徐々に昼の時間が長くなり、樹木の芽が膨らみを増す頃、ミナス・ティリスでは国王の誕生日を祝うさまざまな宴が催される。今夜開かれている舞踏会もそのひとつだ。
燭の灯りがきらめく広間に、華やかな楽の音が響き、着飾った貴公子と淑女が巧みにステップを踏む。一見、優雅に見えるダンスだが、実際に踊ってみるとなかなかに体力を削がれるものだ。
曲が終わったところで、イシリアン公ファラミアは広間の中央から離れ、折よく近づいてきた給仕から飲み物を取った。すっきりした白葡萄酒が乾いた喉に心地良い。柱にもたれて一息吐いていると、思いがけず後ろから声がかかった。
「さすが執政殿はもてているな」
柱の陰にいたのは今宵の主役、国王エレスサールその人であった。
「何をおっしゃいます」
ファラミアは慇懃に笑顔で応じた。
「陛下こそ、よくおもてになっているようで。先程から妃殿下以外の方々と踊ってらっしゃる」
「仕方ないだろう。誘いにくるのだから」
誘いにくる——と言っても、王であるエレスサールに「さ、次はわたくしと踊るのよ」と押しかける大胆な貴婦人はいない。舞曲ごとに王に踊るよう勧めるのは、諸侯や高官たちだ。パートナーに宛がわれるのは容姿はもちろん、ダンスが優れていると選ばれた女性たちである。
「下手に断るなと言ったのは、執政殿ではなかったかな」
エレスサールが揶揄するようにファラミアを見た。
確かに、なるべく踊るよう進言したのはファラミアである。エレスサール自身は華やかな場は苦手だと言うが、立ち居振る舞いも会話もダンスもそつなくこなせるのだ。その能力を使わなくてどうする。
王が巧みにステップを踏み、諸侯諸官を魅了すれば、さまざまな案件をスムーズに進める助けになるのだ。エレスサールにはできるだけ多く、華麗な舞踏を披露してもらったほうが後の政務のためになる。
しかし、今の彼は柱の後ろに隠れている。ファラミアと話しているが、広間の中央からは死角になっている。新たな曲がはじまっても、王は出ていこうとはしなかった。
「いつから隠れてらっしゃるのですか?」
踊る人々を眺めながら、ファラミアは訊いた。
「ついさっきだ。執政殿と同じ曲まで踊っていたぞ」
返ってきた声には少々苛立ちがまじっていた。華美なことは苦手と口にするとおり、彼は着飾ったご婦人と注目を浴びて踊るなんて、まったく気乗りしないタチである。
舞踏会を開くと決まった際も、「最初に一曲踊って、後は見ているだけでいいのだろう」と、とんでもないことを口にし、典礼の官吏たちを慌てさせた。側近一同で「主役を務めるのもお役目のうちです」と押し切り、渋々頷いてもらって今宵を迎えた。
約束は守る律儀な性格の主君は「王の役目」を果たすべく、先程までステップを踏んでいたが、とうとう我慢が効かなくなったということか。
広間の入り口に目を遣れば、華やかな衣装をまとった数人の男女の姿が見えた。次の曲の踊り手たちだ。女性が一人多いのは、国王の相手を務めるためだが……、その王は柱の陰である。
「次の曲はどうなさいますか?」
「少しは休ませてくれ。立て続けに五曲踊ったんだぞ。疲れた」
休憩は構わないが、それでどうして柱の陰に隠れているのか。
ファラミアは踊りの輪の向こう、談笑している貴族たちを見た。そのうちの一人、ドル・アムロスの大公イムラヒルは、時折、探るような視線を広間のあちらこちらへ送っている。ファラミアは目が合わないよう用心しつつ、しばらくその様子を眺めた。
「叔父が捜していますよ」
「……そのようだな」
そう言っただけで、エレスサールは動こうとしなかった。どうやら隠れんぼの鬼には叔父も含まれているらしい。
「こちらにいらっしゃると教えても?」
教えるつもりはないが、ファラミアはわざと訊いてみた。
「……勘弁してくれ」
背中から、ため息交じりの声が返ってきた。
「あなたの叔父君は人使いが荒くてね。すべてに付き合っていたら、こちらの身が持たない」
叔父のイムラヒルは人当たりが良く、物腰もやわらかい。その好人物振りが無理を通す助けになっており、本人もそこをしっかり計算して事を進める策士だ。主君にも厳しい要求をするときはあるが、エレスサールが逃げ出すほどとなると、いったい何を言ったのやら……。
「そんな無理を申しましたか?」
尋ねると、棘を含んだ声が返ってきた。
「五曲続けて踊らされたんだぞ」
そんなことで——と出かかった言葉を、ファラミアは呑み込んだ。他者の目にはどう映っていようと、エレスサール自身は雅やかなこと全般を不得手だと思っている。不用意な発言をして、機嫌を損ねてしまったら、この柱の陰からも姿をくらまされかねない。
「陛下が出てらっしゃらないと、あの女性を空振りさせることになりますが」
ファラミアは次の踊り手たちを見ながら言った。
「ちゃんと代役がいるだろう。今の曲もそうだった」
確かに代役はいる。すべての曲を国王に踊らせるわけにはいかないから、どの曲にも“控え”は用意してある。だが、女性の立場からすれば、王と踊るのと、代役と踊るのとでは大きく違うだろう。王の踊りの相手を務めると思うからこそ、衣装も髪型も張り込んできたのだろうに、“代わり”ではがっかりするに違いない。もっとも、エレスサール当人はそんなふうに思っていない。
「彼女たちも年寄りのわたしと踊るより、若い貴公子のほうがいいだろう」
これである。戴冠以来、幾度も「陛下は十分魅力的です」と言ってきたが、言葉が通じていないかのように、エレスサールの認識は変わらない。
ここで「いいえ、彼女たちは陛下と踊るほうを喜ぶでしょう」と背中を押したら、エレスサールが柱の陰から出ていくか——。ファラミアはちらりと背後を一瞥した。杯で唇を湿らせている横顔は、なんとかこのままやり過ごせないか、そう思案しているように見えた。
——この辺りが限界か。
宴の主役が最後までいなければならないわけではない。主要な諸侯諸官へのあいさつは済んでいる。中座しても礼を失したことにはならないだろう。できるだけ人目を惹き付けてもらえたらと考えていたが、最初に夕星の王妃と一曲踊り、その後二曲、諸侯たちとの歓談を済ませて五曲——計八曲こなしたなら役割は果たしたと言える。
「そろそろ退出なさいますか」
ファラミアは退出を進める言葉を口にした。
「いいのか? 中座しても……」
意外にも返ってきたのは躊躇の言葉だった。イムラヒルの踊り手斡旋攻撃に辟易して柱の陰に隠れたとはいえ、自身が主役で、中座は礼を失するという認識はあるらしい。
「夜も更けて参りましたし、構わないでしょう」
このまま柱の陰に隠れて過ごされるなら、部屋に引き取って休んでもらったほうがいい。
「もちろん、最後までお楽しみになりたいなら、お止めしませんが」
「いや、退出させてもらえるなら、そのほうがありがたい」
今度は素直に安堵する言葉が返ってきた。青灰色の目が柱の陰からちらりと広間の向こうを見遣る。
「イムラヒルには悪いが……」
「叔父のことは心配なさらなくても大丈夫ですよ。適当に言っておきます」
エレスサールを見失った時点で、姿をくらまされたと悟っただろう。中座を伝えても、苦笑はすれど怒りはしまい。ファラミアは自身も柱の陰に移動し、今は美しい幕が下りている壁を指した。
「あの後ろに扉があります。向こう側は調度類の倉庫です。反対側の扉から出れば、人目につかずに回廊へ出られます。中は暗いですから、お気をつけください」
もっとも、元野伏で夜目の利くエレスサールには、暗さは問題にならないだろう。
「ありがとう。ファラミア」
エレスサールは安堵と感謝の笑みを浮かべると、扉へ向かって歩きはじめた。その背中に声をかける。
「わたしもすぐに参ります。扉のそばでお待ちください」
振り返ったエレスサールが「執政殿も?」と問うように首を傾げた。
「わたしが一緒のほうが急用ができたと、もっともらしい言い訳ができるでしょう」
ファラミアの発言に苦笑したエレスサールは肩をすぼめると、再び歩き出した。主君の姿が扉の向こうへ消えるのを見届けると、ファラミアは談笑している貴族たちを振り返った。イムラヒルと目が合う。すぐに叔父は談笑の輪から離れ、こちらへ向かって歩いてきた。
——陛下のお姿が見えないのだが……。
叔父の第一声を思いながら、ファラミアは白葡萄酒に口を付けた。
◆◇◆◇◆◇◆
叔父に宴の後事を託したファラミアは、エレスサールが出ていった同じ扉をくぐり、彼とともに国王の執務室へ向かった。立哨していた兵士は、王と執政が随伴者も連れず、二人きりで戻ってきたことに咎める視線を寄越したが、言葉に出すことはなかった。
エレスサールは豪奢なマントを侍従に預けて人払いすると、襟元を緩め、どさりと倒れ込むように長椅子に腰を下ろした。
「そんなにお疲れになりましたか」
侍従が用意していった白葡萄酒の杯を渡しながら訊けば、彼は大きく息を吐いた。
「わたしはあなたのように、雅やかなことには慣れてないんだ」
「そうおっしゃいますが、とても上手に踊ってらっしゃいましたよ」
エレスサールの向かいに腰を下ろしながら、ファラミアは言った。
「相手がうまかったから、マシに見えたんだろう。彼女たちのリードのおかげだ」
「おや、そのようにおっしゃられると妬けますね」
「何を言う。あなたなら相手は選りどりみどりだろう」
白葡萄酒に口を付けながら、エレスサールが言った。
「選りどりみどりなどと、人聞きの悪いことをおっしゃらないでください」
それではまるで、自分が女漁りをしているようではないか。しかし、エレスサールは意外そうに首を傾げた。
「本当のことだろう?」
「まさか」
ファラミアは大仰に否定してみせた。まったく、この主君は人をなんだと思っているのか。だいたい先程「妬ける」と言ったのは、女性にもてるということに対してではない。
「たとえ選りどりみどりできたとしても、彼女たちのように、あなたと踊ることは叶わないでしょうね」
鈍い相手にも伝わるよう、敢えてわかりやすい表現を口にすれば、杯に口を付けようとしていたエレスサールの動きが止まった。
「あなたは……わたしと踊りたいのか?」
かすれた声が訊く。
「わたしが女性だったら、踊りたいと願うでしょうね」
「なるほど……男同士で踊るのはさすがに嫌というわけか」
エレスサールはどことなくほっとした様子で呟いた。
「陛下以外とは遠慮したいですが、何にせよ、どちらかが女性パートを踊れなくては成り立ちませんでしょう」
集団でステップを踏むような踊りは基本の動作はみな同じだが、男女二人組の踊りは互いにかけ合う動きが基本で、男性と女性の踊りは異なっている。男性パート同士で組んで踊るのは……あまり考えたくないものである。
ところが、エレスサールは途方もないことを訊いてきた。
「おや、執政殿は女性パートを踊れないのか?」
ファラミアの口は半開きになった。舞踏の教師でもなければ、異性パートなど踊れないのが普通だろう。
そもそも成人男性に女性パートを踊れるかなどと訊くのは、「お前にはそちらのほうが似合いだ」——つまりは「なよっとした弱い奴」という侮辱と同義になる。エレスサールにそんな含みがないことはわかっているが、訊いたのが彼でなかったら、無礼だと謝罪を求めているところだ。
「……幸いなことに、これまで習得の機会はありませんでしたね」
なんとか臣下としての節度を保った態で答えながら、いったいこの人は何を思ってこんな頓狂な質問を——と胸中で呟いていたファラミアだったが、次に聞こえた言葉はそんな頓狂さを超えていた。
「そうか。わたしは踊れるぞ」
聞き間違いかと思った。まじまじとエレスサールを見返す。青灰色の瞳にいたずらっぽい光を浮かべた彼が、自慢げに見えたのは気のせいだろうか。
「女性パートを、ですか?」
恐る恐る尋ねれば、彼はあっさり頷いた。
「ああ。スタンダードなものだけだが」
戴冠直前まで野伏の長だったエレスサールは、国王という位に不似合いな知識や技を多く身に付けている。一方で、二十歳までエルフの智恵者の下で育ったため、礼儀作法や教養は遜色なく、舞踏や楽器の演奏なども不自由なくこなす。
しかし、舞踏の女性パートは、どちらの生活でも身に付くように思えないが……。それともエルフは両方踊れるように育てるものなのか……? 考え込んでいると、「ファラミア」と呼ばれた。顔を上げると自嘲めいた笑みを浮かべたエレスサールの顔があった。
「ずいぶん驚かせてしまったみたいだな」
「申し訳ありません。その……少々予想外のことでしたので……」
かなり予想外だったが、エレスサールの困ったような微苦笑を見ては、正直に言うのは憚られた。
「呆れただろう。おかしな主君を持ったと」
「そんなことはございません。陛下は本当になんでもご存じだと感心いたしました」
「無理に誉めなくていいぞ」
エレスサールが厭そうに眉を顰めた。
「無理を申しているわけでは……」
しゃべりかけたファラミアの頭にある考えが閃いた。そうだ、彼は踊れると言ったのだ、女性パートを。
——この機会を活かさずしてどうする。
ファラミアは立ち上がると、コートの裾をさばき、エレスサールの傍らに膝をついた。
「陛下、お願いがございます」
「なんだ? いきなり改まって」
「踊っていただけますか?」
ファラミアは手を差し出した。エレスサールの口がぽかんと開く。青灰色の目を二、三度しばたたかせてから、彼は呆れたように言った。
「……本当に物好きだな、あなたは」
「いけませんか?」
ファラミアはにこりと微笑んだ。エレスサールは呆れているが、怒ってはいない。こういうときの彼は、たいてい臣下のわがままを聞いてくれるのだ。
「まあ、いいだろう」
期待どおり、主君は了解の返事をし、仕方なさそうではあるものの、ファラミアが差し出している手を取った。
「言っておくが、何度も付き合うのはごめんだぞ」
釘を刺す言葉に少々惜しいと思ったが、主君に女性パートを踊らせること自体、過ぎた望みなのだから、一度で良しとすべきだろう。ファラミアは慎ましく答えた。
「御意」
にっこりと笑ってエレスサールの背に手をまわした。空いた場所へ移りながら、円舞のステップを踏む。スタンダードなものは踊れると言ったとおり、エレスサールの動きは滑らかだった。ターンとともに、彼のコートの裾がスカートのようにひるがえった。
すぐに終わるであろう二人だけの舞踏会。僅かな至福の時を噛み締めるように、ゴンドールの執政はステップを踏んだ。
END