諦めの悪さ
空を渡る金の果実——太陽の輝きが一際力を増す季節に、ゴンドールの都ミナス・ティリスで、国王の戴冠と成婚を記念した一連の式典が盛大に執り行われた。白き塔がそびえる王都は祝賀ムードに包まれ、人々の笑顔で満ち溢れた。
大いに賑わった街も、一連の催しがつつがなく終われば穏やかな日常が戻ってくる。それは国政を司る場も同じことで、式典が催されていた間中、どこか浮かれた空気が漂っていた城内も落ち着きを取り戻した。
業務が通常に戻れば、人の行動もまたそうなる——と、ゴンドールの王アラゴルンは公務の手が空いた昼下がり、久しぶりに城を抜け出した。
「フウッ……」
第二環状区の小路の片隅に腰を下ろしたアラゴルンは、パイプに火を点けて一息吐いた。白い煙がゆるゆると建物の間の空へ立ち上っていく。盛夏に向かう空からは眩しい陽射しが降り注ぐが、風は乾いており、日陰にいれば涼しい。
「フウ……」
もう一度息を吐き、目を閉じて背後の柱にもたれかかった。こうして誰も知らぬ場所で一人になって、数日前まで続いた式典に伴って開かれた宴やら舞踏会やらの騒ぎから、やっと解放された気分になった。
国を挙げての式典は準備が大がかりであり、中心的役割を担うアラゴルンには当然それだけの負荷がかかる。王の務めであるから準備に忙殺されようと文句を言えるものではないが、息が詰まりそうになる感覚は否めなかった。戴冠するまで単独行の多い野伏だったせいか、束縛の多いスケジュールが続くと、どうにも逃げ出したくなっていけない。
——お一人になりたいのであれば、人払いなされば良いではありませんか。
不意に執政の言葉が耳の奥でよみがえった。幼少時から側仕えがいるのが当たり前の環境で育った彼には、人に囲まれた状態が続くと息苦しさを覚えることがまず理解できないらしい。だから人払いぐらいでは開放感を得られない感覚に至っては想像すらできないのだろう。
——人払いして視界から姿が消えたとしても、わたしの居場所は把握されている。それが……
——当たり前ではありませんか。国王のおわす場所を臣下が誰一人わからないほうが問題です。
正論だった。王とはそういうものだろう。
だがしかし、この身は居場所が知られたら命が危うい野伏を長年やっていたのだ。たまには誰にも居場所をつかまれていない時間が欲しい——というのはわがままだろうか。
そんなことをつらつら考えていると、近くの小路から甲高い叫び声が聞こえてきた。それに軽い殴打の音が続き、アラゴルンは無意識に耳をそばだてた。
「何するんだ!」
子供の声だった。ケンカかと思ったが、どうやら複数で一人を一方的に殴っているようだ。双方やり合っているなら放っておくところだが、数を頼りに一人をやり込める弱い者いじめは止めたほうがいいだろう。パイプの火を消し、アラゴルンが立ち上がったところ——、
「おい、何やってる!」
威勢の良い声が聞こえた。仲裁役の登場かと思い、小路を覗いてみると、金髪の小柄な男の子が走ってきて、大柄な二人組に飛びかかるのが見えた。その脇で黒髪の子が膝を抱えて泣きべそをかいている。恐らく先程まで殴られていた子だろう。
「この野郎!」
金髪の子は臆することなく立ち向かっていったが、小柄なうえに相手が二人のため、たちまち防戦一方に追いつめられた。
「やっちまえ!」
二人組は勢いづいた。黒髪の子は戦意を失ったのか、元々ケンカが得意ではないのか、そばで——恐らくは——友達が一方的に殴られていても、しゃがみ込んだまま動こうとしない。見かねて、アラゴルンは一歩踏み出し、声をかけた。
「おい、止めないか」
二人組がギョッとして顔を上げる。
「止めなさい」
さほど強い調子で言ったわけではないが、いきなり大人——それも佩剣している人相の悪い男が現れて驚いたのだろう。二人組はアラゴルンを見るなり、一目散に逃げていった。
「大丈夫か?」
アラゴルンは石畳に倒れていた金髪の子の手を取って立たせた。
「ありがとう、おじさん」
防御をしっかりしていたのか、こちらを見上げた顔に目立った傷はなかった。アラゴルンは道の端でうずくまっているもう一人の子に声をかけた。
「君は大丈夫かな? 怪我は?」
怪我をして立てないのかと思って聞いたが、黒い頭はふるふると横に振れた。
「立てるか?」
金髪の友達がアラゴルンの横から声をかけ、黒髪の子の手を取って立たせた。こちらの子も一見してわかるような外傷は見当たらなかった——服の下に痣ぐらいできているだろうが。
「君たちはいつも、さっきの子たちとケンカしているのかい?」
何気なく訊いてみると、金髪の子がムッとした顔で言った。
「あいつらが勝手に絡んでくるんだよ」
先程の一方的に殴られていた様子と合わせて考えると、力の強い悪ガキが近所の弱い子をいじめている……といったところか。
「……のせいなんです」
黒髪の子が涙ぐみながら言った。
「あいつらが絡んでくるのは僕で、カレンシルは僕をかばうから殴られるんです」
カレンシルというのが金髪の子の名前らしい。なるほど、瞳が輝くような緑色をしている。
「何言ってるんだ。友達を助けるのは当たり前だろ。お前のせいじゃない」
カレンシルが胸を張って言った。当たり前と言うが、友のために自分より力のある相手に立ち向かえる者がどれだけいるだろうか。尻込みするのが普通だろう。立ち向かえるこの子は強いと思った。
だが、今のままではあの二人組には勝てないだろう。体格差があり過ぎる。
「確かに、友達を助けようとする君の行動は称賛に値する、が、彼らのほうが君より大きい。さっきのように真正面から挑んでいては勝てないぞ。勝てる方法を……」
少し助言しようと話しはじめたことだったが、
「おじさんもそうかよ!」
強い声に遮られた。
「みんなそうやって、勝てないって俺を諦めさせようとする。でも俺は諦めない!」
ぎらぎらした緑の瞳がアラゴルンを睨み上げた。
「父さんが言ってた。この街が守られたのは諦めなかったからだって」
キッとアラゴルンを睨んだまま、カレンシルは拳を握って力説した。
「モルドールの奴らに囲まれて、大門が壊されて、街の人たちは『もうおしまいだ』って、一度諦めかけたんだって。でも新しく来た王様は諦めなかった。諦めずに冥王に立ち向かった、だからこの街と国は救われたんだって。だから『お前も簡単に物事を諦めてはいけない』って、父さんは言ってた」
アラゴルンは言葉に詰まった。まさか、こんなきらきらした目の子供に「王様が諦めなかったから、国が救われた」なんて語られるとは……。
——眩しい……。眩し過ぎて直視できない。
その“王様”の正体が今目の前にいる冴えない髭面男で、公務中に城を抜け出しパイプを吹かしていた——と、この子らが知ったら……。
顔を覆いたくなっているアラゴルンの脇で、もう一人の黒髪の子がおずおずと口を開いた。
「……僕も、おじいちゃんに最後まで諦めないほうがいいって言われました」
「そ、そうか」
話題が“王様”から離れると思い、アラゴルンは相槌を打った。
「おじいちゃんは昔、兵士をしていて、オークに囲まれ、追い詰められたことがあったそうです。一緒にいた仲間はもうおしまいだって諦めかけていたけど、隊長さんだけは『絶対に助かる』って励ましてくれたそうです。その後、おじいちゃんたちは隊長さんの言うとおりに動いて、本当に助かったって……。それからはどんな時も諦めなくなったって話してくれました。その隊長さんはその後すごく出世して将軍になったそうです。おじいちゃん、『わしが生きていられるのはソロンギル隊長のおかげだ』って、よく言ってました」
そう言って、黒髪の子はにっこりと可愛らしい笑みを浮かべたが、アラゴルンはとても笑える心境ではなかった。こんな小さな子供の口から、ソロンギルの名が出てくるとは……、闇討ちに遭った気分だった。
——居たたまれない……。
背中や脇に汗がつたうのは暑さのせいではないだろう。固まっているアラゴルンを見て何を思ったのか、黒髪の子が口を開いた。
「おじさんは、王様やソロンギル隊長と違って、諦める人ですか?」
子供らしい直球の質問にアラゴルンは苦笑した。まさか「その二人とおじさんは同じ人だよ」とは言えない。
「さあ……どうだろう。どちらかと言えば、諦めの悪いほうかな」
答えながら脳裏に執政の顔がよぎった。どれだけ微行を止めるように諌言しても、まったく止めようとしない主君を、さぞかし諦めの悪い性格だと思っているだろう。
「君も諦める必要はない」
アラゴルンはポンとカレンシルの肩に手を置いた。
「ただし、今の戦い方では勝つのは難しいと思う。だから勝てる方法を使ったほうがいい」
「いろいろ考えた、けど……」
カレンシルの緑の瞳が陰った。悔しそうに唇を噛む。
「武器を使うのは卑怯だと思ったし……」
力で敵わない相手でも、素手の者に武器を使うのは卑怯だという、その感覚が好ましかった。この子になら、技を教えても大丈夫だろう。
「武器は必要ないさ」
アラゴルンが言うと、カレンシルはパッと顔を上げた。
「いいかい。相手がこう向かったきたら、こうやって——」
◆◇◆◇◆◇◆
夏の太陽が西へ傾き、陽射しに真昼程の強さがなくなった頃、ゴンドールの執政ファラミアは、主君エレスサールの執務室を訪ねた。
しばしば露台を出入り口にしては、執務室を留守にするエレスサールだが、約束は守る。予定を入れておけば空振りはしない。今回もそうだった——が、今帰ってきたという態で、露台から現れた姿を見せられては、ため息も出ようというものだ。そんな臣下の様子を見て、エレスサールは軽く肩をすぼめた。
「待たせてしまったかな」
「いえ、今来たところです」
待たされてはいないことを伝えると、エレスサールは「そうか」とほっとしたように息を吐き、微行用の地味なマントを脱ぎながら訊いてきた。
「ファラミア。どちらを先にする? 仕事の話か説教か」
「まず仕事を片付けましょう。お説教は後程たっぷりして差し上げます」
「お手柔らかに頼むよ」
脱いだマントを長椅子の背にかけて腰を下ろしたエレスサールは力なく笑った。その笑みに「おや?」と違和感を覚えた。
今のようなやり取りの後、エレスサールが小さく笑うのは珍しくない。が、微行から戻った後はいたずらっぽく笑うのが普通だった。
そもそも彼が街に下りるのは気晴らしである。書類の山に埋もれて塞ぎ込んでいた気分を晴らして戻ってくるのが常だった。しかし、先程の力ない笑みは、気晴らしした後の笑い方ではないように感じた。
「陛下、街で何かあったのですか?」
気づけば、問いかけの言葉が口を付いて出ていた。
「何かとは?」
「その、少々気落ちしてらっしゃるように見えたので……」
エレスサールが不思議そうな顔で首を傾げたのを見て、思い過ごしだったかと目を逸らしたところ、「さすが、勘がいいな」という言葉が聞こえた。
「街でね、目をきらきらと輝かせた子供に『王様が諦めずに冥王に立ち向かったから、この国は救われたんだ』と言われたんだ」
「はあ……」
ファラミアの口から、思わず間抜けな声が漏れた。モルドールの軍勢に囲まれて門を破壊され、この街は恐怖と絶望に包まれた。事実、ファラミアの父、第二十六代執政デネソールは絶望し自ら命を絶った。ファラミアもエレスサールの癒しの力がなかったら黄泉路を辿っていた身である。
エレスサールにしてみれば異論があるかもしれないが、「王様のおかげで国が救われた」という子供の認識は概ね正しいと言える。それがなぜ、気落ちする原因になるのか、さっぱりわからない。理解不能の顔をしたファラミアの前で、エレスサールは苦笑しながら言葉を続けた。
「その子の目の前にいる胡散臭い髭面が王当人だという状況は、かなり居たたまれないものだったよ」
——そういうことか。
自身の功績を誇る人物なら、居たたまれないなんて思うこともないだろう。だが、エレスサールは手柄を誇る人柄ではない。自身が王だと思われていない場所で、王を褒めちぎる言葉が出たら、居心地の悪い思いをするだろうことは簡単に想像できた。
「それは確かに気まずいかもしれませんね」
ファラミアが言うと、エレスサールは「ああ」と頷いた。
「あれなら書類に埋もれていたほうがいいと思った。しばらく外出は控えるよ、特に昼間は」
——おやまあ……。
エレスサールが自ら微行を控えると言い出すとは……、ファラミアは胸の内でその子供に感謝した。けれど、口にしたのは正反対の言葉だった。
「それは少し残念ですね」
どういうことだ? と問うように、エレスサールが首を傾げる。
「後でたっぷり微行はお控えくださいとお話しするつもりでしたのに、先に控えるとおっしゃられてはできなくなってしまいます」
にこりと笑って言えば、度量の大きなゴンドールの王は、口の減らない臣下の非礼にただ苦笑した。
「そう残念がることもないさ」
エレスサールの青灰色の目に不敵な光がきらめいた。
「諦めの悪いわたしに説教する機会はまた幾らでも巡ってくる」
「楽しみにしております」
懲りない主の挑戦に笑顔で応じ、ファラミアは持参した書類箱を開けた。
END