Dessert
白の街を照らす陽射しもやわらぐ夕刻、演習から戻った白の塔の大将ボロミアは、その足で国王の執務室へ報告に向かった。
「やあ、お帰り」
敬愛する主君は露台の手すりに腰掛け、涼しげな菓子を匙でつついていた。いい具合に柱の影におさまっている。
「着替えくらい済ませてきたらどうだ」
砂埃に汚れたボロミアを眺めて、貴人は微笑した。二ヶ月ぶりに聞く声だというのに、つれないことを言う。着替えなど……、
——その時間も惜しかった。
なのに、想い人は余裕ある態度で平然としている。早く会いたい一心でやって来た自分がこれでは道化だ。ボロミアは憮然とした。
「お気に召しませんかな」
「いいや、構わない」
王は氷菓子をつつきながら楽しげに笑う。
——からかっているのか。
ボロミアはしげしげと主を眺めた。シャツの襟元は緩められ、袖はまくり上げ、他人の身なりをとやかく言える姿ではない。そのうえ——
「陛下こそ、裸足ではありませんか。しかも、そのようなところで物を召し上がるとは行儀の悪い。きちんとテーブルで召し上がっていただきたいものですな」
しかめつらしく意見したが、王は肩を竦めただけだった。
「ここのほうが眺めがいい。風通しも良くて気持ちいいんだ」
シャクシャクと氷菓子を崩しながら、くすくす笑う。その笑顔は二ヶ月前、出立のあいさつをしたときと同じだった。うっかり「お変わりなく」と思ってしまうほどに。しかし、ボロミアの目は確かな変化を捉えていた。
——また、細くなられた。
王は北方の出身だ。口には出さないが、どうやら夏は堪えるらしい。暑さが厳しい折は食が細くなる傾向があった。彼の故郷からすれば、ゴンドールは立派に南の国である。野伏として、中つ国のあらゆる地を渡り歩いたと聞いたが、やはり北方で過ごした時のほうが長いのだろう。毎年暑くなると、決まって食欲を激減させてくれる。
料理長をはじめ厨房の者たちは献立に工夫を凝らしているが、これといった効果は上がっていない。それというのも、王自身が「夏はいつもこんなものだ」と、あまり深刻に捉えていないからである。
長年、野伏の長を務め、九十年近い歳月を過ごした人に、体調管理のイロハなどおこがましいのは承知している。しかし、元々細い人が目に見えて痩せていくから、どうしても気を揉む。ボロミアは眉を顰め、静かに嘆息した。と、不意に目の前に匙が突き出された。
「どうだ? オレンジの果汁を氷室で凍らせたものだそうだ。うまいぞ」
暑い盛りの氷菓子は、限られた者だけが口にすることのできる贅沢な品だ。食欲を失せさせてしまう国王に「少しでも召し上がれるものを」という、厨房を預かる者たちの心尽くしなのだろう。それを臣下が口にする気にはなれない。
「陛下……」
ボロミアは断ろうとしたが、王は匙を引っ込めない。
「早くしろ。溶ける」
口に押し込まれそうになり、ボロミアは慌てて匙に乗った淡いオレンジ色の氷菓を舐め取った。口の中に心地よい清涼感と爽やかな酸味が広がる。
「どうだ、うまいだろ?」
「ええ、まあ……」
ボロミアは曖昧に頷いた。文句なくうまかったが、それを言ってしまっては、国王の性格上「もうひと口どうだ?」と更に押し込まれそう——なことくらいはボロミアにも察しがつくのだ。案の定、当の本人は意外そうに首を傾げている。
「なんだ。大将殿の口には合わなかったか」
「いや、そんなことはないが……」
「遠慮するな。意見を言うなら今のうちだぞ。料理長が忌憚のない意見を聞きたがっていたから、是非とも聞かせてやってくれ」
そう言って、王はさっくり掬った氷菓を口に運んだ。
「料理長が?」
どういうことだとボロミアが首を傾げると、王は小さく笑った。
「今月末に公使の会議があるだろう? 今、厨房はその宴に出す料理を試作中というわけだ。で、わたしは昨日の夜から味見役を仰せつかった」
「味見なら、料理長の舌が一番確かなのではないか? それに、あの会議にあなたは出席しないだろう。確かファラミアが仕切ると聞いたが」
「出席しないから、味見役にちょうどいいんだそうだ。出席者に頼むと、試作と本番、少なくとも二度、同じ料理を食べさせることになってしまうからな」
料理には毎日でも食べられるものと、そうでないものがある。宴のテーブルに並ぶような料理は後者だ。日を置かずに、まったく同じ料理との再会は確かに遠慮したいものである。
「わたしのいい加減な舌で味見役が務まるのかという問題も、参考までにということらしい。正直、アテにしているわけではないんだろう」
なるほど、とボロミアは頷いた。要するに料理長なりの気遣いなのだ。いつもと趣向を変えた料理をつくり、それが宴の試作で「味見が必要」だと言えば、食欲の有無に係わらず義理堅い主君は食べてくれるのではないかという……。
——料理長も苦労しているな。
ボロミアの視線の先で、主君は氷菓子を口に入れ、涼やかな風に目を細めている。青灰色の瞳を飾る長い睫、匙を口に運ぶ手、淡い色の氷菓子をするりと舐める舌先……。
——目が釘付けになる。
「ボロミア。残りは食べてくれ」
いきなり、ボロミアの手に氷菓の器が押しつけられた。
「ど、どうしたんだ」
「物欲しそうな目で見ておいて『どうした』はないだろ」
「なっ! わたしはそんなつもりで……」
「大将殿が氷菓子に目がないとは知らなかった」
「違う! 違うぞ。勘違いするな。わたしは氷菓子を見ていたわけでは……」
見ていたのは氷菓子ではないのは本当だ。だが——
「そんなにムキにならなくてもいいだろう。大将殿が菓子好きでも、わたしは気にしないぞ」
王はボロミアの弁解など聞く気もないようだ。
「違うんだ! アラゴルン。本当に……」
「いいから。早くしないと溶けるぞ」
王の手がくしゃくしゃとボロミアの髪を掻き混ぜた。まるきり子供扱いだ。まったくもって気に入らない。ボロミアはムッとして氷菓子を片づけた。
「いい食べっぷりだな」
王はボロミアの不機嫌など気にも留めていないようで、うれしそうに笑った。
「今夜のメインは白身魚、前菜はコンソメのゼリーを合えたサラダ。スープは……聞かなかったな。酒はベルファラス産の白葡萄酒。微発砲でうまいらしい」
王はボロミアの手から空になった器を取り上げ、部屋へ入りながら今夜の献立を紹介してくれた。ボロミアは仏頂面のまま聞いていたが、彼が食事に興味を示しているのは良い傾向だと思った。料理長の策はうまい具合に当たったらしい。
「楽しみだろ?」
「それは……、あなたが楽しみなら言うことはない」
食欲を無くし身を細らせてしまう人が、食事を楽しく思ってくれるなら言うことはない。だが、王は訝しげに首を傾げた。窺うような上目遣いでボロミアの顔を覗き込む。
「なんだ、大将殿は白身魚もコンソメも嫌いか?」
「嫌いではないが、今のは国王陛下の献立だろう」
白の塔の大将であり、私的にも国王と親しいボロミアは、主君と食卓を共にする機会は多い。しかし、それを当たり前とは考えていない。自分はあくまでも臣下だ。頭が固いと言われようと、その線引きは必要だと思っている。だが、ボロミアより数倍やわらかい思考の国王は、あっさりとその線を越える。
「確かにわたしの夕食だが、白の塔の大将の献立でもある」
青灰色の瞳にいたずらっぽい光が浮かんだ。
「今日帰ってくると報せがあったから、あんたの分も用意してくれと頼んだんだ。料理長は喜んで請け負ってくれた。付き合ってくれるだろう?」
ボロミアの意向を訊いてはいるものの、返事は「是」だと決まっている問いかけだった。
「ボロミア?」
返事を促すように、王は軽く首を傾げる。仕上げは曖昧さを孕んだ上目遣いだ。縋りつくような強引さはなく、媚びるほどあからさまでもないが、この眼差しには見つめられた相手が思わず首肯してしまう力がある。これが無意識の仕草だというのだから恐ろしい。もちろん、ボロミアはあっさり陥落した。
「お付き合いしよう」
主は満足そうににっこり笑う。
「デザートはジンジャーの氷菓子だと言っていた。さっきのオレンジと、どちらが大将殿の好みかな」
ボロミアは苦笑した。否定したにも係わらず、彼の中では「ボロミアは氷菓子を好む」という間違った認識が定着してしまったらしい。
「どちらだと思う?」
「さあな。あんたの味の好みまではわからない」
「では、教えて差し上げよう」
ボロミアはそっと主君の身体を抱き寄せた。氷菓子も悪くはないが、やはり、青灰色の瞳を持つ黒髪の麗人が最高だと——。
END