明青
ゴンドールの東を流れる大河は、かつての王都オスギリアスを通り、やがて左手にイシリアン、右手にレベンニンを臨んで流れ、ベルファラス湾へ注ぎ込む。沿岸一帯はドル=エン=エアニル——大公の国と呼ばれ、湾の北西部には大公の住まうドル・アムロスの都がある。
エルフを祖に持つ大公家の現当主はイムラヒル。前執政の外戚であり、執政職を継いだファラミアの叔父に当たる。指輪戦争のさなか、ついにゴンドールに帰還したエレンディルの血筋、エレスサール王の信頼も厚く、国政に強い影響力を持つ一人だ。
代々辣腕家を輩出してきた名家に相応しく、イムラヒルもその例に漏れない。だが、人当たりはやわらかく、身分の高い者にありがちな尊大さもない。品良く雅やかではあるが、そこに暗さはない。接して感じるのは天性の明るさだ。
——似ているな。
晴れ渡った空を見上げ、ファラミアは胸の内で呟いた。ミナス・ティリスより南に下ったこの地は陽射しが強く、空の色も鮮やかだ。土地を彩る明るい光は、大公家の者の陽気さに通じるものがあった。
ファラミアも大公家の血は引いている。亡くなった母フィンドゥイラスは、前当主アドラヒルの娘でイムラヒルの姉だった。
そうした縁はあるが、この地の景色のまばゆさにはどうにも馴染めない。鮮やかさは魅力的だが、留まって暮らすかと問われたら躊躇してしまう。日常の景色とするには鮮烈過ぎるのだ。
——かの人もそう思ったのだろうか。
脳裏に青灰色の瞳と黒い髪を持つ麗人の姿がよぎった。いつの間にか、部屋から姿を消していたファラミアの主君、ゴンドール王エレスサールだ。
エレスサールは中つ国の北西部のエリアドール——その中でも北部の出身だ。北の地で育った彼は暑さが苦手らしく、昨年も今年も夏は食欲不振に陥った。夏至の頃の強い陽射しには「目が痛いぐらいだな」と苦笑していた。逆に冬はしのぎやすいと言い、雪が積もらないことには少々物足りなく思っている節すらある。
ミナス・ティリスにいるときさえそんな具合だから、さらに南へ下ったドル・アムロスの気候には違和感を覚えるだろう。今日など、冬も近いというのに、歩いていると汗ばむぐらいだ。そのうえ景色は明るい色彩に占められている。北方出身の主が落ち着かない気分になっても不思議はない。
もっとも、いくらこの地の気候に嫌気がさしたからといって、逃げ出す主ではない。気晴らしに付近を歩いているだけだろう。半生を一介の野伏として過ごしてきたエレスサールは、即位後もその癖が抜けず、気軽に一人で動く。
近侍の者にしてみれば、主君の姿が部屋から消えては「すわ一大事」だが、エレスサールのほうは「ちょっと散歩」程度の認識なのだ。従者を連れるよう何度も進言してきたが、実行された試しはなかった。
——またお叱りせねば……。
ファラミアは庭を見まわし、ため息を吐いた。庭に面した扉が開いていたため、探しに出てきたのだが、どうやらいないようだ。だが、エレスサールが庭にいたのは確かである。ファラミアは地面に膝を付き、新しい足跡を眺めた。土に浅く残る痕は崖のほうへ続いている。だからといって、エレスサールが崖から飛び降りたわけではない。
この館は断崖の上に建っており、庭から崖下の砂浜へ下りる階段が岩に刻まれている。潮が満ちるとほとんどが波の下に沈む浜だが、干潮なら下りられる。ファラミアは主の足跡を追って、岩の階段を下りはじめた。
◆◇◆◇◆◇◆
崖を削った階段は長いが、険しくはなかった。さすが大公家というべきか、女人の足でも上り下りできるよう、きちんと整備されていた。従姉妹のロシーリエルは、子供の頃、兄弟に引っ付いて幾度か上り下りをしたと言っていた。母もこの階段を通ったのだろうか。
幼い頃に亡くなった母の記憶はおぼろげだ。脳裏に浮かぶやさしそうな笑顔は、思い出から切り出したものか、肖像画によって補完されたのか、自分でも判断が付かない。ただ、やさしい人柄だったのは間違いないらしい。兄のボロミアがそう言っていた。
ざざぁ……。
波の音が追憶を遮った。顔を上げれば、白い砂浜が間近に迫っていた。踏み出すと、サクリと微かな音が鳴った。
浜には予想どおり、先客の足跡が一対、並んでいた。点々と続くそれを目で追えば、波打ち際にエレスサールの姿があった。先に付いた足跡に沿うように、ファラミアも波打ち際へ向かう。
「——陛下」
声をかけると、エレスサールは穏やかな笑顔で振り返った。
「ここの空は、いつ見ても明るいな」
そう言って、青い空を振り仰ぐ。
「ミナス・ティリスの空も北より明るいが、ここはもっと鮮やかだ」
「前にもこちらへいらっしゃったことが?」
主が「いつ見ても」と言ったのを聞いて、ファラミアは尋ねた。ドル・アムロスへの行幸は今回が初めてだが、前身が野伏だった主は、中つ国を広く知っている。即位前に訪ねていてもおかしくなかった。
「ああ、何度か立ち寄ったことがある」
思ったとおり、エレスサールは来たことがあると頷いた。
「初めて見たときは、こんなにも鮮やで明るい空があるのかと驚いた。と同時に、いとわしく思った」
「……いとわしく、ですか」
北方出身の主に、この地の色合いは馴染めないのかもしれないと案じたが、「いとわしく」とは……。寛容なエレスサールにしては強い表現だった。
「それだけ、当時のわたしは鬱屈していたんだろうな」
ファラミアが意外そうな顔をしたからだろう。エレスサールは当時の自分を卑下するように言った。
「あの頃はまったく先が見えなかった。モルドールの影は伸びる一方で、目の前の戦いには勝っても、結局はすべて影に飲み込まれるのではと、そんな不安ばかりが強くなって……。明るい兆しは見えないときだった。それなのに——」
エレスサールは空を見た。
「ここの空は明るくて……。なんて理不尽なんだと、八つ当たりのように思ったよ」
空を仰ぐ横顔にほろ苦い表情が浮かぶ。
「光に満ちた景色の美しさが憎らしく、疎ましかった」
告解のような呟きが落ちた。
ざざぁ……。
引いていく波が、王の告白を沖へとさらっていく。ファラミアは何も言えず、主の横顔を見つめて立ち尽くしていた。今、己の身を支配しているのは、静かな衝撃だった。この人にもそんな頃があったのかと——。
「すまない。つまらない話を聞かせてしまったな」
ファラミアの沈黙を蔑みだと受け取ったのか、エレスサールは自嘲気味の笑みを浮かべた。
「忘れてくれ」
ひらりと手を振り、ファラミアに背を向けて歩き出す。
「あ、いえ……」
ファラミアは慌てて主を追った。
「お待ちください。つまらないとは思っておりません」
非礼にならない程度の距離を保って、エレスサールの前へまわり込む。驚きはしたが、つまらないとは思わなかった。この偉大な王にも、晴れ渡る空をいとわしく思う頃があったことに、いたって親近感を覚えた。
「もっとお聞かせください」
美しい青灰色の目が見開く。
「あなたのお話なら、どんなことでも知っておきたいと思います」
主君のことを知っておくのは、側近くに仕える者にとって、業務を円滑にこなすための必要事項でもある。たとえ、それが昔のことだったとしても、知っておくのは無駄ではない。主の過去が何かの火種となる恐れもあるからだ。
けれど、そんな役目上のこととは関係なく、エレスサールのことなら知りたいと思う。好奇心でもない。もっと強い欲求だ。どんなときに笑い、何を見てどんな表情をするか、そうした些細なことまですべて知りたいと思っている。そんなふうに思う対象が自身のことを語ってくれるのは、ファラミアにとって欲求を満たす機会になる。
「執政殿は変わってるな」
エレスサールは軽い驚きの表情でファラミアを見ていたが、不意にくすりと笑った。
「話すのはいいが……、執政殿はご存じかな? 年寄りの話は長くなるというのを」
いたずら心を含ませた言葉に、ファラミアは小さく吹き出した。
「構いませんよ。わたしたちが話す時間はたっぷりあるはずですから。違いますか?」
そう、自分たちの時間は止まっていない。山の向こうから影が伸びていた時代は、いつ命を落としてもおかしくなかった。ファラミアも黄泉路を辿りかけた。
だが、今は生きて、先を考えることができる。エレスサールの御世で、この時間は長く続く。続かせることが、ファラミアの責務だ。
「そうだな」
エレスサールが静かに目を伏せた。その顔を縁取る緩やかにうねった黒髪を、潮風が乱す。乱れを整えようと、ファラミアが手を伸ばしたところ、
「——陛下、ファラミア様」
階段の下り口から声が聞こえた。侍従が一人、足早にやって来る。エレスサールだけでなく、ファラミアも捜される対象になってしまったようだ。
「戻りましょう」
「ああ」
頷いたエレスサールが、名残惜しげに背後を振り返る。青い海と空を見る顔に、先程のようなほろ苦い表情や憂いはなかった。光溢れる景色は賢き王の治世で、さらに輝きを増すだろう。
END