品評の愉しみ
先月、モルドール軍がペラルギアの下流で渡河しようと動いた。ゴンドールの執政エクセリオン二世は直ちに軍へ命を発した。命を受けた白の塔の大将デネソール——エクセリオンの嫡男でもある——は軍を率いて現地へ赴き、ペラルギアの駐留部隊とともにモルドール軍を破った。
今宵、ゴンドールの都、ミナス・ティリスの白き塔の下で開かれている宴は、その戦勝祝いである。位の高い貴人だけでなく、戦功を立てた兵士も招かれていた。
戦功によって招かれた兵士は、栄誉なことだと喜び、宴の場にやってくるが、多くは華やかな場に馴染めず、早々に立ち去っていく。
ただし、最初は馴染めずにいた者も、招待の数が重なれば次第に慣れていく。何事も場数を踏めば、それなりの振る舞いを覚えるものだ。また、繰り返し祝勝会に招かれるほど優秀な者ならば、慣れる頃には宴に相応しい地位に昇っている。場違いな気まずさを感じることもなくなる。
しかし、いつまでたっても慣れぬ者もいる。デネソールは星の鷲の名で呼ばれる男に目を遣った。ソロンギル——ローハン王の紹介でゴンドールにやってきた男は、次々に戦功を立てて出世の階段を駆け上り、大隊の長にまでなった。現在、将軍にもっとも近い者だと噂されている。名実とも戦勝祝いの場に相応しい人物だが、どことなく居心地悪そうだった。
ソロンギルの立ち居振る舞いはゴンドールに来た当初から、礼儀作法を教える必要のないものだった。大国の執政を前にしても、臆することなく礼を取ってみせた。一介の流れ者という本人の言が嘘くさくなるほど落ち着いた態度だった——が、華やかな社交の場となると勝手が違うようだ。
ソロンギルが礼に適った振る舞いをするため、多くの者は気づかぬようだが、当人はかなり苦手に思っているらしい。毎回なんとか出席せずに済ませられないかと、頭を捻っているというのだから呆れる。いい加減に慣れろと言ってやったが、肩をすぼめて困ったように苦笑していた。
——何をどう話せばいいのか……、わたしのような粗忽者には難しいのです。
雅やかな宮廷人たちの会話に付いていけないというわけだ。武に秀で、頭も切れる男にも苦手な分野があったかと少し愉快に思ったが、不得手だと口にしながら大した失敗もせずに過ごしてきたことを考えると、得意と言ったときには、それこそ完璧にこなすのではないかと、やはりおもしろくなくなった。
今、ソロンギルは将軍や高官など、そうそうたる顔触れに囲まれ、相槌を打つように頷いている。一見楽しげな談笑の光景。ソロンギルの顔にも淡い笑みが浮かんでいる。だが、その微笑はどこか不自然だ。
——下手なつくり笑いだ。
それでも、歓談の相手にバレていないだけマシだろうか。デネソールは目の端で様子を窺った。すると、衣装の蘊蓄を垂れていた高官が、突如、ソロンギルの右腕をつかんだ。
(あ、あの……)
ソロンギルの唇が動く。高官の手を振り払いに動きかけたが、場所柄と相手の身分からまずいと思ったのか、瞬時に止めた。戦士は利き手が封じられるのを嫌う。不意につかみにきた手を振り払うのは、含意のない反射的なものだ。だが、ソロンギルはそれをとっさに抑えた。こういうところがただ者ではないと思う。
そんな戦士の葛藤など想像もつかないらしい高官は、つかんだソロンギルの腕を無頓着に目の高さへと持ち上げた。
「見事な刺繍ですな」
ソロンギルの衣装の袖に刺された刺繍をしげしげと眺め、高官は感心したように言った。
「しかも、これは真珠ではありませんか」
袖口に縫い止められた鈍い光を放つ白珠を見て、高官は感嘆の息を吐いた。彼が驚くのも無理はない。真珠は貝がつくる天然の輝きだ。人の意のままにはできない。貝が抱く宝珠が見つかるのも稀なら、それを身に付けられる人間も限られている。
卵白で硝石を練り固めたり、さまざまな物を核として真珠に似た輝きを塗布した模造品もあるが、それらもモルドールとの戦いが長引く中、稀少な物となりつつあった。しかし、そういった模造品ならば、ソロンギルの地位を考えれば手の出る品であり、驚くに値しない。だが——、
あの袖口を飾る輝きはすべて天然の真珠によるものだ。出世栄達に優れているからといって、大隊の長になったばかりの者が手に入れられる品ではない。ソロンギルが出世の都度、地位を利用し、私腹を肥やしてきたのなら話は別だが、そちら方面では叩いても塵ひとつ出ない男だ。
「おお、まことに。すべて真珠ですな。素晴らしい」
「刺繍の細やかさといい、見事な細工ですな」
まわりにいた者が口々に言って、ソロンギルの袖を覗き込む。誰も口にしないが、その顔には「さぞ、値が張っただろう」という表情が浮かんでいた。
「……え〜と……その、ある方のご厚意で……」
腕をつかまれ、見せ物状態になった男は引きつった笑顔で、もごもごと口を動かした。
「ほう、なるほど。“ご厚意”ですか」
「それはまたどちら様で」
取り囲んでいた者たちの目がきらりと光った。出世が早く、将来を有望視されている人物に、“厚意”で衣装を仕立てる人物は知っておきたい——宮廷を渡り歩く者としては当然の反応だった。
「そ、それはご勘弁ください。お名前が出ることを嫌う方ですから」
ソロンギルは冷や汗をかかんばかりになっている。それはそうだろう。名前を言えば「デネソール」になってしまう。執政家の継嗣が、特定の人物に高価な衣装を与えていることが明るみになっては、政(まつりごと)に影響する。
「さようですか」
「まあ、それならば」
「致し方ありませんな」
取り囲んでいた者たちは物わかりのいい言葉を口にし、ソロンギルの腕を放した。しかし、彼らはみな、厚意の主が誰か、非常に興味をそそられたようだ。探る者も出てくるだろう。星の鷲は自ら、身辺を見張る目を増やしたようだ。
——ご苦労なことだ。
デネソールは杯を傾け、ひっそりと笑った。いつまで「流れ者」という言葉で出自を誤魔化すか、見物(みもの)である。あれだけ濃くヌメノールの特徴が出ているというのに。
「さすれば、この飾り布もその“ご厚意様”の指図ですかな」
先程、腕をつかんだのとは別の人物が、ソロンギルの肩から胸元へ垂れた飾り布を手に取った。
「ここにも真珠があしらわれている。刺繍も袖と同じく見事なものですぞ」
「おお、これはまた……」
再び、周囲の者たちが額を突き合わせるようにして、ソロンギルの衣装に群がった。
「あ、あの……」
衣装をまとっている方は、既に愛想笑いを浮かべるだけの余裕も無くした態で、すっかり逃げ腰だ。彼らを追い払っていないあたりが、最後の理性か。
外見は優男に見える星の鷲だが、戦いの度に功績を上げてきただけあって、剣の腕は確かだ。敵を屠る際の殺気は凄まじい。今、彼に群がっている連中など、あの殺気を浴びせれば瞬く間に逃げ出すだろう。
もっとも、こういう場での脅しは、余程うまくやらねば、後々まで揉めることになる。それでソロンギルも手を打ち損ねているのだろうが……。
「襟の刺繍も良い細工ですな。これは銀糸ですかな」
袖から胸元の飾り布ときて、今度は襟元に手が伸びてきた。
「はい、そうですが……。あの……」
常に涼しい顔をしている男の頬がひくりと痙攣した。脂ぎった——とまではいかずとも、権力欲や出世欲の強そうな男どもに取り囲まれ、体を密着せんばかりに寄られては、あまりいい気分はしないだろう。
デネソールは杯の中身を飲み干し、息をひとつ吐くと、彼らへ向かって大股に歩いていった。
「失礼」
軽く咳払いしてから声をかける。ソロンギルを取り囲んでいた男たちは、慌てたように居住まいを正した。
「これは公子——」
「デネソール様、先程は——」
男たちが口々に何か言いかけたが、デネソールはそれを手振りで遮り、ソロンギルの脇に立った。
「お取り込み中のようだが、こちらの男に用ができた。お借りしてもよろしいか?」
その場にいた五人を見まわして言う。もちろん、執政家の公子相手に異を唱える者などいない。
「どうぞ」
へつらいの響きを含む言葉を聞きながら、デネソールは星の鷲を促し、踵を返した。
◆◇◆◇◆◇◆
「公子」
宴の広間を出たところで、ソロンギルが口を開いた。
「ご用件は何でしょう?」
デネソールが黙っていると、更なる問いかけがあった。
「アンドゥインの向こう岸で新たな動きでも?」
それ以外思い浮かばぬのか、首を傾げたソロンギルの顔はどこまでも真面目だ。彼我の間には、人に言えぬ関係があるというのに、それを匂わせる発言は絶対にしない。その用心深さが食えぬ男だと思う。
「先刻、くだらぬ話を聞いて、酒がまずくなった」
デネソールはフッと息を吐き、ぶっきらぼうに言った。
「館で飲み直す。付き合え」
「はあ……」
返事になっていないような声を出した後、ソロンギルが遠慮がちに付け加えた。
「しかし、わたしのような者が相伴しては、ますますまずくなるのでは?」
口下手を自認する者の言葉だったが、元より、“お上手”など期待していない。
「そんなことはない」
デネソールはゆっくりと傍らを振り返った。
「お前は愉しませてくれるはずだ。そうだろう?」
ソロンギルの歩みがぴたりと止まる。その頬をさらりと撫で、デネソールは微笑した。宴でソロンギルを取り囲んでいた者たちは、衣装を愛でていたが、衣装など所詮、飾りでしかない。大切なのは中身を知ることだ。そしていかに支配するか——。
「愉しみにしている」
そう告げると、ソロンギルは何かを諦めたように目を伏せた。伏せられたまぶたを、長いまつげが縁取っている。それが震えるさまを思い浮かべ、デネソールは再び歩き出した。すぐ後ろを、素直な足音が付いてきた。
END