雨の夜
パラ、パラパラパラ……。
木の葉を打つ雨音が大きくなった。回廊を歩いていたアラゴルンは足を止め、耳を澄ますように中庭のほうを向いた。
ザァー、ザザー……。
雨脚が強くなる。天から落ちてきた水は、アラゴルンの足下から暗い庭へと伸びる石畳で勢いよく跳ね、派手なしぶきを上げた。
ザザァ、ザー。
篝火に照らされて雨が昼には見えぬ光沢を放つ。きらりと照り返るさまは、数千本の銀の矢が降ってきたかのように見える。もっとも、これが矢などという話は現実には起こり得ないが、
——美しい。
そう思った。本来なら、暗闇に降る雨を見ることもできぬだろう。篝火が照らす範囲だけ、炎に照り返りきらきらと輝きを放つさまが見える。なんとなく、此岸から彼岸を見るような……。取り留めもないことを思いながら、ぼうっと眺めているうちに、
「……ォ」
銀色の幕の間から、かすかに声のような音が聞こえた。思わず耳を澄ます。
「……くちょうぉ」
雨の音に混じっていたものの、今度ははっきり声とわかった。
ザザー、ザァ……。
「族長ォ……」
激しい雨に交じって声が呼ぶ。アラゴルンは立ち尽くした。耳に届く響きは、大切に封じた記憶を呼び覚ました。
「——族長」
脳裏に同じ声がよみがえる。胸が懐かしさで溢れかえり、鼻の奥につんとする感覚が込み上げてきた。
「……バラド」
声がかすれた。久しぶりに呼んだ気がした、かつて、己の片腕だった男の名を。いや……、
先刻、北方の野伏と話していたときに、その名は上がった。副長だった男の話題は豊富だ。野伏たちと話せば必ずと言っていい程、その名が話題に上る。彼らは懐かしむように、アラゴルンの前で思い出話を披露してくれる。彼らは話すことで仲間を失った傷を癒すのだろう。だから——、
そっとしておいてくれ。
とは言えない。まだ真正面から向き合うには少し辛いが、それを言えば、彼らの顔を曇らせてしまう。彼らは野を歩いていた頃のアラゴルンを知っている。村に長く留まらず、あちらこちらへ出歩いていた長が、石の都に閉じこもって果たしてうまくやっていけるのか案じている。ただでさえ、心配をかけているのだ。これ以上、心配の種は増やしてはならない。
だから封じた。大切に胸の奥へしまい込んだ。思い出すことがないように。自分が思い出さなければ、誰にも悟られることはない。それが今——、
「族長……」
痛みとともに溢れ出そうとしていた。
「……長」
聞こえるのは闇の中からの招く声か、自分の脳裏でよみがえった声か。ずっと封じていたのに、なぜ今夜よみがえったのか。さっきの話題がまずかったのか。彼が足を怪我したときの話が……。
ザザァ、ザザー……。
銀色の雨が降り注ぐ。その合間に暗い色のマントが翻った。
「……ハルバラド」
ふらりとアラゴルンは中庭へ足を踏み出した。頭に肩に頬に手に、大粒の雨が落ち、たちまちのうちに濡れた。けれど、アラゴルンは庭を進んだ。
「ハルバラド……」
先程のマントはもう見えない。あたりを見まわしても人の気配すらなく、暗い空から突き刺すような冷たい雨が降ってくるだけだった。
◆◇◆◇◆◇◆
ハロンドールでの演習を終えた将軍と夕食を取った際、ファラミアは興味深い話を聞いた。夜間、密かにポロス川を渡ってくる者が増えているというのだ。
——砦の守備隊の隊長が申しておりました。
幾分日焼けして戻ってきた将軍は、報告書ではわからない“現地の話”を伝えてくれた。
——実際、我々がいる間も数人いましてな。まあ、見つけた者はすべて守備隊に引き渡しましたが。
間者かと訊いたファラミアに、将軍は曖昧な表情で首を振った。
—— 一見したところ、食い詰めて流れてきた農民のようでした。まあ、化けているだけかもしれませんが。
慎重な言葉を付け加えたものの、彼の心証は「間者ではない」のだろう。しかし、間者でなくとも、食い詰めた者が大量に流れ込んでくるのは問題だ。彼らは富を求めて移ってくる。
だが、よそからやって来た者が簡単に富を手にすることは困難だ。土地の者とて、貴族でもない限り、ささやかな蓄財ができる程度である。地縁のない者が富を築くのは並大抵のことではない。
その現実を知って地道に努力をしてくれればいいが、人間は何かと近道をしたがる。手っ取り早く稼ごうと、盗みを働くようになるのだ。最初は留守宅から金目の物を失敬するぐらいだが、そのうちに同郷の者同士で徒党を組み、明るいうちから人を襲って金品を強奪するようになる。あとは坂を転がり落ちる雪の球のように、あまたの罪を幾層も身に重ねて堕ちていく。
そういう犯罪者が増えれば、当然治安が悪くなる。対策が必要だ。まだ現場で対処できる段階だろうが、心積もりはしておいたほうがいい。
——陛下のお耳にも入れておこう。
ハロンドールは冥王の同盟者から解放された人々が多く入植している土地だ。エレスサールは彼らのことを気にかけ、入植地を国王の直轄地にしている。小さなことでも知りたいだろう。
主に会える用ができたことに口許を綻ばせ、ファラミアは国王の執務室へ向かうべく廊下を折れた。
ザザァ……。
中庭に面した回廊に差し掛かると、強い雨音が聞こえてきた。
——よく降るな。
環状区の排水路は大丈夫だろうか——。そんなことを思いながら、雨の降りを確かめるべく暗闇に目を凝らしたとき、庭の奥に信じられない光景を見た。
「……陛下」
エレスサールがずぶ濡れになって立っていた。
「陛下!」
ファラミアは庭へ飛び出した。冷たい雨がこめかみを打ち、弾けた粒が目に入ったが、構わずに走った。
「陛下ッ!」
エレスサールは雨に打たれるまま立ち尽くしている。こちらを振り向こうともしない。常ならば清しい光を湛える青い瞳が、今は闇の色に染まっている。ファラミアの肌が粟立った。厭な寒気が背筋を走る。
「陛下……エレスサール様……」
声が震えた。こんなことではいけないと拳を握る。
「アラゴルン——」
知らず、主の真名を呼んでいた。濡れそぼつ袖をつかむ。
「何をなさっているのです!」
「……ファラミア?」
ぼんやりとした顔がこちらを向いた。
「ずぶ濡れではないですか!」
肩をつかみ、その身をゆするように言うと、エレスサールはふうわりと笑った。
「そう言うあなたも濡れている」
静かな微笑だった。その瞳はファラミアを見ているというより、暗闇の向こうに居る何かを見ているような危うい光が浮かんでいた。まるで彼岸にいる者と語らうような……、いや、彼自身が彼岸に惹かれ、足を踏み入れてしまったような……。
ぞくり……と、ファラミアの身に震えが走った。
「しっかりなさってください!」
痩身を抱き締めた。彼岸へ渡さぬように、この身につなぎ止めるように。
「大丈夫だよ」
耳許に静かな声が落ちた。
「わたしは大丈夫だ。ファラミア——」
顔を上げると、エレスサールは苦笑めいた笑みを浮かべていた。
「びしょ濡れだな」
そう言って、ファラミアの髪からしずくを払う。
「中に入りましょう」
回廊へ促すと、主は青灰色の目を細めて頷いた。その瞳にはもう、彼岸を映す光はない。回廊へと歩きながら、ファラミアはほっと安堵の息を吐いた。
◆◇◆◇◆◇◆
ファラミアは着替えを済ませると、改めて国王の執務室を訪ねた。部屋の主は湯殿に連れていかれたまま、まだ戻っていない。主を待つ部屋は侍従長の指図で暖炉に火が熾され、心地良い温度に暖められていた。
暖炉の近くに置かれたローテーブルには、酒精の瓶と玻璃の杯が用意されている。瓶の中身は葡萄の蒸留酒だ。雨で身体を冷やした主を慮ってのことだろう。ぬかりのない侍従長の指示に、ファラミアは口許を緩めた。
机の上は片づいている。急ぎの書類もない現状、自分にやることはない。
——控えの間で待つとするか。
ここは国王の執務室だ。臣下の身が部屋の主のように、王その人を迎えるつもりはない。ファラミアは部屋を出ようと扉へ向かった。すると、ファラミアが把手を握る前に扉が開いた。
「やあ——」
開いた扉の間からエレスサールが顔を覗かせた。
「世話をかけたな」
後ろ手に扉を閉めながら——というより、控えの間にいる侍従が閉めたのだろう——エレスサールはにこりと笑った。
「いえ……」
湯を使ってきた王は血色も良く、先刻、中庭で見かけたような隙は一分もなかった。その顔に浮かぶのはいつものゆったりとした笑みだ。その、いつもどおりの背中に、ファラミアは問いかけた。
「なぜ、あのようなことになったかお訊きしても……?」
「別に……」
歩みとともに動いていた背中がぴたりと止まった。
「大したことじゃないよ」
振り返ったのはにこやかな笑顔。けれど——、
「なんでもないんだ」
語る声は空々しい。ファラミアは袖の下で両の手を握り締めた。
「本当になんでもないのでしたら、何も申しません。ですが——」
キッと、半ば挑むように主君の目を見つめる。
「陛下。あなたがなんでもないのに、あのように雨の中、立ち尽くす真似をなさるはずがございません。何があったのかお聞かせ願えませんでしょうか」
「ファラミア……」
「それとも、わたしには聞かせられぬことでしょうか」
エレスサールの息を呑む気配が伝わってきた。
「……すまない」
ぽつりと謝罪の言葉が落とされた。
「……そうじゃないんだ。あなただから、話せないわけじゃない。ただ——」
青灰色の瞳がすいっと逸らされる。
「話すのは、まだ少し辛いんだ」
言われて、ハッとした。「辛い」と聞いて初めて気づいた。自分が彼の心の奥に付いた傷を抉ろうとしたことに。そして、その傷がなぜ付いたのかも……。
雨に打たれるまま、暗い中庭で佇んでいた主の姿が脳裏をよぎった。
——あれは大切な存在を失った者の瞳だ。
闇の勢力が中つ国を脅かしていた、その時代を生きた多くの者は近親者を亡くしている。肉親は災禍を免れたとしても、友人や近隣に住う者は命を奪われてきた。
エレスサールは北方の出身で、王位請求者として現れるまで歴史の表舞台に立つことはなかった。しかし、北方の野伏たちを率いる長であり、冥王への抵抗勢力だったことには違いない。いったい今までどれだけの仲間を失ったのか、気がついていてよいはずだった。自分も失った肉親や部下のことは易々と口にはできない。痛みをともなうことがある。
「……申し訳ありません」
何を言えばいいのか。気づけば許しを乞う言葉を口に出していた。
「あなたが謝ることはない」
やさしい主はすんなりと許しの言葉をくれた。
「わたしが迂闊だっただけだ。雨の中、ぼさっと突っ立っていたら、彼にも叱られただろう。心配をかけたな」
その“彼”とは、かつての仲間のことか、気になったが問いかける間もなく、エレスサールがこちらへ向き直った。
「ファラミア。少し時間をくれないか?」
青い瞳がまっすぐにファラミアを見る。
「話せる時がきたら、あなたに話すよ。そんなに時間はかからないと思う。その時まで待っていてくれるか?」
真摯な言葉にファラミアは息を呑み、とっさに返事ができなかった。
「ああ、もちろん、あなたが聞きたくないなら……」
ファラミアの沈黙を拒絶と思ったのか、エレスサールが慌てたように言葉を付け足す。それにはファラミアのほうこそ慌てた。
「是非——!」
勢い込んで、がっしりと主の手を握る。
「お聞かせください。わたしで良ければ」
エレスサールはぎょっと目を見開き、僅かに後退ったが、やがて静かに息を吐くと微笑んだ。
「ありがとう」
ファラミアはそっとエレスサールの手を放し、頭を下げた。
「お話をお伺いできる日をお待ちしております」
心の裡へズカズカと踏み込んだ臣下を遠ざけず、話せるまで時間をくれという主の心がうれしかった。彼が心の裡を話そうと思う、その対象になっていることに喜びを覚えた。
「ファラミア」
すっかり普段の顔に戻ったエレスサールが呼ぶ。
「何か話があったんだろう? よかったら、ついでに一杯付き合わないか」
酒精の瓶に目を遣った主は、少し首を傾げながらファラミアを振り返った。
「わたしのほうも……少しだけなら、話せることがあるかもしれない」
そう言われて断る理由はどこにもない。
「喜んで」
ファラミアはうやうやしく主君の手を取り、長椅子へいざなった。琥珀色の液体が入った瓶を傾ける。
トクトクトク……。
小気味良い音を立てて、杯が満たされていく。いつの間にか、雨の音は小さくなっていた。
END