記念日
中つ国を覆わんとしていた影の脅威が去った、その年の初夏、エレンディルの血を引くアラゴルンは新たな王朝を興し、ゴンドールとアルノールの二国を統べる王となった。その翌年から王国復興の一行事として、ゴンドールではアラゴルンの誕生日が祝われるようになった。
己の誕生日を国事として祝われることに、少なからず抵抗のあるアラゴルンだったが、
——王の誕生日を毎年祝うことで、王権を強固なものにできます
右腕に任じた男にそう微笑まれては文句の言えるはずもない。
イシリアン公ファラミアは、王なき王国を千年近く支えた執政家の生き残りである。彼は突如現れた北方の野伏に膝を折った——だけでなく、その野育ちの男を、伝統と格式を誇る石の国に相応しい王に仕立て、廷臣すべてに認めさせようと粉骨砕身している。
堅苦しい要求をされることも多いが、それらがすべてアラゴルンのために取り計らわれていることは間違いなく、彼の助力がなければ国政が立ち行かないのが現実だった。
ゆえに、ずるずると裾を引きずる衣装にも我慢して袖を通し、玉座の上にふんぞり返る役目も果たしているアラゴルンだったが、
——疲れる……。
それも確かな事実だった。
戴冠から幾度か春がめぐり、生誕の祝典以外でも、典礼ごとはこなしてきたが、未だに慣れたとは思えないアラゴルンだ。きざはしを下りて戻った執務室で、安堵の息が出てしまうくらいである。
その例に漏れず、今宵も執務室の長椅子に腰を下ろした途端、ほっと息が漏れた。そんな主君の様子に、切れ者の右腕が目顔で笑ったのがわかった。
「お疲れのようですね」
優雅に歩み寄ってきて、肩に乗った重いマントを外してくれる。
「まあな」
アラゴルンはコートの前立てを寛げ、シャツの襟元を緩めた。普段なら「くだけ過ぎる」と眉を顰められる行為だが、堅苦しい式典をこなしてきた後はこの執政も大目に見てくれる。
「どうぞ」
杯が目の前に置かれた。常なら中身は葡萄酒か火酒だが、今夜は水だった。酒精は祝宴でたっぷり飲んでいる。アラゴルンも今日はこれ以上、酒を飲みたいと思わなかった。
「ありがとう」
礼を言って、杯に口を付ける。柑橘系の果実でも付けてあったのか、すっきりと爽やかな香りが鼻孔に広がった。口当たりの良さにつられて杯を干すと、執政は何も言わず、心得たように水を注いでくれた。
目端が利いて手まわしの良い男は、細やかな気配りも得手らしい。千年近く国を統べていた家柄の生まれにしては、他者の傍らに控えることを好んでいるような印象を受ける。
——この男の父も祖父も為政者だったが……。
アラゴルンの脳裏に、かつて会った二人の執政の姿が浮かんだ。そうして、あることに気づく。
「そういえば……不思議だな」
「何がです?」
「国王の誕生日をこう盛大に祝うのなら、統治権を持った執政の誕生日も祝いそうだが……国事として祝典を執り行った記録がない」
過去、この国で身元を隠して仕えていたことがあるが、そんな祝典はなかった。当時、既にアンドゥインの東岸から迫る闇の影響は大きく、統治者の誕生日を祝うような余裕はなかったのかもしれないが、古書をひもといてもそうした記録は残っていない。
「ええ。そうですね」
ゴンドールの史書に精通している現執政が、そのとおりだと頷いた。
「なぜ、執政の誕生日は祝わなかったんだろうな」
「それはきっと、“統治すれども君臨せず”のまま過ごしてきたからですよ」
マルディル以降の執政は代々「王還りますまで、王の御名において杖を持ちて統治す」と唱え、その職を継いできた。「王の御名において」の言葉どおり、どの執政も玉座に腰を下ろすことはなかった。その家系の現当主が今、北方から現れた王家の裔に、何のわだかまりもない顔で笑う。
「それだけの理由で?」
「本当の理由は存じません。ですが、おそらく合っていると思います。玉座というのは“それだけ”の重みがあるのですよ」
他人事のように、傍らの男は微笑んだ。
「しかし、“それだけ”だろう?」
玉座の重みはわかる。国の頂点に立つ位だ。己の言葉ひとつで国の、そこに暮らす民の運命が決まる。だが、それなら、
——事実上、統治していた執政も同じことではないのか?
「何をおっしゃりたいのです?」
ファラミアが訝しげに眉を顰めた。
「その……王位をないがしろにする気はないが、実質的に統治していた者の誕生日を“君臨せず”という理由だけで祝典を控えていたなら、君臨していても祝うことはないと……」
「陛下——」
思いつきを話す言葉は、執政の硬い声に遮られた。顔を見遣れば、先程までのやわらかな表情は消え、碧い瞳に剣呑な光が浮かんでいる。暖炉の炎が照り返った輝きは、獲物を狙う捕食者のそれだ。
——まずい話題だったか。
若い執政は鷹揚な人柄だと知られるが、王の権威に係わることには保守的で頭が固い。式典や礼装を略す提案をすると、必ず説教をされるのだ。
「いや、だから、玉座を軽んじるつもりは……」
アラゴルンは慌てて弁解をはじめたが、遅きに失したようだ。すっと身を屈めたファラミアがぴたりと視線を合わせてきた。
「わたしは他の日も大いに祝いたいと思っているのに、無くすようおっしゃるとは酷いですね」
「別に酷いというほどのことでは……」
大袈裟な物言いに反論しかけたアラゴルンだったが、頭の中で引っかかりを覚えたのは別の言葉だった。
「他の日……?」
誕生日すら祝う必要を感じないのに、他にそんな重要な日があったか? と疑問に思い、そのまま、うっかり首を傾げたのがまずかった。
「ええ、他の日です」
執政がよくぞ訊いてくれたという顔で笑った。しまった、と思ってももう遅い。喜色満面となったファラミアが弾む口調で話しはじめた。
「まず、初めて陛下にお目にかかった日、陛下に杖を授けられた日——この二つは欠かせません」
宣言するような口調に、アラゴルンは右手で額を覆った。どういう定義付けで欠かせないのか、さっぱりわからないが、それを尋ねたら演説が長引きそうなので止めておく。
「また、陛下が王としてご入城なさった日、黒門前へご出陣なさった日、初めてあのきざはしをお上がりになった日——このあたりも王の帰還を祝う意味で重要です」
今度は重要ときた。そのあたりも含めて、戴冠を記念した式典が毎年行われているのではないのだろうか? いったい、これ以上、何を祝うというのか。勘弁してくれと思ったが、下手に口を挟むのはよろしくない。短くない付き合いでその程度のことは学んだ。
滔々と語られる執政の弁を静聴の構えでやり過ごそうと、アラゴルンはテーブルの脇にあった酒瓶を手に取った。飲む気のしなかった酒だが、状況が変わった。投げやりに栓を抜き、とぽとぽと杯に注ぐ。暗い紅色がゆらぎ、芳しい香りが立ちのぼる。
祝事のときは格別良い葡萄酒が用意される。何かと不得手が多い典礼事の中で、アラゴルンが歓迎する数少ない事柄だった。
「ああ、それと——」
さまざまな日を祝日に推挙していた執政の口許が、厭な感じに笑みを形づくった。
「陛下とわたしの二人が結ばれた日を忘れてはなりませんね」
「ヴェッ、ゲフッ……」
アラゴルンの喉で異音が鳴り、口から暗紅色の液体が勢い良く溢れ出た。
「ゴホ、ゲホッ……」
「大丈夫ですか?」
澄ました顔が布を差し出す。それを半ば奪うようにしてつかみ、アラゴルンは口から喉へつたうものを拭った。
「ファラミア……」
呼吸が落ち着いたところで、己の右腕を睨みつける。
「なんでしょう」
返ってきたのは涼しい声とにこやかな笑みだった。余裕の態度だ。アラゴルンからどんな言葉が飛び出そうと対処できる、その自信があるのだろう。
「仮に祝日や祝典を増やすとしてもだな、そんな理由で定めたと、公布できるわけがないだろう」
とりあえず、正論の文句を言ってみた。こんな莫迦げた理由で祝日を増やすなど、ファラミアとて本気で考えてはいまい。ただの嫌がらせだ。だが、それを指摘しても「わたしは本気で申し上げております」と、鉄壁の微笑でしれっと言われるだけだ。ゴンドールの執政は手強い。
「もちろん、陛下のおっしゃるとおり、そのような理由での公布はできかねます」
執政は承知しているというように頷いた。
「ですから、祝典は現状の規模と数に抑えてあるのですよ。おわかりになりますか?」
つまり、規模も数も抑えてある現状の祝典を減らすと言うなら、今以上の数の仰々しい祝典を適当な理由を付けて増やすぞ——と、そういうことだ。
「ああ、わかった……」
アラゴルンは言外に込められた意味を理解し、陰鬱なため息を漏らした。
「だから、現状維持で頼む」
「仰せのままに」
やわらかな金の髪を揺らし、くすりとファラミアは笑った。
「ですが、少し残念ですね。記念日が増えるせっかくの機会でしたのに——」
「……冗談もほどほどにしてくれ」
アラゴルンはがくりと肩を落とした。その俯いた顔を、ファラミアの指がすくい上げる。
「おや、わたしは本気でしたよ」
予想どおりの言葉に、アラゴルンの口からまたため息がこぼれた。
「陛下の唇に、そんな辛気くさい息は相応しくありませんね」
碧い目が細められ、アラゴルンの首にファラミアの手がまわった。
「相応しいのは——」
囁きとともに二人の距離が縮まっていく。暖炉の炎が壁に描く影も重なっていく。
「もっと甘い……」
影がひとつに重なる直前、アラゴルンは目を閉じた。
END