ささやかな甘え
ゴンドールの王都、ミナス・ティリスの白い肌を朱に染める夕刻、演習に出ていた一隊が大門をくぐった。隊を指揮していたのはかの指輪をめぐる戦いののち、奇跡の生還を果たした白の塔の大将ボロミア卿。
彼は一旦自分の執務室へ入ったものの、急ぎの用件がないとわかるや、衣服を改める時間も惜しいとばかりに、主君の執務室へ向かおうとした。ボロミアの帰城時に国王の予定がどうなっているか、留守番の書記官によってその調べは徹底されていた。
ボロミアにとって国王エレスサール——真名をアラゴルンという——は特別な存在だ。彼が一介の野伏だった頃から知っている。
知り合った当初は反発していた。彼がイシルドゥアの末裔で、ゴンドールの王位を請求できる身だということが、まず衝撃だった。そのうえ、彼に王位を請求する気がなさそうなことが気に入らなかった。
だが、そうした彼に対する印象は、指輪棄却の旅で幾度も死線をくぐり抜けるうちに変わっていった。そして、自分の命運が尽きると悟ったとき、彼に国を託した。彼こそが、執政家が千年「帰りますまで」と唱え、待ち続けた王なのだと——。
だから忠誠を誓った。
尽きたはずの命運は奇跡的に永らえ、ボロミアは今、信に足る主君に仕えるという歓びを知り、充足した時を過ごしている。
また、ボロミアはアラゴルンを王と認め、忠誠を誓った最初のゴンドール人でもある。ある意味、自分が見出した王と言えるのだ。特別でないわけがない。その特別な人に会うために部屋を出ようとしたところ、親しい声に足を止められた。
「兄上」
執政職を継いだ弟、ファラミアが戸口に立っていた。
「お帰りなさい。演習はいかがでした?」
「うむ、新兵たちの動きが良くなっていた。今後が楽しみだ」
「それは頼もしいですね。ところで——」
話を続けようとするのを、ボロミアは「悪いが」と遮った。
「長い話なら後にしてくれないか。陛下へごあいさつに伺うところだ」
そう言って踵を返そうとしたが、続くファラミアの言葉に動きが止まった。
「その陛下のことなんですが……」
「何かあったのか?」
問うと、ファラミアはちらりと部屋の中を見た。廊下では話せない内容らしい。ボロミアは仕方なく後戻りし、人払いをした。そうしてから、慎重な弟はようやく口を開いた。
「兄上はこのところ、ミナス・ティリスで悪い風邪が流行っているのはご存じですか?」
「ああ、聞いているが……」
タチの悪い風邪が流行っていることは演習先にも届いていた。兵士の健康を保っていくのは、軍としても大切なことだ。疫病には注意を払っており、流行り病が出たときは報告が上がるようになっている。
しかし、「陛下のこと」で話があるという前振りだったのに、風邪の話を切り出すのはどうしたわけか……と、考え、ボロミアはひとつの可能性に思い当たった。
「ひょっとして、陛下がその風邪を召されたのか?」
話の流れとしてはそうなる。国王が悪質な風邪を召したとなれば、由々しき事態である。ボロミアはファラミアの肩をつかんで詰め寄ったが、弟は「いえ、はっきりとは……」と曖昧に首を振った。
「ただ、今朝から、陛下のお顔の色が優れず、それが気がかりなのです。お体の具合をお伺いしたところ、『大丈夫だ』と仰せになりましたが……」
他のことならいざ知らず、アラゴルンが自身の体調に関して言う「大丈夫」だけは当てにならないと、短くない月日で側近の常識になった。顔色が優れない点を指摘して「大丈夫だ」と返事があったのなら、大丈夫でない何かがあると考えるべきだった。
「それでお前は、陛下が流行りの風邪を召されたと思ったわけだ」
「はい」
ファラミアは頷いた。
「しかし、顔色が優れないだけなら、その風邪とは限らないだろう」
アラゴルンが風邪を引くということをにわかに信じられなかったボロミアは、わざと楽観的な意見を言った。見かけは細身のアラゴルンだが、元野伏であり、荒野の野宿に耐えられる頑健な身体の持ち主だ。
疲労から臥せることはあるが、ほとんどの場合一日か二日の静養で快復してきた。そのうえ、病の予防法なら寮病院の医師以上に心得ているはずで、そう易々と罹患するとは思えなかった。
「お疲れになっているだけということもある。悪い風邪が流行っているのなら尚さら、侍従たちも気をつけるだろう」
健康面にも気を配るのが侍従の務めだ。もっとも、野をさすらう半生を過ごしてきた現王には、日常生活の手助けも健康面での気遣いも、最小限で事足りる有り様だが。
だが、ファラミアの顔は晴れなかった。弟にも心配するだけの根拠があったのだ。それは——、
「ですが、その侍従が三名、十日程前から立て続けに流行りの風邪を引いたのです」
「なに?」
さすがにボロミアも眉を顰めた。側近くに仕える侍従が立て続けに病に倒れていたとなれば、話は違ってくる。アラゴルンに感染する可能性が十分あったことになる。
「もちろん、流行り病だとわかった時点で休ませました。その後は侍従長が注意を払い、体調不良の者はすぐに休ませるなどして、陛下にうつすことがないよう対策を取っていました。陛下も『しばらくはおとなしくしている』と、微行は控えてらっしゃるようでした。それで、昨日までは普通に過ごされていたのですが……」
夜が明けたら、病の兆候が現れていたというわけだ。王にはいつも健やかに過ごしてほしいものだが、相手が病魔では逃れられぬときもある。罹患したのなら、快復するようきちんと手を打たねばならない。そのためには患者の自己申告が必要不可欠だが、体調が悪くても正直に打ち明けないのが我が主だった。
「なるほど、そういうことなら——」
ボロミアは息を吐きながら言った。
「陛下のご様子には注意しておこう」
「よろしくお願いします」
弟の礼に見送られ、ボロミアは部屋を出た。
◆◇◆◇◆◇◆
さて、どうしたものか——燭の灯りが揺れる廊下を歩きながら、ボロミアは考えた。既に陽は落ちており、大半の官吏は退出した後で、周囲はひっそりとしていた。
——ご夕食は早めに取られたのだったな。
書記官から聞いた王の予定を思い出し、どんな様子だったのか、後で具合を悪くしていないか、そんなことが気になって足が速まった。
変化に敏いファラミアが「顔色が優れない」と判断したことから、アラゴルンが不調なのはまず間違いない。そして侍従が三名、流行り病に罹ったことを考えれば、不調の原因が同じ病である可能性は高い。
普通なら「お休みください」と申し上げれば済む話だが、我が主は騒ぎになるのを恐れてか、不調を隠す傾向が強い。しかも、年の功か、隠しごとが上手く、そういう面では頑固である。平気な振りをされた場合、正攻法でお休みになっていただける可能性は低い。
——どう説得するか。
いい考えが浮かばぬまま、主の執務室の扉を開けた。
「ボロミア様。お帰りなさいませ」
控えの間に、普段はいない侍従が待機していた。
——これはひょっとすると……。
ボロミアは侍従を見て、少し明るい気分になった。アラゴルンは普段、身近に人を置きたがらない。取り次ぎなら立哨の兵士で十分だというのが王の言い分だが、部屋をこっそり抜け出すのに邪魔だからというのが本音だと、側近の誰もが思っている。
ただし、例外はどんな事柄にあるもので、アラゴルンが控えの間に侍従を進んで置く場合がある。多忙を極めたときの来客の振り分けと、体調が優れないときの来客を断るためだ。今回は後者かと思いながら、ボロミアは侍従に声をかけた。
「陛下のお加減はどうだ? ファラミアからお顔の色がよろしくないようだと聞いたが」
「そうですね。ご夕食の後『少し疲れたから、今日はもう休む』と仰せになって、お部屋へお入りになられました」
疲れたから、かとボロミアは胸の内で呟いた。風邪とは言っていないらしい。それとも本当に風邪ではないのか。どちらにせよ、こんな早い時間から休むこと自体、通常では考えられない。ボロミアがムッと唇を引き結ぶと、侍従は遠慮がちに言葉を付け足した。
「医師をお呼びしましょうかとお尋ねしたのですが……」
「断られたか」
「……はい」
申し訳なさそうに侍従は頷いた。
「気にするな」
ボロミアは侍従の肩を軽く叩いた。
「陛下が医師を呼ぶなと命じたのだ。そなたの過失ではない」
国王が呼ぶなと言えば、侍従は従うしかない。この件で彼を責めるのは酷というものだろう。
「既にお休みになってらっしゃるか?」
「だと思いますが……」
侍従は曖昧に頷いた。部屋へ入ったところまでは見ていても、寝台へ入るところまでは確かめていないのだろう。だが、アラゴルンが侍従を控えの間に置いて「休む」と言ったからには、「誰も通すな」という命令も付いているはずだ。
しかし、ここまで来たのだ。一目でもいいから顔を見ておきたかった。不調というなら、具合も確かめておきたい。休んでいるなら起こしたくはないが、気配に敏い主は眠っていても近づく者に気づく。おそらく目を覚ますだろう。起こしてしまうのは心苦しいが、顔を見たいという思いは抑えられない。
「誰も通さぬよう命じられていると思うが……」
顔を見るだけだから見逃してくれ、と言おうとしたところ、侍従はあっさり「どうぞ」と言い、続き部屋の扉へ手をのべた。
「ボロミア様とファラミア様のご用でしたら、お通しして構わないと伺っておりますので」
今夕帰城することは先触れで伝えてある。それを見越しての処置だろうか。
「そうか」
アラゴルンにとって、自分が“不調でも会いたい対象”になっていることにささやかな喜びを覚え、ボロミアは扉を開けた。
◆◇◆◇◆◇◆
「休む」と言って引き取った主君は確かに眠っていた。ただし、寝椅子で。
ボロミアの眉がぴくりとつり上がった。寝椅子は暖炉の熱が届く位置にあり、寒くはないだろうが、体調不良の者が休む場所ではない。部屋に入る前は起こさぬよう、そっと様子を窺うつもりでいたが、そんな気分は吹き飛んでしまった。
「アラゴルン」
声をかけ、堂々と近づく。だが、アラゴルンの目は開かない。これは余程調子が悪いのかと思い、ボロミアは寝椅子の脇に膝を付いた。
覗き込んだ顔は弟が「優れない」と評したとおり、血の気が引いていた。手袋を取って額に手を当てる。触れた指先から尋常ではない熱を感じ、ボロミアは手を引っ込めた。
なぜ、こんなになるまで放っておくのか。そして、こんなになっても黙っているのか。
不意に、演習先で見かけた狐の姿が脳裏をよぎった。野営地に近い木立の根元でうずくまっているのを、兵士が見つけた。狼に襲われたらしく、後ろ足に牙による傷があり、血だらけだった。狼からは逃げ切った狐だが、人間に見つかって終の時を迎えた。
ただし、重傷の狐に近寄るのは簡単ではなく、仕留めるのには弓矢を使った。獣は動けないときほど、人を近づけない。病に罹ればじっとうずくまり、快癒するのを待つ。傷を負っても同じだ。手負いになると近づくものを威嚇するようになる。触れるなと——。
似ていると思った。近しい者にも病であることを告げず、一人うずくまる主君の姿が。
アラゴルンの眉間には薄く皺が入り、苦しげだ。とにかく寝台で休んでもらわねばならない。ボロミアはマントを脱ぐと、それをアラゴルンにかぶせ、抱え上げようとした。
「……ん」
肩に手をまわしたとき、アラゴルンが身じろいだ。
「……ボロミ……ァ……?」
青灰色の瞳がぼんやりとこちらを見上げる。ボロミアはそうだと頷きながら「気分は?」と尋ねた。
「え? ああ……だいじょう……」
かすれ気味の声で返事があった。舌足らずに聞こえるのは寝起きのせいか、それとも……。ボロミアを見上げる青灰色の目は熱のせいか潤んでいる。そんな状態で大丈夫だと言われても、納得できるものではない。ボロミアは眉を顰めると、「どうした?」と問うようにアラゴルンの首が傾いた。のろのろと彼の腕が上がり、手がボロミアの頬に伸びる。それをボロミアがつかんだ途端、青灰色の目が驚いたように瞬いた。
「……あ……、ああ、そうか……。帰ってきたのか。演習から」
やっと目が覚めたかのような物言いに、ボロミアは首を傾げた。
「そうだが……、アラゴルン?」
「……夢の続きかと思った」
アラゴルンは苦笑して、息を吐いた。
「大丈夫か?」
寝起きでも、すぐさま動けるのが野伏の習い性だ。それが寝ぼけて、こんな鈍い反応をする。まさに不調の証しだった。けれど、妙なところで頑なな主は「大丈夫だ」と言って、身体を起こそうとした。
「おい、待て」
ボロミアは慌てて彼の肩を押さえた。
「運ぶから、じっとしていてくれ」
そう言って、アラゴルンを持ち上げようとしたが、彼は止めてくれと言うように、ボロミアを押し返した。
「待ってくれ、ボロミア」
潤んでいた瞳に厳しい光が浮かんだ。
「離れたほうがいい。流行り病だ。うつるぞ」
「何を言っている」
ボロミアは呆れた。
「そんなことを言っている場合ではないだろう」
「いいや、言っている場合だ。あんたは総大将だぞ。それが病に倒れてどうする」
「それを言うなら、あなたは王だ。王が倒れたほうが問題だろう」
言葉をそっくり返すと、アラゴルンは押し黙った。
「とにかく、今はそんなことを言い争ってる場合ではない。あなたは休まねば」
改めてアラゴルンの身をを抱え上げようとしたが、彼はボロミアの腕から逃れるように寝椅子を下りた。
「大丈夫だ。歩ける」
すくりと立ち、言葉どおり歩き出した。寝室へ向かう足取りはゆっくりではあるものの、思いのほかしっかりしていて、ボロミアは少し安堵した。
「医師を呼ぶのを断ったそうだな」
寝台に腰を下ろしたアラゴルンがコートを脱ぐ。それに手を貸しながら、医師を呼ばなかったことを非難すると、青灰色の瞳が気まずそうに逸らされた。
「なぜ隠す。隠したところで、よくなるものではないだろう」
「……騒ぎになるのが嫌なんだ」
ぼそりと言い訳が聞こえた。
「だからと言って、隠してどうする。あなたは王だぞ。病状が国事に係わるんだ。それを——」
つい声が高くなったところ、眼前にアラゴルンの手のひらが突き出された。
「わかった。わかったから、ボロミア。そんな大声を出さないでくれ。頭に響く」
こめかみを押さえた彼から、恨みがましい視線を投げかけられる。
「……ああ、すまない」
「医師には明日の朝、診てもらう。それでいいだろう?」
横になりながら、アラゴルンが言った。
「診てもらうなら、朝まで待つことはない。今呼べばいいではないか」
朝になったら呼ぶというのは先延ばしの口実で、診てもらう気はないのではないか。ボロミアが疑いの目を向けると、アラゴルンは苦笑した。
「今夜はもう休みたいんだ」
そう言われてしまっては、強いことは言えない。
「ならば、邪魔にならぬよう退散しよう」
本心を言えば付き添っていたいが、それではアラゴルンが寝付くのを邪魔することになる。人がそばにいると眠れない——こともないだろうが、気配に敏い者にとっては、気遣いから付き添う人間がいても、やはり気にはなるだろう。そう思って踵を返したボロミアだったが、歩き出そうとした途端、くいっとコートを引かれた。振り向けば、アラゴルンの指先がコートの端をつかんでいた。
「アラゴルン?」
まだ何か用があるのかと問いかけたが、彼は何も言わない。だが、コートを放そうともしない。
「どうした?」
寝台に手を付き、身を屈める。すると、コートをつかんでいた手が、今度はボロミアの頬に移動してきた。発熱しているはずなのに、その手は冷たかった。
「もし——」
熱で濡れた瞳がボロミアを見つめる。
「大将殿に、流行りの風邪を恐れぬ愚かな勇気があるなら、もう少しここにいてくれないか」
かすれた囁きとともに、熱い息がボロミアの頬にかかった。熱のせいだとわかっていても、潤んだ眼差しとの相乗効果は凄まじく、一瞬、思考が飛びかけた。
「ボロミア?」
返事を促すように呼ばれ、ハッとする。
「無理にとは言わない。うつさぬよう遠ざけるのが、本来取るべき措置だからな」
困らせるつもりはないと、アラゴルンはボロミアの頬から手を離した。
「何を言う」
ボロミアは寝具の陰に隠れようとするアラゴルンの手をつかんだ。滅多に甘えを口にしない人の望みだ。聞かなくてどうする。
「勇気なら、どんなことに対してでもある。風邪など恐れませんぞ」
力強く言うと、アラゴルンはふわりと笑った。
「眠るまでここにいよう」
ボロミアは椅子を引き寄せて腰を下ろした。
「ありがとう」
安心したような笑みを浮かべ、アラゴルンは目を閉じた。シンと部屋に穏やかな沈黙が落ちる。ほどなくして、高い熱の割に規則正しい寝息が聞こえてきた。
眠るまで——そう言ったが、ボロミアは腰を下ろしたまま動かなかった。もう少し、この静かな時間に浸っていたかった。
END