挽歌
隣国ゴンドールの王エレスサール——アラゴルンの誕生日を三日後にひかえた冬の終わり、リダーマークの王エオメルは、既にゴンドールの首都ミナス・ティリスに滞在していた。一度、生誕祝いの式典に出席して以降、毎年訪れるようになった。
エオメルにとって、アラゴルンは王としても戦士としても敬い慕う人物である。会える機会が増えるのは、ひとえに歓迎すべきことだった。
妻に迎えたロシーリエルも、実父や兄たちに会えることはもちろん、夕星の王妃やイシリアン公妃となったエオメルの妹、エオウィンと会えるのを何より喜んでいた。今夜も夕星の王妃の招きで出かけている。エオウィンも一緒だ。女性三人で話が弾むのか、いつも夜遅く——というか、大抵泊まってくる。
ローハンの王も王妃も、それぞれミナス・ティリス滞在を楽しんでいるのだった。
ただし、今回は国を離れるに際して、気がかりがひとつあった。それは、近頃ローハン谷付近で変事が発生しているという話だった。変事といっても、遭遇した者の話を信ずれば、それは人の仕業でも動物の仕業でもなく、ましてやオークなど闇の生物の仕業でもなく、怪異ということだった。
場所柄、アイゼンガルドの残党の仕業や、ファンゴルンの森の影響が疑われたが、調査に遣った兵士たちの報告は、それらの疑念を否定するものだった。彼らが見たのは、夜陰に蠢く淡い人馬の影だった。
——彼らの鎧や盾は我々の物と酷似しておりました。
——つまり、それらの影はマークの騎士たちが迷い出たものだと?
——おそらく……。
非業の死を遂げた者が迷い出るという現象は、しばしば耳にする話だ。それも、激しい戦いのあったアイゼンの浅瀬があるローハン谷近辺とあれば、そうした影が出没したとしても不思議ではない。だが、
——なぜ、今頃……?
指輪をめぐる戦いが終わって数年、これまでそうした話は聞かなかった。
——これまでは、夜間、ローハン谷に立ち入る者がほとんどいなかったからではないでしょうか。
そう言ったのは西の谷近くの領主だった。
冥王は滅びたが、闇の生物すべてが消え去ったわけではない。モルドール崩壊後も、日が落ちるとオークが現れることがしばしばあった。旅人たちは、陽が落ちてからローハン谷へ足を踏み入れることは避けていた。
ローハン谷は交通の要衝だ。ローハン軍はゴンドールの協力を得ながら、オークの討伐を繰り返し行ってきた。その成果は徐々に現れ、この一年程でオークの出現はめっきり減った。オークと遭遇する危険が減ったため、最近は谷の近くで夜を過ごす者が出てきたようだが、
——同時に、怪しげな影の目撃談が増えた、か……。
現時点で、その影とやらが何か人間に危害を加える——たとえば、近づいた者を取り殺すといった——報告はない。
だが、危害がないからといって、放置しておいて良いものではない。気味悪いものが出没すれば、人は恐怖を覚える。交通の要衝である渡河地点の浅瀬が、そんな恐怖の場と化してしまうのは望ましくない。恐怖を取り除き、民や旅人を安心させるのが統治者の責務である。それはわかっているが、
——どうすればいいのか……。
それが問題だった。オークなら剣で排除できるが、亡霊に剣は通用しないだろう。第一、現れる亡霊はマークの騎士たちだという話だ。敵ではない。戦う必要はないはずだ。では、どうするか。
交渉ごとの基本は話し合いだが、果たして「現れないでくれ」と話して、聞いてくれるものだろうか。効果があるとはとても思えない。
——どうしたものか。
帰国したら視察に行くことになっているが、対応策ひとつ持たぬままでは本当に“ただ見るだけ”になってしまう。
——情けない……。
煖炉の前を行ったり来たりしていたエオメルだったが、がくりと肩を落とし、寝台へ座り込んだ。
「はああ……」
思わずため息がこぼれる——と、突然、窓を閉めたはずの露台から風が吹き込み、同時に暗がりから影が飛び出してきた。
「……っ!」
とっさに剣の柄に手をかけ立ち上がれば、
「エオメル殿、わたしだ」
そこには手を肩の高さに挙げた、ゴンドールの王アラゴルンの姿があった。
「……アラゴルン殿」
「すまない。驚かせてしまったな」
彼は詫びるように小さな会釈をした。
「いえ……」
エオメルは剣の柄から手を放した。おそらくアラゴルンは訪いの合図として、窓枠を叩いたはずだ。エオメルは気づかず返事をしなかったが、錠が開いていたので入ってきたのだろう。
「わたしのほうこそ申し訳ない」
剣を向けようとしたことをエオメルは詫びた。
「考えごとをしていたので……」
「悩みごとかな?」
アラゴルンが窺うように首を傾げた。
「よければ相談に乗るが……、これでも長く生きている分、少しは智恵が働く。いかがかな」
温かい言葉だった。彼は二十歳までエルフの智恵者の下で過ごし、その後、数多の戦いを知略と剣の腕でくぐり抜けてきた戦士だ。その智恵が“少し”どころでないのは周知の事実である。相談役として、これ以上はない相手ではある、が——今回の問題は生者相手のことではない。はっきり言って、人の手には余る話だ。
けれど、アラゴルンは前の戦いの折り、死者の道を通り、そこに巣食っていた者たちの力を借りた人である。解決の手がかりが得られるかもしれない。エオメルは彼に椅子を勧め、デカンタの葡萄酒を杯に注いで、ひとつをアラゴルンに渡した。
「悩みと言っても、怪事なのですが——」
エオメルは寝台に腰を下ろし、ローハン谷の怪異について話した。すると、ひととおり話を聞いたアラゴルンが静かに言った。
「しばらく前、ミナス・ティリスで似たようなことがあった。夜半過ぎに、ペレンノールから大門へ向かってくる蹄の音が聞こえると——」
エオメルが目を見開くと、アラゴルンはこくりと頷いた。
「見張り台からは白っぽい影が見えるらしいが、とにかく実体は無い。けれど、騎馬隊が近づいてくるのと同じ音が聞こえてくるわけだ。もちろん、門は閉めたままだ。すると、扉の向こうから馬のいななきが聞こえ、隊が開門を待つ気配が伝わってくる。そして、東の空が白みはじめると、気配が無くなる——そんなことが毎晩繰り返されるようになった」
葡萄酒をひと口飲んで、アラゴルンは話を続けた。
「害はないが、毎晩繰り返されては衛兵たちは堪らない。それも僅かの間ならともかく、夜半過ぎから夜明け間近まで続くとあっては、見張りの任務に影響する——が、なんとかしようにも、どうすればいいのやら……。現場は困り果てた」
そうだろうと、エオメルは頷いた。向かってくるのがオークなら斬ればいいが、実体の無い者が相手では兵士は戦いようがない。ローハン谷の怪異の対処で困っている自分たちと同じだ。
「なぜ今頃になって……と不思議がる声も上がった。指輪戦争が終わってから日が経っている。だが、それも、騎馬隊が現れはじめたのが、ちょうどオスギリアス東岸のある場所で工事がはじまった時期と重なっていたことがわかり、そのせいだろうという話になった。そこは昔——おそらく住民が東岸から去った頃の激戦区だったんだろう。掘ったら、たくさんの骨が出てきた。工事は遺骨を埋葬地へ移すまで延期になったが、掘り返したことで彼らの眠りを妨げたのだろうと……」
戦に付きものの悲劇とはいえ、痛ましい話だった。しかし、遺骨が出たことが怪異の原因となると——。
「ローハン谷の怪異も、何者かが死者の眠りを妨げたからだと?」
「さあ、それはわからない。そうかもしれないし、そうでないかもしれない」
アラゴルンは曖昧な表情で小さく首を振った。
「それで、騎馬隊の幻は遺骨を埋葬することで消えたのですか?」
アラゴルンは話のはじめに「似たようなことがあった」と、過去のことを話す口調で言った。つまり、今は幻の騎馬隊は現れない——ということになり、解決しているのだ。怪異をおさめる参考にと思ったが、その方法が遺骨の埋葬となると、ローハン谷で同様の措置を取るのは困難と判断せざる得ない。
オスギリアスの例と違い、ローハン谷では眠りを妨げられた遺骨の場所が特定できていない。まず、谷のどこにその場所があるのか探さねばならないが、交通の要衝である谷は、指輪戦争以前にも褐色人との間でしばしば戦場となってきた。付近に築かれた塚も多い。探すとしたら、谷中探すことになるが、果たしてそれでも見つかるか……。気の遠くなったエオメルだったが、アラゴルンの声で我に返った。
「いや、騎馬隊騒動は埋葬が済ませる前におさまったよ」
「どのようにして!」
エオメルは身を乗り出した。
「方法を言えば、話をした——となるんだが、そのきっかけは……ああ、そうだ。実はわたしがこの話を知ったのは偶然なんだよ」
空いた杯に葡萄酒を注ぎながら、アラゴルンは言った。
「ある夜出かけた宿屋で聞いたんだ。それまでは、夜な夜な門前に騎馬隊の幻が出ているなんて、まったく知らなかった。この手の話はなかなか伝わってこない。伝わってきたとしても、かなり時間がかかってくるからね。直接見聞きすることの重要さを改めて知ったよ」
アラゴルンは小さく笑って言った。彼は王位に在りながら、よく息抜きと称して街に下りる。庶民と同じエールを飲み、彼らの話を聞いて楽しんでいるようだ。そんな彼らしい話の仕入れ方だった。
「話を聞いて、幻の騎馬隊はどうやらゴンドール軍らしいとわかった。それなら王冠をかぶって出ていけば話が通じるかもしれないと思って、翌日の晩、王冠と王旗とアンドゥリルを用意して門へ行ってみたんだ」
確かに、王が出ていけば話が通じるかもしれないが、下手をすれば取り殺されかねない相手だ。そんな無茶な行為を側近たちが許したとは思えない……が、王冠や王旗を持ち出したとなると果たして……。エオメルは恐る恐る尋ねた。
「それは……イシリアン公もご存じのことで?」
イシリアン公は妹のエオウィンが嫁いだ相手であり、エオメルの義弟となったファラミアのことだ。執政職を兼ねる彼は主君大事の忠臣だが、それゆえ、アラゴルンの型破りな行動には良い顔をしない。繰り返される微行を、もっとも厳しく咎める人物だと聞いている。そんな男が怪異現象の前に主を出すなど、頷くわけがない。だが、
「ああ、ファラミアに話したよ」
アラゴルンはあっさりと言った。
「アンドゥリルはともかく、王冠や王旗を人知れず持ち出すのは至難の業だ。だから話した。ファラミアを説得できれば、後はやりやすいからね」
「説得できたのですか?」
いいや、とアラゴルンは首を振った。
「街に出かけていたことを叱られたうえ、『そのような怪しげな場へお出ましになるなどなりません』と猛反対された」
アラゴルンは軽く肩をすぼめ、苦笑した。
「でも、彼も戦争の犠牲者には心を痛めている。だから、幻の騎馬隊の件を放置はしないと言って……。この後が呆れた話なんだ。わたしには駄目だと言いながら、『わたしが彼らと話します』と言うんだから……」
無茶苦茶だと、アラゴルンは笑った。呆れた話と言いながら、その笑顔は忠臣の心意気に感心したようにも見えた。
「それで結局、二人で出かけた」
それこそ呆れた話である。王であるアラゴルンは当然だが、王に次ぐ権力を持つ執政とて、身軽に動いてはならないはずだ。それを夜中、二人そろって門へ出向いたというなら、どっちもどっちである。そう思ったが、エオメルは黙っていた。
「ファラミアには門の内側で待機してもらったが」
それはまた、同行していながら王だけ門外へ出すなど、よく義弟が納得したものだと思ったら、アラゴルンはしれっと言った。
「まあ、ちょっと当て身を食らってもらって……」
エオメルはしげしげとアラゴルンを眺めた。この人はときどき、こういうことをする。暴力を好まないが、使うときは躊躇わない。門まで同行しながら、当て身で眠らされた義弟はいい面の皮だ。
「それは……大丈夫だったのですか?」
エオメルの口から出たのは、そんな月並みな言葉だった。
「ああ、すぐに目を覚ましたそうだし、わたしが中に戻ったときは普通にしていたから、大丈夫だったと思う」
そう言ってアラゴルンは、当て身を食らった義弟が後に引くような怪我を負っていないことを説明してくれたが、エオメルが訊いたのはそこではない。義弟はただでさえ主君の行いに厳しい。そんな彼に当て身を食らわせて、後でややこしいことにならなかったかを心配したのだが……。
「当て身の件に関しては、後でたっぷりしぼられたよ」
軽く笑った顔を見る限り、“たっぷりしぼられた”ことすら、あまり堪えていないようだ。少々、義弟が気の毒になった。
「それで、騎馬隊の幻のほうはどうなったので?」
気を取り直して、エオメルは話の続きを尋ねた。
「ああ。話したら還ってくれたよ」
事もなげにアラゴルンは言った。
「話したら……ですか」
さっきから「話した」と聞いているが、亡霊相手に話して通じるものなのか——。眉を顰めたエオメルに、アラゴルンは静かに言った。
「そなたたちは勇敢に戦った。今こうして街と国が在るのは、そなたたちのおかげだ。心から感謝する。どうか安らかに眠ってくれ——と」
鎮魂の言葉だった。
「そうしたら、消えた。死者の軍勢と同じだな」
死者の軍勢というのが、アラゴルンが指輪戦争で力を借りた亡霊たちだ。イシルドゥアとの誓約を破った彼らは、死しても安らかな眠りを得ることができず、山の奥深くで漂っていた。イシルドゥアの末裔であるアラゴルンに助力することで誓約を果たし、ようやく彼らは安らかな眠りにつくことができた。
「あのときも王家の血筋というのが物を言ったが——」
当時を思い出すかのようにアラゴルンは一瞬まぶたを伏せ、それから杯に口を付けた。
「今回も王冠と王旗が効いたんだろう。ファラミアも執政の白い杖を用意していたからな。——もっとも、それを使う機会を彼から奪ってしまったが」
静かに笑む隣国の王の横顔を、エオメルは見つめた。アラゴルンの言うとおり、王だからできたことだろう。王が敬意を持って謝意を示したからこそ、亡霊たちは慰められ、安らぎを得ることができたのだ。他の者が慰霊の言葉を用いても、果たして迷える兵の魂を鎮めることができただろうか。
ゴンドールで同様のことが為せるのは、アラゴルンが即位するまで事実上の統治者だった執政の後継者——つまり義弟だけだろう。だから、彼は「わたしが話します」と杖を携えて門へ向かったのだ。ならば——。
「ローハン谷で試してみてはいかがかな」
エオメルの頭に浮かんだことを、アラゴルンが言った。ペレンノールを駆けてきたゴンドール兵の亡霊が王の言葉で鎮められたのなら、ローハン谷を徘徊するマークの騎士の影は、マークの王の言葉で鎮まるかもしれない。
「帰国したらさっそく」
そう答えると、アラゴルンはゆったりと微笑んだ。
「参考になりました。ありがとうございます」
解決策を示してくれたことに礼を言うと、アラゴルンはゆるりと首を振った。
「礼には及ばないよ。ローハン谷は交通の要衝だ。そこで怪異が続いては、アルノールとの行き来に影響が出る。それに、死者がいつまでもこの世をさまよっているのは、どこの民であれ、哀しいことだ」
「ええ」
エオメルは頷いた。
「ただし……、エオメル殿」
「何です?」
「ここの大門前で効果があったからといって、同じ方法でローハン谷の事態が収まるかはわからない。だから——」
参考程度に聞いておいてくれ、と言いたいのだろう。わかっているとエオメルは笑った。
「それぐらい承知です。ご心配なく。わたしも王。亡くなったとはいえ、マークの騎士相手なら説得してみせます」
「そうだな。余計なことを言った。すまない」
アラゴルンが自嘲するように苦笑した。「いえ——」と、エオメルは腰を浮かし、彼の手を取った。
「お話を聞かせていただいてよかった」
アラゴルンがにこりと笑う。エオメルは腕に力を込め、そのやさしい笑みを引き寄せた。寝台に二人分の重みがかかり、シーツに新たなしわが寄る。
「マークの騎士の鎮魂は慰霊の歌が供されるのかな」
隣に座った人が囁くように言った。
「そうですね……、新たな歌が生まれるかもしれません」
エオルの家の子らは、さまざまな事柄を音に乗せて歌い継いでいく。
「聞いてみたいな」
「お聞かせしましょう」
エオメルは即答し、アラゴルンの背に手をまわした。脳裏にアイゼンの浅瀬の風景が浮かぶ。今頃は木々の芽の膨らみが大きくなっているに違いない。温もりを抱いたその耳に、挽歌の哀しい調べが聞こえた。
END