手の内
白と黒褐色で描かれた市松模様の盤の上を、歩兵や騎士、僧正や女王を象った駒が行き交う。行き交う駒も白と黒に分かれている。色の別は敵味方の別だ。
彼らの狙いはただひとつ、相手の王を取ること。駒は敵を屠りながら盤の上を進む。同時に味方の数も減っていく。気づけば敵方以上に減っていることもある。
——今は……ちょっとだけ有利かな。
黒のナイトを動かしながら、レゴラスは胸の内で呟いた。カツリと硬い音を立てて、白のビショップを取る。アラゴルンの唇がわずかにゆがんだ。白の木の王が操るのは、その名にちなんだ白い駒だ。ビショップをひとつ失った白の陣では、キングがルークの陰に隠れた。王の入城——キャッスリングだ。
ゴンドールの王エレスサール――アラゴルンなら、臣下を戦わせて自身は城に籠もるなんてことはしない。クイーンの駒並みに縦横無尽の働きをする。だが、盤上のゲームのキングはそうはいかない。レゴラスもキングのキャッスリングを行った。
「ハロンドールに行ってきたらしいな」
ポーンを進めながら、アラゴルンが訊いた。先月の旅のことだ。ギムリと一緒にアンドゥインを下り、海岸沿いをまわった。
「うん。ペラルギアから海沿いをね。ハルネン川の河口まで行ってみた」
「また物騒な所へ行ったものだ」
呆れ気味に言って、アラゴルンは白のナイトを黒のナイトを牽制する位置に置いた。
ハロンドールは南ゴンドールを意味するシンダリンだが、冥王が滅ぶまでの長い間、モルドールに味方する者たちの勢力圏だった。特に沿岸部は海賊が跋扈し、港を牛耳っていた。元々がそんな土地だけに、ゴンドールの統治下になって以降も、治安面での不安が大きい地域だった。
例外的に治安が良いとされるのは、モルドールの支配から解放された人たちが暮らす国王の直轄地と、しっかり者と名高い二、三の領主が治める土地だけだ。アラゴルンが「物騒」と言うのも当然だった。もっとも、死線を幾度も越えてきたレゴラスとギムリに、人の子の物騒など脅威にならないが。
「君の治める国だろ」
領土を「物騒」と形容した王に、皮肉な言葉を投げかける。
「そうだが、落ち着かない不安定な土地なのは事実だ」
「ふ〜ん。けど、その落ち着かない不安定な土地を欲しがる人間がいるそうじゃないか」
クイーンを白のナイトを刺す位置に動かす。白のナイトはきっと逃げるだろう。それが狙いだった。取れなくてもいい。白のナイトが退いてくれれば、レゴラスは味方の駒を動かしやすくなるのだ。目論見どおり白のナイトは逃げた。
「どこで聞いた?」
アラゴルンが眉を顰め、顔を上げた。
「そんな怖い顔しないでよ。エルフの耳に内緒話は意味がないって、君知ってるだろ?」
片目をつぶって笑い、レゴラスはビショップを動かしやすいよう、ポーンをひとつ進めた。アラゴルンもポーンを動かす。
「内緒話をしていたのが誰か、そこが気になる」
「現地で聞いたのさ。ゴルフィンとかいう領主が欲しがってるって」
レゴラスはビショップを動かし、白の陣の左翼にあるルークを取りにいった。「つまり——」と呟きながら、アラゴルンがクイーンを動かした。ビショップを取りにくるかと思ったが、キングを狙ってきた。牽制でルークを動かす。黒のルークは白のクイーンに倒された。
「ゴルフィンの部下が、ハロンドールに出入りしているということか」
レゴラスはクイーンを動かした。黒の女王が白の女王を屠った。
「そういうこと」
取った白い女王の駒を指先でいじりながら、レゴラスは言った。
「いろいろ尋ねまわっているみたいだよ」
「やはりそうか……」
息を吐くように言って、アラゴルンは白のナイトを動かした。黒のキングとクイーン、両方を狙う位置だ。先程と同じくチェックメイトではない。だが、ナイトを排除する手は打てない。レゴラスはキングを動かした。
クイーンが犠牲になるが仕方がない。このゲームはキングを取られたら負けなのだ。現実の世界では自軍の王を失おうとも戦闘は続くが、ゲームはそうはいかない。先刻の意趣返しのように、白い騎士が黒の女王を屠った。
やられっぱなしは主義じゃない。レゴラスは白の本陣に斬り込んでいるビショップを動かした。だが——、
「レゴラス——」
ポーンを動かしたアラゴルンが、レゴラスの手元にある白のクイーンを指した。白のポーンのひとつが盤の端に到達していた。ポーンは相手陣地の端に辿り着くと、昇格できる。上位の駒に成り代われるのだ。ナイトでもビショップでも、キング以外なら昇格する駒の選択は自由だが、大抵は縦横無尽に動けるクイーンが選ばれる。アラゴルンの指も、クイーンの駒を寄越せと催促していた。レゴラスはクイーンの駒を渡した。
ここで白のクイーンが復活しても、同じライン上、右翼に黒のルークが残っている。ルークが動けば、それで終わりだ。
しかし、昇格したポーンの位置を斜めに辿れば、白のビショップが残っている。右翼のルークが復活したクイーンを取りに動けば、確実に白のビショップに屠られるだろう。だからといって、白のクイーンをこのままにはしておけない。こちらは既にクイーンを失っているのだ。レゴラスはルークを動かした。
◆◇◆◇◆◇◆
「エステル。君、けっこう意地が悪いよね」
ゲームに負けたレゴラスは、おもしろくない気分で赤葡萄酒の杯を空けた。ルークを取ったビショップがキングを狙いにきたが、それを回避したところ、ナイトにチェックをかけられた。
「同じ手が二度通じない闇の森の王子が何を言う」
勝ちをおさめた人の子の王は、そう言って笑い、気分良さそうに杯を傾けた。
「だいたい、勝敗の数なら、そっちのほうが多いだろう」
「それはそうだけど……」
今までの勝ちが多くても、今夜のゲームに負けたのは悔しい。
「たまには花を持たせてくれ」
アラゴルンは杯を置き、宥めるような笑みを浮かべた。
「花を持たせるつもりだったならいいんだけどさ……」
レゴラスは唇を尖らせた。
「そんなつもりじゃなかったのに負けたのが気に入らないんだ」
アラゴルンが小さく笑った。
「緑葉の王子はプライドが高いな」
「プライドの問題じゃないよ」
レゴラスはアラゴルンの胸元に指を突きつけた。
「負けるのがいいなんて物好きは、エルフにもドワーフにも人間にもいないだろう」
「そうかもな」
アラゴルンが苦笑する。
「まあ、君は負けても笑ってそうだけど……」
「わたしは自分の力量を知っているだけだ」
人の子の王は穏やかに言った。
「エルフ相手に競ったところで、智恵にしろ身体能力にしろ、敵うはずがない」
さらりと言ってのける顔は諦観の表情だ。人である身を悲観しているわけでも、卑下しているわけでもない。世のことわりを悟ったような顔。
「やだなぁ。百年も生きてないのに、ジジくさいこと言うようになっちゃって……」
大仰にため息を吐いて見せたが、アラゴルンは「言ってろ」と軽く笑っただけだった。
「——それより」
幾分真面目な顔になって、アラゴルンがレゴラスに向き直る。
「さっきの話を詳しく聞かせてくれ」
「さっきの? ……ああ、ゴルフィンとかいう領主の部下がハロンドール通いしてるってこと?」
「そうだ」
「いいけど、君も知ってるんだろう?」
先程、レゴラスがその話題に触れたとき、アラゴルンは「やはりそうか」と呟いた。既に何らかの情報を得ているのだ。
「噂程度だ。証拠をつかむまでにはいたってない」
「証拠って……」
思いがけず堅苦しい言葉を聞いて、レゴラスは目を見張った。
「エステル。君、何する気?」
「ウンバールに武器が運び込まれている」
アラゴルンが硬い表情でいった。
「え?」
「先月、港の倉庫で持ち主不明の武器が見つかった。業者が荷を運び出そうとした際、誤って近くの木箱を壊してしまったんだが……」
「その壊れた木箱から武器が出てきた?」
レゴラスが後を引き取って訊くと、アラゴルンが「そうだ」と頷いた。
「個人の取引にしては量が多く、火薬まで入っていた。それで届けがあって、役人立ち会いの下、他の荷も調べてみたら——」
「他にもそういう荷が見つかった?」
「ああ」
アラゴルンが頷いた。
「しかも、誰の荷物か見当すらつかない。伝票も無く、帳簿類にも記載が無かったそうだ。もっともらしい荷札が貼ってあって気づかなかったらしい。おかげでいつ運び込まれたのか、それすら定かでない」
「厭な話だね」
武器だけなら、量が多くとも、盗賊の手配という可能性が大きい。それはそれで由々しき事態だが、現場の官憲が張り切れば解決できる問題だ。だが、火薬が入っていた。ただの賊が入手できるものではない。
「火薬の出どころを調べさせたが、荷主どころか運び込んだ者すらわからない——と、まあ、事が漠然としているおかげで、とおり一遍のことを済ませた後は手の付けようがなかった。が、今のゴルフィンの話がひとつの手がかりになる」
「でも、その荷主がゴルフィンとは限らないでしょ」
王の直轄地やその周辺へ部下を出入りさせ、土地の様子を尋ねているのは十分うさん臭いが、だからと言って、火薬の荷主が彼とは限らない。
「わかってる。まずそこから調べる」
アラゴルンは残り少なくなっていた杯の中身をくいっと飲み干した。
「仮にゴルフィンが荷主でなくとも、ハロンドールに部下を入れているのはどういう意図からか、それは知っておく必要がある」
普段は穏やかな青灰色の瞳に勁い光が浮かんだ。鷹揚な人柄と言われる白の木の王だが、甘くはない。不正や犯罪に対しては厳正な処置を取る。
「そうだね」
レゴラスは空いたアラゴルンの杯に葡萄酒を注ぎながら言った。
「手伝ってあげようか」
「いや、今のところはいい」
軽く笑って、アラゴルンは首を振った。
「エルフが歩きまわっては目立つ」
「まあ、確かに……」
納得はしたが、レゴラスはつまらないと息を吐いた。こんなときはエルフの身が恨めしい。
「好きでエルフじゃないんだけどなぁ」
「そんなことを言っていると、イルーヴァタールの怒りを買うぞ」
アラゴルンが苦笑いをしながら、警告を口にした。エルフと人間は、それぞれ唯一神であるイルーヴァタールの子だ。かつて、エダインの子孫であるヌメノール人が、永遠の命を羨んで禁を犯した際、イルーヴァタールの怒りは彼らの国を滅ぼした。生まれついての運命を呪うようなことを口にすると、災いが降りかかると言いたいらしい。
「エルフの——」
アラゴルンがレゴラスの腕を指す。
「その弓の技が必要なときは呼ぶ。そのとき大いに手を貸してくれ」
「絶対だよ」
勢い込んで言うと、アラゴルンは「本当は、手を借りたくなる事態は起きないほうがいいんだが……」と苦笑した。そのとおりだが、いざそういう事態が起こったとき、自分が部外者になっているのはつまらない。
「まあ、今回は手を借りなくても解決できそうだが」
「へえ、強気だね」
「今はそれだけの力を持っているからな」
長年、野をさすらい、無冠の身だった人の子は静かに杯に口を付けた。
「それに、ポーンをクイーンに変えるぐらいなら、エルフの力を借りずともできる」
先程使ったチェスの手を引き合いに出し、大国の王はにやりと笑った。
「君の場合はさ、ポーンがクイーンになるというより、ただの野伏だと思わせておいて、実は王だった――てのをやりそうだよね」
「さすがにハロンドールでは使えないな。ここから離れている」
アラゴルンが噴き出すように笑った。
「でも、いざとなったら距離なんて関係なくやるでしょ」
そう指摘すれば、澄ました顔で「必要なら」と言う。臣下が苦労するはずだ。
「だが、それだけが手段じゃない」
そう言った顔には、以前は見ることのなかった老獪さのにじむ笑みが浮かんでいた。エルフの智恵者の下で育ち、半生を旅から旅へと過ごした彼は、いったいどれだけの術を身に付けているのか。その手の内は、彼が振るう剣と同じく、読み切れないところがある。
——今回は高みの見物かな。
彼が仕掛けに動く相手を少し気の毒に思いながら(自業自得ではあるが)、レゴラスは葡萄酒を味わった。僅かな渋みを含みながら、円熟した深い味わいは、老練な王が築く国を思わせた。
END