極光
冬の太陽が弱々しく空を薔薇色に染めながら、丘の向こうへ隠れようとしていた。冬の日は短い。
冬季、野伏の村より北方の地では、狼に対し拠点を置いて見張りを立てている。だが、目の届かない地域も多い。そういった最果ての地へ、積極的に足を踏み入れたがるのがドゥネダインの長アラゴルンだった。
大抵のことは族長の意を汲んで頷いてきたハルバラドだったが、そんな旅路へ彼を単独で送り出すのはどうしても首を縦に振れなかった。結局、留守居役を仲間に押しつけ、自分の同行を条件にアラゴルンの出立を認めた。
そんなふうに、発つ前は一悶着あった北の果ての旅だったが、特に変事に遭遇することもなく、今、二人は帰路についている。
——このまますんなりと村に着けばいいが……。
雪を踏みしめながら、ハルバラドはマントの襟を引き上げた。陽が落ちれば、また寒さが厳しくなる。村より北に位置するこの地では、吐く息が凍ってさざめくことすらある。口許を布で覆っているからいいが、これがなければ空気の冷たさに喉が痛くなるくらいだ。それでも、
——風がないだけマシだな。
ハルバラドは空を仰いだ。今日はよく晴れた。この天気はしばらく続くだろう。村へ戻る道中、天候の崩れはなさそうだ。
——寒いことには変わりないが……。
そんなことを考えていたせいで、歩調が緩んでいたらしい。前方から声がかかった。
「ハルバラド。遅れてるぞ」
振り返ったアラゴルンのフードの陰から白い息が立ちのぼる。ハルバラドは応えるように軽く手を挙げ、駆け寄った。
「疲れたか?」
隣に並ぶと、青灰色の瞳が気遣わしげにこちらを向いた。
「いえ」
「もう少しで小屋に着く」
励ますように言われ、思わず苦笑する。しかし、疲れたわけではないと訂正するのは止めた。口許を覆う布を引き下げ、ハルバラドは言った。
「では、急ぎましょう」
「そうだな」
布の上から覗く青い目が細められる。二人の野伏は避難所である小屋を目指し、足を速めた。
◆◇◆◇◆◇◆
「誰も来ていないようだな」
閉ざされた小屋の扉を見て、アラゴルンが呟いた。
「そうですね」
野伏の村より北に人家はない。そのため避難所になる小屋を幾つか用意している。それらの中でも、この小屋はもっとも北に位置するため、使われることは少ない。冬のはじめと終わりに修繕の手が入るが、それ以外の大半は閉ざされたままだ。使わない小屋など無くしてしまえ、という声もある。だが——、
いざというとき、こうして役立つ。埃をかぶった小屋でも、風雪を防ぐ屋根と壁があり、火を熾せる暖炉がある。冬の旅ではありがたいことだ。ハルバラドは剣を鞘ごとはずし、扉を羽交い締めにしている板をこじ取った。
「どうぞ」
室内の様子を確かめ、アラゴルンを振り返る。彼を小屋に招き入れ、ハルバラドは暖炉へ歩み寄った。
「今、火を熾しますから」
暖炉の横に積まれた薪を手に取る。
「では、わたしは雪を詰めてこよう」
アラゴルンが戸棚から、布にくるまれた鉄瓶を取り出した。
「それ、使えますか?」
「ああ。鍋もある。竈は使えそうか?」
「おそらく……」」
ハルバラドは隅の土間に目を遣った。壊れている様子はない。
「薪はありますから、火は使えるでしょう」
「そうだな。じゃあ、芋を茹でよう」
今夜の献立はじゃが芋とチーズと干し肉になるらしい。すべて村から用意してきた食材だった。白く凍てつく世界では大地の恵みなど望めるわけもなく、食用に向く獣にめぐり会うことも稀だ。遭遇するのは人を襲う狼ぐらいである。
「ああ、それと——」
棚を覗いていたアラゴルンがうれしそうな声を上げた。
「火酒もあるぞ」
棚から出した手に酒瓶をつかみ、誇らしげに掲げる。
「それはありがたい」
長の無邪気な仕草に笑いながらも、ハルバラドは火酒の存在に感謝した。この旅にも用意はしてきたが、底をつきかけている。冬季の酒精はまさに命の水だ。冷えた身体を温めるのに欠かせない。
「早いところ食事にしよう」
長は鉄瓶と鍋を手に外へ出ていった。ハルバラドは暖炉に火を熾し、竈にも薪をくべて火を付けた。荷物からじゃが芋を取り出し、小柄で皮を剥いていく。
「手慣れたものだな」
アラゴルンが鍋と鉄瓶に雪を詰めて戻ってきた。
「族長も慣れているでしょう?」
「まあな」
旅に出れば、食事は自分の手で賄わなければならない。だから、野伏の誰もが必然的に調理を覚える。中には腕に磨きをかけ、引退後、若手に調理法を伝授する物好きもいるほどだ。
鍋を竈にかけ、雪が溶けきったところに芋を入れ、煮立つのを待つ。鉄瓶は暖炉にかけた。こちらも沸くまで待機である。金属製の皿と杯を出し、干し肉を並べ、チーズを切り分ける。これで食事の準備はひと通り終わった。
備えつけの寝台や毛布が使用に耐えうる状態か確かめていると、暖炉にあたっていたアラゴルンが立ち上がった。
「付近を見回ってくる」
「早めに戻ってくださいよ。もうすぐ芋が煮えますから」
じっとしていられない長は返事代わりに苦笑をこぼし、扉を出ていった。
——なんだってああも落ち着きがないのか。
いや、待つとなったら、辛抱強く待てる人であることは知っている。しかし、そうでないときは細々と動く癖がある。
——仕官が長過ぎたのだ。
ローハンでもゴンドールでも、昇進の過程で将の副官を務めたことがあったらしい。気配りが要求される立場だ。さぞかし優秀な副官だったろう。だが、その癖がいつまでも抜けないのはいささか問題だ。
ふんぞり返っていろとは言わないが、長にはもう少し泰然と構えていて欲しい——というのは贅沢な悩みだろうか。まあ、手がかからなくて楽ではあるが、何もかも自身でこなされてしまうと、
——少々さみしい。
手前勝手なことを思いながら寝台を整え、一泊の準備が終わったとき、鍋の蓋がカタカタと鳴った。火を弱めて更に煮詰める。暖炉の鉄瓶からもしゅんしゅんと蒸気が上がった。こちらは一旦、火から下ろす。しばらくすると、鍋の水も無くなってきた。芋に火は通っている。しかし——、
アラゴルンは戻ってこない。
ハルバラドは小さく舌打ちし、口許の布を引き上げてフードをかぶり、外へ出た。すると、思いがけず小屋のすぐ前で立ち尽くしている人の姿があった。天を仰いでいる。何を見ているのかは訊かなくてもわかった。星と月以外、照らすものなどないはずの夜空に光の帯が踊っている。
冬、最果ての北の地では、よく晴れた日に空を彩る光が現れる。日の短い北の空を代わりのように照らす、摩訶不思議な光の帯──極光。
「きれいだな」
アラゴルンが呟いた。
「ええ。ですが……」
緑色を帯びたやわらかな光の緞帳を眺め、ハルバラドは言った。
「少し不気味ですね」
「そうか?」
空を仰いでいた人が首を傾げて振り返った。
「ええ」
星の妃の手による瞬きでもなければ、銀の花の光でもない。前触れなく現れて空を蛇行する正体不明の光は、アンドゥインの東から伸びる影と同じくらい怪しげだ。
「まるで虚空の扉が揺さぶられているような……」
堕ちたるヴァラが追放された虚空の、開けてはならぬ扉——。
「おい……」
アラゴルンが咎める声を出した。
「滅多なことを言ってくれるな。ハルバラド」
青灰色の目の上で眉根が寄る。
「申し訳ありません」
確かに、滅多なことを口にするものではない。それが現実になるとは思わないが、不用意な発言から不安が増幅されることはある。とはいえ、頭上で揺らめく光を、ただ美しいと称讃することはできなかった。
「けれど、それくらい不吉に感じます」
「そうか」
アラゴルンは不思議と腑に落ちた顔で頷いた。
「わたしにはエルベレスの領巾(ひれ)か裳裾のように見えるが——」
そう言いながら天を仰ぎ、再びハルバラドに目を移す。
「お前が不吉に感じるのなら気をつけよう」
「あ、しかし……不吉だと言っても、なんの根拠もありませんよ」
長が自分の忠告を素直に聞いてくれるのは良いことだが、対象が“空に踊る光の帯”というのは喜んでいいのか、複雑な気分である。
「それに、あんな長大な光にどう注意なさるおつもりで?」
「せいぜい見惚れないように注意するよ」
アラゴルンは笑った。なんとも肩すかしな答えである。彼が「気をつける」と言うのは、所詮この程度のことなのだ。光が見えるような北の地に近づかない——なんて言葉は一生引き出せないに違いない。
「中に入ろう」
アラゴルンが小屋へ歩き出す。
「そうですね。芋が冷めてしまう」
「火に炙ったチーズを絡めるんだ。冷めたくらいでちょうどいい」
「今夜は暖炉もあるから、ですか」
「ああ、火酒もたっぷりある」
笑いながら小屋に入る。扉を閉める間際、ハルバラドは空を蛇行する光の帯を振り仰いだ。やはり、心から美しいとは思えない。けれど、先程までの光景を思い出し、僅かに頬が緩んだ。
あの光の下、佇む人は美しかった、と——。
END