銀の花よりも
軍務の高官と夕食を済ませた後、ボロミアは敬愛するエルフの石の王、アラゴルンの執務室を訪ねた。
日ごとに陽射しは暖かさを増しているが、夜はまだ冷える。国王の執務室は煖炉に火が入れられ、暖められていた。だが、部屋の主の姿は室内になかった。部屋を見まわすボロミアの頬を、冷えた風がすっと撫でた。露台へ出る戸が小さく開いている。
アラゴルンは王位請求者として現れるまで野伏の長を務めていた。そのせいか、外気を好むようなところがあり、よく露台に出ている。今夜もその例に漏れなかったらしい。ボロミアは扉を開けた。手すりにもたれ、空を仰いでいる人がいた。
「冷えますぞ」
そう声をかけたが、北方出身の王は「大丈夫だ」と軽く笑うだけだった。明るい緑色のシャツに褐色のコートという取り合わせは、若葉の萌えた樹木のようで、ボロミアは思わず口許を綻ばせた。
「月がきれいだ」
そう言って、アラゴルンはボロミアのほうへ、すっと手を伸ばした。誘われるまま、ボロミアも露台に出た。東の空に丸く満ちた明るい輝きが浮かんでいる。ティリオンが導く銀の花だ。花ひとつであの輝きならば、ヴァリノールにあったというテルペリオン——銀の木の輝きはいかばかりだったか。世界の灯りとなっていたのも頷けるとボロミアは思った。しかし——、
「今宵の銀の花は殊のほかきれいだ。そう思わないか?」
想い人が夢中というのはおもしろくない。今の問いかけも空を見上げたままされたものだ。隣で銀の花に見入っている人——アラゴルンの横顔を見ながら、ボロミアは口を開いた。
「確かに美しいが——」
彼の肩に手をまわし、ボロミアのほうを向かせる。
「二人でいるときぐらい、わたしのほうを見て欲しいものだな」
頬に手を添えて囁くと——、
「プッ……」
こともあろうに、彼は吹き出した。ボロミアから視線をはずし顔を俯け、肩を小刻みに震わせる。同時にくぐもった笑い声が聞こえてきた。
「……アラゴルン」
ボロミアが渋い声で呼ぶと、アラゴルンは笑いをおさめて顔を上げた。
「何も笑うことはなかろう」
意中の人と二人きりで過ごす時に、自分のことだけ見て欲しいと願うのは当たり前のことではないか。それを笑うとはあんまりだ。
「すまない。あんたが大真面目な顔で芝居の台詞のようなことを言うから……」
そう言いながら、アラゴルンは指で目尻を拭った。涙を浮かべるほど彼は滑稽に感じたのかと思うと、無性に腹が立った。その感情をぶつけるように睨みつける。だが——、
「笑って悪かった」
青灰色の瞳がスッと間近に迫ってきた。そのやさしい眼差しに惹き込まれる。睨んでいたはずが、いつの間にか目を逸らせなくなっていることに気づく。先刻湧き上がった怒りは、あっという間に消し去られてしまっていた——青く澄んだ瞳に。
呑まれる——とはこういうことなのか。恐怖を覚えるのでもなく、圧倒されるのでもない。言葉もなく魅入られ、包み込まれてしまう、青く静謐な世界に。
露台に立っているはずなのに、まったく別の場所にいるような感覚に襲われる。心が軽やかに解放され、穏やかな青い世界に覆われていくような……。
「どこを見ている、ボロミア」
奇妙な感覚に捕らわれていたボロミアを、静かな声が呼び戻した。ハッと我に返れば、眼前で黒髪の麗人がいたずらっぽい笑みを浮かべていた。ボロミアの意識を呑み込んでいた青灰色の瞳がきらりと光る。
「今度はあんたが余所見をしている。わたしでもなく、月でもない。別の遠い場所を見ている」
くすりと笑い、アラゴルンはくるりとボロミアに背を向けた。
「心ここにあらずだ」
「あ……いや、別に他のことを考えていたわけでは……」
そう、他のことを考えていたのではない。考えられなくなる程、彼に見惚れていたのだ。淡い青色の瞳に。それを伝えようと口を開いたが——、
「その……、あなたの目に見入っていただけで、別に……」
先程の感覚をどう言い表せばいいのかわからなくなって、言葉が途切れた。想い人は振り向きもしない。こんなふうに背を向けたまま黙っていられると、どうしていいかわからなくなる。ただ背を向けられただけで、なぜこんなに不安になるのか。
「……すまない、悪かった」
何を謝るのか自分でもよくわからぬまま、けれど、気の利いたことが言えぬ身は、謝罪の言葉を口にしていた。
「謝らなくていい」
アラゴルンがパッと振り返った。
「あんたが謝ることはない。ボロミア」
「しかし……、あなたが気を悪くしたのかと……」
そうじゃないと言うように、アラゴルンは小さく首を振った。
「ちょっとからかってみただけだ。すまなかった」
きまりの悪い笑みを浮かべ、彼は肩をすぼめた。
「いえ……」
他の者が同じことをしたら、ボロミアは怒っただろう。だが、アラゴルン相手だと怒りは湧かなかった。ボロミアの頬に、主君の温かい手が伸びる。
「わたしは好きだよ。さっきのような目をしているあんたも」
にっこりと青い目が細められる。銀の花よりもボロミアを魅了する笑みだ。じわりと体温が上がり、彼の背に腕がまわる。銀の光が降り注ぐ露台の床に、二つの影が重なって落ちた。
END