アイコンタクト
日毎に陽光の輝きが増し、萌えいづる息吹がローハンの野を鮮やかに染め変えていく。そんな何もかもが眩しい季節、マークの王エオメルは景色に負けぬくらい目に眩しい人を黄金館に迎えた。
友邦国の王アラゴルン。この季節は、彼がゴンドールの王となり、エルダールの姫を妃に迎えた頃と重なる。彼の国では、それらを記念した式典の準備が進められているはずだ。主役となる王が国を空けていいのか、少々心配したエオメルに、彼は軽く肩をすぼめて言った。
「今時分、ミナス・ティリスにいると、何度も衣装合わせをさせられて敵わない」
どうやら、準備で果たす役目を放擲してきたようだ。
「計測にも仮縫いにも付き合っているから、役目は果たしている」
隣国の王は少々むっとして、エオメルの指摘に反論した。
「ただ、どういうわけか、試着の度に衣装の数が増えるんだ。それが気に入らない」
なるほど……と、エオメルは苦笑交じりに納得した。アラゴルンは「どういうわけか」と言っているが、衣装が増えるのは、ゴンドールの官吏たちが考え抜いた方策だろう。
前身が野伏だったアラゴルンは華美を好まない。日常着は——素材は良いものだろうが——王としては簡素な服装で通している。
だが、臣下の立場からすれば、王にはある程度、威儀に適った衣装を纏ってほしいものだ。飾れば映える人物なら尚更である。それで、式典の準備の際、何着か余分に仕立て、普段着にまわそうと考えたに違いない。言わば苦肉の策だ。
それをわかっていて、アラゴルンは国を空けた。彼なりのささやかな抗議なのだろう。とはいえ、一時、試着を蹴っても衣装はつくられる。何らかの機会に袖を通さねばならなくなるはずだ。
結果として、アラゴルンが折れていることになる。だからこそ、この時期の他出に、執政をはじめとする側近たちも頷いたのだろう。そのあたり、衝突しながらも、ゴンドールの王と臣下は噛み合っている。
けれど、いかに王の意向を汲むゴンドールの臣下も、おいそれと頷けないことがある。
脱走だ。
半生のほとんどを、野を駆けることで過ごしてきた彼は束縛を厭う。荘厳な城の一室にこもりきりという今の生活は、続くと息が詰まるらしい。それで近侍の目を盗み、ふらりと出かける。
野伏の長だった彼は気配を消し、身を隠す術に長けている。衛兵が王の脱走を阻止できた試しはないらしく、もしかしたら、出入りに気づいていないこともあるのではないか——ミナス・ティリスの近衛兵の間ではそんなことが囁かれているらしい。
普段がそれだから、ゴンドールの官吏や兵士たちは、王の他出時になるとより神経を尖らせる。特にローハン訪問時は必ずと言っていいほど姿を眩まされているため、随行者の緊張具合は、さながら敵を待ち伏せる陣中のようだ。
もっとも、客をもてなすローハン側の雰囲気も、ゴンドールの随行者と然して変わりはなかった。エドラスにおけるアラゴルンの脱走の共犯者が、ほかでもないエオメルだからである。
両陣営とも自国の王の脱走を阻止するという共通目的のため、情報交換と打ち合わせに余念がないらしい。最近では共通の目的を持つ者同士、少しの牽制を交えながらも、一体感が生まれつつあるようだ。
代わりに、警戒相手が自国の王だという矛盾した感覚は薄まってきているらしく、あからさまに探るような目で見られることが多くなった。
さすがに良い気持ちのしないエオメルだったが、アラゴルンは「お互いの警備兵が仲良くやっているんだ。良いことではないか」と、のんびり笑っただけだった。多少、警備が強化されたからといって、姿を眩ますのに不便はないという自信の現れなのかもしれない。
そんな警備状況の中、エオメルは草原でアラゴルンと轡を並べていた。新緑の季節の遠乗りは一段と気持ちいい。もっとも、まわりをぐるりと騎馬兵に囲まれていては、せっかくの爽快さも半減だったが……。
「そろそろ休憩に……」
水の流れが聞こえてきた森の脇で、隊長が馬を寄せてきた。エオメルは無言で頷き、馬の足を止めた。アラゴルンも止まり、軽い身のこなしで馬から降りる。エオメルも地面に降り立った。周囲の兵士たちも二人に倣い、次々と馬を降りた。
「失礼します」
すぐに兵士が二人の馬の手綱を取り、水場へ引いていった。
「警戒されているな」
アラゴルンがくすりと笑う。
「そうですね」
エオメルも苦笑した。そのまま近寄って“密談”に移ろうとしたのだが、
「エオメル様!」
己を呼ぶ声に阻まれた。振り返ると隊長が手を挙げている。
「行ってやれ」
ぽんとエオメルの肩を叩き、アラゴルンは離れていった。相変わらず淡白な反応だ。想い人のつれなさを恨めしく思いながら、エオメルもその場を離れた。
「なんだ」
隊長へ駆け寄る。
「帰りのルートの浅瀬なんですが、先遣隊の話によると、先日の雨で足場がかなり悪くなっているそうです。それで、来た道を引き返すよう変更したいのですが」
「そうだな……」
エオメルは考えた。足場が悪いといっても、少々のことなら自分もアラゴルンも、精鋭揃いの警備兵も渡れるだろう。しかし、その精鋭が問題ありと判断したのだ。馬で渡るのはほぼ不可能なのだろう。引き返すのが無難だ。が——、
「いや、浅瀬までは行こう」
エオメルは言った。
「ですが、エオメル様」
「わかっている。無理に渡ろうとは思わない。だが、浅瀬の様子は見ておきたい。あそこは渡る者が多い。通行に大きく影響するなら整備したいと思う。そのためにも自分の目で状況を確かめておきたい」
こういった遠乗りは国の様子を見ることも兼ねている。ちょうどいい。
「かしこまりました」
隊長は軽く頷き、地図を広げている部下のほうへ駆けていった。それを見送り、エオメルはアラゴルンの姿を探した。黒髪の麗人は荷を解いている兵たちと何やら話していた。のんきに干しいちじくをかじっている。
——“計画”はどうするのだろう。
エオメルは背後を振り返った。馬のほうものんきに草を食んでいる。
——止めるのだろうか。
それならそれで仕方ない……が、彼と二人きり、馬を駆けさせることができると期待していただけに、やはり残念ではあった。とはいえ、これだけの精鋭に囲まれていては抜け出すのは難しい。
——諦めるか。
そうとなれば、自分も腹ごしらえをするのが建設的というものだ。エオメルは軽食の準備をしているほうへ歩きかけた――と、そのとき、一頭の馬が視界の端を横切った。アラゴルンの乗騎、ブレゴだ。ゆっくりとした足取りでアラゴルンへ近づいていく。
「ブレゴ、どうした」
背後から鼻面を擦り寄せられたアラゴルンが振り返った。擦り寄ってきた馬を、目を細めて迎える姿は微笑ましいもので、彼が馬のそばに寄るのを警戒する兵士たちも、今はただにこにこと眺めているだけだった。
しかし、エオメルの胸の内は違った。
——まさか、置いてきぼりか?
今、馬が間近にいるのはアラゴルンだけだ。この状態で馬に飛び乗れば、彼は抜け出せる。追手を一時的に撒くこともできるだろう。
アラゴルンはブレゴの手綱を取り、歩き出した。さり気なく皆から離れていく。兵士たちはまったく警戒しておらず、彼に注目している者はいなかった。
——うまいものだ。
感心して見ていると、不意に青灰色の瞳がエオメルを捉えた。片目を軽く瞑り、何かを指し示すように視線が動いた。それを目だけで追う。目に入ったのはエオメルの愛馬だった。
——今のうちに動けということか……?
エオメルは小さく頷き、そろりと歩き出した。気取られないよう、愛馬へ近づいていく。数歩進んだところで、そっと背後を窺うと、アラゴルンもこちらを見ていた。再び、わずかな目配せがあった。
——合図だ。
なぜかそう思った。そして、それは間違いではなかった。直後にアラゴルンは鞍に身体を持ち上げ、馬の腹を蹴った。蹄の音が遠ざかっていく。
「……陛下!」
ゴンドールの随行者の叫びに、ローハンの兵もハッと振り向いた。その隙にエオメルは愛馬に駆け寄った。馬上に身体を持ち上げる。エオメルは馬首を返し、アラゴルンとは逆方向に駆け出した。
「エオメル様!」
叫び声を後に残し、エオメルは風を切って進んだ。
◆◇◆◇◆◇◆
「アラゴルン殿」
木立を抜け、目印の岩場を乗り越えて、エオメルはそっと呼びかけた。あらかじめ落ち合う場所を決めておいた。
「こっちだ。エオメル」
岩の陰から貴人が現れた。
「うまく撒いたようだな」
「ええ。そちらも」
「ああ。ブレゴに囮になってもらった」
「わたしもです」
計画どおりだった。二人が逆方向へ駆け出せば、兵士たちは混乱する。最終的にそれぞれの王を追うことで落ち着くだろうが、時間稼ぎになり、彼らが追跡をはじめるまで距離が空く。その時間と距離の差が鍵だった。
一旦、森へ駆け込み、馬だけを草原へ放す。距離が近くては使えない手段だ。やがては追手も馬が無人だと気づくだろうが、その間にこちらは姿を眩ませる。そして、兵が追跡を止めた二人の愛馬は——、
「ああ、来たようだ」
アラゴルンが目を向けた方向から蹄の音が近づいてきた。木立の間からブレゴの姿が現れる。その後ろにエオメルの馬も続いていた。
「よくやった。ブレゴ。ありがとう」
アラゴルンがブレゴを労う。エオメルも愛馬の首筋を軽く叩いて労った。
「では行こうか」
「はい」
二人は手綱を引いて木立を——馬が来た方向とは反対に——抜けた。
「追手はいないようだ」
周囲を見まわし、二人は馬に跨がった。
「どれくらい持ちますかね」
同行していた警備兵は精鋭揃いだ。一旦撒いたが、そのうち追いついてくる。
「そう長い間ではないだろう」
アラゴルンが軽く笑う。
「では、短い自由を楽しまねば」
「そうだな」
互いに目配せし、二人は馬の腹を蹴った。たちまち景色が後ろへ流れ去る。半刻もしないうちに、兵士たちに見つかるだろう。だから、それまでの束の間、
二人きりで——。
行く手には新緑の草原と青い空がどこまでも続いていた。
END