Everlasting flower
朝の光の中、鮮やかに染まった葉が輝く。居室から空が見えるなんて、森の岩屋ではあり得ない。智恵者の住まう土地、イムラドリス。闇の力に染まった生物が周囲に迫りながら、安息の地であり続ける守られし土地だ。けれど、その安息すら脅かす災いが、今この谷に在る。

一つの指輪。

祖父オロフェアの命を奪った悪しき力。ダゴルラドの戦い。死者の沼地——。話でしか知らなかった災いの素を、自分はこの地で目にした。なんの変哲もない黄金の指輪だと思った。けれど——、

一つの指輪は、すべてを統べ、一つの指輪は、すべてを見つけ、
一つの指輪は、すべてを捕えて、くらやみのなかにつなぎとめる。

ガンダルフが黒の言葉を唱えた途端、空が翳った。緑の大森林を、大いなる恐怖の森に変えた禍々しい気配と同じだった。確かに力があるのだ。冥王が注いだ力が今もあの指輪に——。
ヒュッ……。
物思いに耽っていると、耳が風を切る音をとらえた。レゴラスは剣を収めた矢立を手に取り、立ち上がった。鋭い音が聞こえてくるほうへ歩いていく。程なくして、庭の一隅にある開けた場所に出た。黒衣を纏った人間が剣を振るっている。けれど相手はいない。型をさらっているだけだ。
彼——アラゴルンはレゴラスを一瞥したが、それだけで動きを止めず、声をかけてくることもなかった。相変わらずつれないと思いながら、レゴラスは柱にもたれ、空間に向かって振るわれる長剣を眺めた。
シルエットだけならエルフにも見えるすらりとした体躯が、正確に剣の型をなぞっていく。これが実戦になると、型も間合いもないような剣に変じてしまう。その変化をおもしろいと感じながら、もったいないとも思った。
——これだけきれいな剣を振るうのに。
レゴラスはおもむろに剣を抜き、軽く跳躍した。
キィン……。
軽く刃を触れ合わせ、ぱっと飛び退く。
「いきなり飛び込んでくるなっ!」
長剣を提げた男が眉を吊り上げて叫ぶ。レゴラスは笑った。
「何がおかしい」
「君が悪いんだよ。僕が来たってわかっているのに無視しているから」
そう言い放つと、アラゴルンは相手をしていられないと言わんばかりに大きく息を吐いた。それだけならいいが、あろうことか剣を鞘に収めようとする。
——それはない。
レゴラスは再び跳躍した。
「……オイッ!」
非難の叫びを上げながらも、アラゴルンは冷静に一歩退いて、レゴラスの剣を受け止めていた。さすがだと思う。
「無茶をさせるな!」
文句とともに、長剣が繰り出される。
「君には無茶じゃない」
剣の基礎を金華公から学んだこの人の子は、エルフに近い反応ができる。そのうえ、野に出て身に付いた、基(もと)の型もわからないような剣を振るう。今もほら——、
カン、カン、キンッ……。
長剣だというのに恐ろしく間合いを詰めてくる。こちらが間合いを取るため、離れなければならないのだから、本当に……、
——楽しい。
高揚する気分のまま、レゴラスは両の手に剣を握り締めて跳んだ。
◆◇◆◇◆◇◆
どれくらい打ち合っていたのだろう、レゴラスの剣を跳ね上げて飛び退いた相手が、肩で息をしながら「終わりだ」と言った。
「まだ動けるだろう?」
確信を持って訊いたが、アラゴルンは首を振って剣を収めた。
「手合わせで、これ以上疲れるのは御免だ」
そう言うと、彼は手近な木に寄って幹にもたれ、ごろりと寝転がった。
「なんだ、情けない」
「言ってろ。そっちは疲れないだろうが、わたしは疲れるんだ」
憮然とした声が返ってきて、レゴラスは笑った。剣を収め、彼の隣に腰を下ろす。
「まあ、いいや。君と剣を合わせられて楽しかった。欲を言えば足りないくらいだけど」
何年か振りに会えたこと、剣を合わせられたこと、その喜びを伝えたのに、返ってきたのは素っ気ない言葉だった。
「足りないなら、エルフを当たってくれ。エルラダンとエルロヒアは出かけているが、他にも遣い手はいる。わたしと違って疲れることもない。思う存分打ち合える」
「君がいいんだ」
わかってないなと、くせのある黒い髪を梳く。青灰色の目が二、三度しばたたき、不思議そうに首が傾げられた。
「なんで、そうこだわる?」
「理由なんてないよ」
レゴラスは笑って、彼の頭をくしゃくしゃと掻き回した。彼の手が邪険に払おうとする。その手をつかんで押さえつけようとすると、尖った声を投げかけられた。
「こら、やめろ」
「じゃあ、おとなしくして」
にっこり笑って、飛び起きようとする痩身を押さえつける。
「髪を掻き回すな」
案の定、突き刺さるような眼差しで睨まれた。その視線にぞくぞくする。
「髪のことなんて、全然構っていないくせに」
「自然に乱れるのと、掻き回されるのでは違うだろう」
「ちゃんと梳いてあげるよ」
「それも厭なんだが……」
アラゴルンは顔を顰めたが、争うには体勢が不利だと悟ったのか、身体の力を抜いた。レゴラスは満足げに彼の髪に指を通した。
「ほんとに手入れしてないね。酷い傷み方だ」
「当たり前だ」
野伏が髪なんぞに構っていられるかと、ため息交じりの言葉が続く。
「そんなことを言っていると、夕星姫に振られるよ」
「アルウェンは気にしない」
「おや、惚気?」
「単なる事実だ」
エルフとも感覚のズレまくっている人の子は、色気のない口調で言った。まあ、あの姫君が気にしないのは事実だろう。けれど、事実か否か、それはこの際、関係ない。
——やっぱり惚気だよ。
そう思ったが、アラゴルンが目を閉じるのを見て、口に出すのは止めた。眠る——わけではないだろうが、しばらくここに居る気になったようだ。だったら、この時間を壊すのはもったいない。
さあっと軽やかな風が谷を吹き抜ける。色づいた葉が枝を離れ、アラゴルンの上にも舞い落ちてきた。レゴラスは無言でその葉を払った。風に乱れた、愛しい人の子の髪をそっと撫でる。
「——レゴラス」
不意に真面目な声が自分を呼んだ。
「何?」
「出発の日が迫っている」
緊張を孕んだ響きが告げる。レゴラスは頷いた。
「そうだね」
この地に集った者たちの会議で、あの指輪を葬ることが決まった。葬る──と言っても簡単ではない。滅びの山の火に投げ込むしか方法が無いのだ。それはモルドール深部への潜入を意味する。一歩間違えれば、指輪を冥王に奪われかねない危険極まりない旅だ。その旅にアラゴルンとレゴラスは同行する。指輪所持者の助けとして——。
「いいのか?」
「何が?」
「ただの旅とは違う。エルフでも無事に戻れる保証はない」
アラゴルンが起き上がった。いつになく真剣な光が、青灰色の瞳に浮かんでいる。本当にこちらの身を案じてくれているのだろう。他者の手にかかれば、エルフも死と無縁ではいられない。けれど、人間である彼のほうが、命を落とす危険はより高いのだ。何を心配しているのかと思ってしまう。
「それを言うなら、君のほうこそ、無事に済むとは限らないんだよ」
「わたしはいいんだ。元はと言えば先祖の過ちだ。償う義務がある」
三千年前の祖先の過ちを、昨日のことのように語るのは養い親の影響なのか。生真面目さゆえのことだとわかっていても、つい思ってしまう。生まれてもいなかったくせに、見てきたように言うなんて、
——生意気だよ。
「だったら、僕にも理由はある。ゴラムを逃がしてしまったのは、僕らの手落ちだからね。それに——」
レゴラスは美しい青い瞳を見つめた。
「すべてを賭けたくなるときもある」
——君がずっと背負ってきたものに挑む時が来たんだ。なのに、そばにいなくてどうするのさ。
「……つくづく変わり者だな」
ドゥネダインの長が呆れた顔で空を仰いだ。
「知らなかった?」
「知ってた」
短い言葉とともに、アラゴルンが立ち上がる。その背中から、小さな呟きが聞こえた。
「……が、ここまでとは思わなかった」
レゴラスは口許を綻ばせ立ち上がった。
「君はまだまだ甘いな」
麗しい人の子が驚いた顔で振り返る。微笑みとともにレゴラスは宣言した。
「君が行くところなら、僕はどこだって行く——そう決めてあるんだから」
「レゴラス……」
アラゴルンの顔に戸惑いの表情が浮かぶ。こだわるな、勝手に決めるな、そう言いたげだ。
——こだわって何が悪い。
レゴラスは彼の困惑を笑い飛ばす。
「僕が好きで行くんだから、君に止める権利はないよ」
指を突き付けると、アラゴルンは圧されたように身を引いた。だが、その顔に困惑ではなく苦笑が浮かぶ。
「……本当に変わり者だ」
レゴラスはにこりと微笑む。変わり者と称されようと構わない。旅立つときは共に行くと、初めて会ったときに決まったのだ。この人の子の生ある限り、共に在ると——。
「ガンダルフと打ち合わせをする。一緒に来てくれ」
歩き出したアラゴルンが小さく振り返った。レゴラスは矢立てをつかみ、黒衣の背中を追った。
END