Fine edge
朝議の後、一旦執務室に引き取ったアラゴルンだったが、胸騒ぎを覚え、早々に露台から脱け出した。予見——なんて、大層なものではない。朝議の後、毎日のように押しかけてくる客があれば、そんな気になるのも当然だ。
モルドールが崩壊し、中つ国の民——とりわけゴンドールの民——が待ち望んだ、闇に脅かされることのない日々が訪れた。しかし、それで国の栄えが約束されたわけではない。安寧も繁栄も人の努力があって訪れ、維持されるものだろう。
その点、人の子は熱心だ。特に栄耀栄華を望む者の熱意たるや凄まじい。ただし、その熱意の恩恵を受けるのは自身とその身内でなければならず、他者との共栄はあり得ないことらしい。そのため、ときに他者を蹴落とすこともある。栄位栄達栄進……、貪欲に求める姿勢には際限がない。
利己的であっても、繁栄を求める心はアラゴルンにも理解できた。だが、ひたすら高い地位を望み、権力を欲する気持ちはどうにもわからなかった。
果たしてそんなに良いものだろうか。贅を凝らした暮らしはできても、その分、不自由が増すような気がする——と、玉座に就いて以降の経験から思うのだが、
——そのようにお考えになるのは、恐れながら陛下ぐらいかと。
己の右腕が淡く笑んだところを見ると、アラゴルンの考えは極めて少数ということらしい。
自分の考えが多数派から外れているのは珍しくない。今更、どうとも思わないが、問題はその多数派の思考がとんと理解できず、対処に苦慮するということだった。
——水路の工事に予算が足りませんで、もう少々ご都合いただけないかと……。
——先月、大雨の際、破堤しましてな。その修理の費用がかさんでおります。
——領に銀鉱脈が見つかりまして……。発掘を行えば、国も潤います。ついては開発費用をいくらか国庫でご負担いただきたいのですが、いかがでしょう。
陳情——というのだろうか、この手の客が増えるようになった。財務と相談してくれと帰しても、翌日になると、前日のことなど忘れたような顔をして訪ねてくる。
そんなにせっつかねばならないほど地方の予算が足りないのか、執政職を兼ねるイシリアン公に尋ねたところ、賢明な官吏は「真面目に相手をなさいませんよう」と微笑した。
——国庫から予算を引き出せれば、彼らの懐は痛みませんから。
つまり、費用が足りないというのは陳情の常套句であり、真面目に聞いていたら莫迦を見るということらしい。よく使われる手だと知ってはいたが、訪問客の大半が同じような言い回しをするのには参った。もう少し独自性を出して欲しい。
諸侯だけでなく、官吏まで似た口を利くのだからうんざりしてしまう。領地所有の諸侯はともかく、官吏が国庫から金を引き出すのに熱心なのはどういうわけかと思ったが、執政が涼しい顔でさらりと答えを述べてくれた。
——金額を多めに引き出し、余剰を業者と分け合うのですよ。
彼に言わせると、そんなことで首を捻る権力者は、これまたアラゴルンぐらいのものらしい。
——ですが、ご安心ください。ゴンドールの官吏や諸侯のすべてが、彼らのような者ではありませんから。
心やさしい腹心は慰めのように言葉を付け足してくれた。確かに数は多くないだろう。同じ人間が何度も訪ねてくるだけで。
しかし、一ヶ月余り続けば、いい加減逃げ出したくなる。逃げたところで何の解決にもならないことはわかっているが——、
一時でも猛襲をしのげればいい。
斯くしてゴンドールの王は、居城で柱や庭の樹木の陰に隠れながら、人目を避けられる部屋を探して移動することになった。
◆◇◆◇◆◇◆
使われていない部屋を無事見つけると、アラゴルンは露台の手すりにもたれ、パイプに火をつけた。
「ふう……」
煙を吐き出し、ようやくひと心地付く。壮麗な建物の屋根に切り取られた、塔がそびえ立つ空を見上げ、知らずため息を漏らしていた。
——やっかいなことは覚悟していたが……。
パイプの香を吸い込み、ふうっと大きく吐き出す。
——ここまでとは思わなかった。
ゴンドールは大国ではあるが、闇の勢力との戦いが長く続き、時代を経るごとに土地を奪われてきた。内所は決して豊かではない。国土は疲弊し、民は疲れている。それなのに、己の懐を肥やそうという者のなんと多いことか。
——いや……。
アラゴルンはすぐさま己の考えを撤回し、首を振った。多いのではなく、目立って見えるだけだ。ファラミアも言っていたではないか。ゴンドールの官吏や諸侯のすべてが、彼らのような者ではありません、と——。
「ふうっ……」
もう一度、大きく息を吐き出した。ただし、今度は自分にだった。こんなことで倦み疲れてどうすると。戦のどさくさにひょっこり現れた野伏を主として迎え、跪いてくれた者がいるではないか。自分がしっかりしていなければ彼らが不安になる。
——戻るか。
執務室がもぬけの殻だとわかれば、陳情の者たちはそのまま帰るだろう。立哨の近衛兵に声もかけず、ふらりと出ていった王を待つほど彼らも暇ではない。それに——、
もうそろそろ、執政が訪ねてくる時刻だ。彼との約束をすっぽかすわけにはいかない。
アラゴルンはパイプをしまい、手近な木の枝に飛び移ろうと露台の手すりに足をかけた。そのとき、中庭に人が出てきた。とっさに身を屈める。
「それで、お話とは?」
聞こえてきたのは、今しがた思い浮かべていた執政、ファラミアの声だった。その警戒を孕んだ響き——。
不穏なものを感じ、アラゴルンは柱の陰に身を寄せて下を窺った。ファラミアのほかに三人の男の姿が見えた。初老の領主、壮年の高官、名家の跡継ぎ——立場は異なる者たちだが、いずれもこのところ、執務室で馴染みとなった客だ。
のらりくらりと要求を躱し、あまつさえ執務室を脱け出す王に業を煮やし、若い執政に話を通そうということか。しかし、
——彼のほうが手強いと思うが……。
三人の人選は甚だしく間違っている気がしたが、そんなことを教えてやるほど、アラゴルンも親切ではない。
——少し様子を見るか。
高みの見物——と洒落込むつもりはないが、ここで自分が出ていったら、かえって話がややこしくなりそうだ。執政の手腕に任せたほうが事が穏便に済むかもしれない。面倒な事態になったら出ていく覚悟だけ決め、アラゴルンは静観することにした。
「実は、我ら三人、それぞれ悩み事がありましてな」
初老の領主が話しはじめた。
「その解決にお力をお借りしたいと、先日から陛下にお願いしているのですが、なかなか色好いご返事をいただけませんで困っておるのです」
ほかの二人がそのとおりとばかりに頷く。
「なんとか願いを聞き届けていただきたいと熱心に足を運んでおりますが、頑なに否と仰せになるばかりで……」
困惑顔で壮年の高官がため息を漏らす。熱心に訪ねてこられて困惑しているのはアラゴルンのほうだが、彼らに言わせると己こそが被害者らしい。
「我らも毎日登城できるほど身を持て余してはおりませぬ。特にわたくしはいつまでも領地を留守にできませんでな。早急にお聞き届けていただきたいのです」
「決して無理なお願いではありませんし……」
若い跡継ぎが口を挟む。
「そう、決して無理を申し上げているわけではない」
得たりというように、高官が相槌を打つ。息の合った三人の様子は予行演習でもしてきたのかと思うほどだった。
「そこで、執政位を継がれたファラミア殿のお力添えをいただきたいと、こう考えましてな——いかがでしょう」
領主がにこやかに用件を言った。それにしても、まわりくどいことである。しかも、予算要求を突き返すばかりの王を頷かせるよう説得しろ——というだけの話に三人がかりとは……、
まわりくどい上にもったいを付け過ぎだ。
これが、ミナス・ティリスでのやり方なのは承知しているが……などと、のんきに思っていられるのは、イシリアン公が彼らの要求を絶対に呑まないとわかりきっているせいだろう。
「お話はわかりました」
案の定というべきか、冷ややかな執政の声が聞こえてきた。少々呆れた調子が混ざって聞こえるのは、アラゴルンの気のせいではないだろう。
「ですが、貴殿らの申し出を陛下がお断りになるのは、それなりのお考えがあってのことでしょう。わたしがとやかく口を出すことではありません。そもそも主君の決定に異を唱えるなど、臣下にあるまじき振る舞い、そのような畏れおおいこと、お引き受けいたしかねます」
一度として畏れおおいと思ったことがないであろうに、よくもまあ——と呆れたが、己の右腕が穏便に断りを述べたことにアラゴルンは安堵した。
なにしろ、事によっては主君にさえ容赦しない人間だ。政務の妨害者となったら、すっぱり切り捨てそうである。彼が容赦した対象は既にこの世にいない、肉親だけ——そんな気がする。
「我らも、陛下にお考えがあってのことと考えておりました。しかしながら、理由をお尋ねしてもこれというご返答がいただけませぬ」
当たり前だと、アラゴルンは胸の内で毒づいた。一領主が行う工事の予算に国王が関与してどうするというのだ。補助を国庫から出すとしても、そんなことは財務が判断することで、玉座に在る身が口を出すことではない。
国官が係わる案件でもそれは同じだ。工事に見合うだけの費用を財務が算出している。協議はそちらで行うべきだろう。財務が不当な扱いをしているなら話は別だが、そうであったとしても通すべき所があり、調べはそちらで行うよう取り決められている。八方塞がりならともかく、いきなり国王の元に持ち込んで、予算が足りません、はないだろう。
「国庫の状況から考えても、決して無理なお願いをしているとは思えません」
若者の口にした言葉に、アラゴルンはぎょっとなった。同じことをファラミアも思ったのだろう、硬い声が訊いた。
「なぜ、貴殿が国庫の状況を知っている?」
「それは……」
若者は口を噤んで俯いた。答えは訊かなくてもわかる。財務の官吏の誰かが漏らしたのだろう。
「まあまあ、その話はまた後で……」
年の功と言うべきか、慌てもせず、初老の領主が割って入った。
「今、問題なのは、陛下がはっきりした理由もおっしゃらず、無理なお話でもないのに、我らの願いを聞き届けてくださらないということでして——」
「貴殿の言葉を聞いていると、まるで我が王はきかん気のわからず屋のようだな」
ファラミアが皮肉げに応じる。既に丁寧な口調は打ち捨てられていた。
——まだ顔は笑っているだろうな、目は笑っていないだろうが……。
やわらかな金色の頭を眺めながら、アラゴルンはここから見えない凍りついた微笑を想像した。
「わからず屋とは申しませんが……」
高官が幾分声を潜めて言った。
「恐れながら、陛下はご政務に明るくないのではないかと……」
——やれやれ……。
自分たちの要求が通らなければ無能呼ばわりか。アラゴルンは呆れて腹も立たなかったが、階下で聞いている臣下はそうもいかなかったようだ。尖った声が聞こえた。
「それは陛下に対する侮辱ととってよろしいか?」
「いや、まさか、そんな畏れおおい……」
高官は肩を竦めて首を振った。
「ただ、陛下は戴冠なさるまで野を駆ける身であらせられた。ゆえに、武に秀でておいでだが、内務のことには疎くてらっしゃるのではと——」
「さよう。なにしろ、政務を放り出し、部屋を脱け出しておいででもあることだし……。ご政務を軽く考えておられるか、北方の方ゆえ、南の内情をご存じないか——我らがそう考えるのも無理のない話ではありませんかな。ファラミア殿」
領主が一歩踏み出す。
「執務室を留守にすることがあるからと言って、政務に疎いと断じるのは早計だと思うが」
主の悪癖を持ち出され、執政は苦しげな言い訳を口にした。
——すまない。
アラゴルンは胸の内で詫びた。たった今もこうして脱け出してきているのだから、処置なしの主だろう。
「だとしても、我らは不安なのですよ」
「斯様な方を王と仰いでいて良いのかと」
「あの方のご尽力で黒の国が崩壊した、それは感謝しております。しかし——」
ここぞとばかりに三人の勢いが増す。
「政務を放り出し、臣下の言葉に耳を傾けることもせず、頑なにご自身の考えばかりをお通しになる。そのような方に、このままあのきざはしの上にお座りいただいていいものか」
——そこまで話が飛躍するのか……。
アラゴルンは感心した。どうやら、彼らが執政を呼び出した目的は、国庫から金を引き出すためだけではないようだ。今回、アラゴルンが要求にまったく応じなかったことから、今後も同様のことがあると考えたのだろう。だから——、
戴冠して日が浅く、まだ王権が確立していない今のうちに廃してしまおう——という結論に達した。だが、彼らの野望も執政を引き入れなければ成就は難しい。
「そもそも、あの座が無事なのは、貴殿の父祖が守ってきたからではありませんか。ファラミア殿」
「よろしいのですか。代々の方々が守ってきた座を、御位を軽んじるような方にお渡しして」
矢継ぎ早に決断を迫る言葉が投げかけられる。
「なるほど——」
ファラミアが低い声で呟いた。
「卿らは、このわたしに謀反人になれと、そう言われるか」
語尾に冷笑が重なったあたり、さすが執政家の人間である。普段浮かべる笑みは穏和だが、やはり、デネソールの息子にしてエクセリオンの孫、イムラヒルの甥だと納得した。一方——、
「謀反などと、そのような大それたこと、申しておりませんぞ」
話を付けに来たほうにも退く気配はなかった。執政を呼び出したからには、そう簡単に引き退がってはいられないということだろう。
「さよう。ただ、御位を軽んじられるようなら、いっそ北へお帰りいただいたほうが……」
そのうち聞くだろうと思っていた言葉だが、実際に耳にすると少々淋しい気持ちになった。もっとも、帰れと言われたところで、アラゴルンに退く気は毛頭ない。傍目にどう見えようと、そんな半端な覚悟で位を受け取っていない。
もし、身を退くことがあるとしたら、執政家の人間に出ていけと言われたときだろう。が、たとえ、執政にそう言われたとしても、はいそうですか、と素直に頷くつもりは今のところなかった。
「つまり、冥王は滅んだ。だからもう彼に用はない——それが卿らの言い分か」
ファラミアが冷然と言った。
「ファラミア殿、何もそのような言い方をされずとも……」
「言い方を変えたらどうだと言うのだ? 王の政(まつりごと)に馴染めぬ卿らの心も変わるのか?」
突き刺すような言葉に、三人が怯む。
「わたしは陛下に命を救われた。今は妻となった女性も、同じくあの方に命を救っていただいた。陛下には、一生かけても返せぬぐらいの大きな恩がある。その恩人を裏切れと?」
彼が自分のことを恩人だと思ってくれていることはうれしかった。しかし、
——そこまで大仰に恩に着てくれなくてもいいのだが……。
アラゴルンは面映ゆくなった。
「わたしは父祖代々の執政たちと比較にもならない人間だが、それでも忘恩の徒になるほど堕ちてはおらぬ」
目論見が大きく外れ、三人は口を挟む言葉も見つからないのか黙したままだ。
「卿らとて、政に馴染めずとも、この都を、国を救ったのは誰か、それぐらいはおわかりだろう。臣下としてどうすべきか、よくよくお考えになるといい」
話を締め括るように言うと、ファラミアは身体の向きを変えた。
「再びわたしに類似の話を持ち込めば、そのときは裁きの対象とさせていただく」
そう言い置いて踵を返す。一歩、二歩……立ち去ろうとするその背に——、
「ご父君はいかようにお考えでしょうな」
毒を含んだ言葉が投げられた。
「デネソール侯は果たして、ご子息が北の、イシルドゥアの血筋の者に膝を折ることをお喜びでしょうか」
アラゴルンは息を呑んだ。なんということを言うのか。前の執政デネソールは、イシルドゥアの家系から出ている者に頭は下げぬ——まさにそう言って炎に身を投じたのだ。同じ炎で焼かれそうだった子息に言うことではない。
ファラミアの足が止まり、三人のほうへゆっくりと振り返る。いったいどんな顔をしているのか、いっそ自分が出ていこうか——そう思ったとき、落ち着いた、けれど、聞く者を抉るような鋭い声が聞こえた。
「素晴らしいな。卿らは死人の心がわかるらしい」
右腕に任じた男の気配がガラリと変わっていた。皮膚を裂かれそうな殺気が漂う。背筋の凍るような気配を感じたことは幾度かあるが、それを通り越していた。
「それで? 仮に、父の考えが卿らの言葉どおりだったとして、それで何か問題でも?」
ファラミアの言葉に、三人はたじろいで一歩退がった。
「ここは死者の国ではない。今を生きる者の国だ。それは覚えておかれるがよろしかろう。——失礼する」
周囲を斬り裂くような気配を纏ったまま、執政の姿は回廊の柱の向こうに消えた。眼下には下手な工作を打った三人の男が茫然と立っている。
——とんだ見込み違いだったな。
アラゴルンはふっと息を吐くと、執政の後を追うべく部屋を出た。
◆◇◆◇◆◇◆
「ファラミア」
背後から呼び止められ、ファラミアは眉を顰めて足を止めた。聞き違えようのない主君の声だが、なぜ、それが彼の執務室へ向かう我が身の後ろから聞こえるのか。
振り返ると、軽く片手を挙げ、小走りでやってくるすらりとした姿があった。国王にあるまじき一人歩きである。
もっとも、ゴンドールの王、エレスサールには珍しくない振る舞いだ。仕える身としては大変遺憾なことだが……。ようは、また執務室を脱け出していたのだ。ファラミアは微笑を浮かべ、主を迎え待った。
「陛下。ただいまは執務室においでになるはずのお時間では? それとも、部屋を留守になさる火急の用が何ぞありましたか?」
皮肉な言葉で問いかけると、彼は苦笑しながらも、大きく頷いた。
「ああ、あった」
意外な反応だった。常なら、勘弁してくれと言うように、困った顔と上目遣いでこちらを窺う人である。本当に用があったのか……?
「それは、どのような?」
念のためにと訊けば、果たして返ってきたのは——、
「息抜きだ」
がくりと肩を落としたくなる言葉だった。真面目かと思えば、こうして時折しれっとしたことを言う。一筋縄でいかない人だ。だが、ここで脱力して黙り込んでしまっては、エレスサールの執政官は務まらない。
「息抜きをなさるのはよろしいですが——」
ファラミアはひとつ息を吐き、気を取り直して言った。
「お一人で歩かれるのはお止めください」
エレスサールはまたかという顔で軽く肩をすぼめ、歩き出した。ファラミアも彼に付いて足を動かしながら、口は咎める言葉を続けた。
「何度も申し上げたはずです、必ず随行の者をお連れくださいと。なぜ聞き入れてくださらないのですか」
エレスサールの口から小さなため息がこぼれる。隣を歩く者から小言を並べられては、さぞ鬱陶しいだろう。それも、何度も言われたことの繰り返しを。
けれど、言っておかねばならない。前身が野伏だったエレスサールは過ぎるほどに身軽に動く。そんな主君に自重してもらうには、しつこく言っておくぐらいでちょうど良いのだ。
「残念ながら、城内であっても、不穏な考えを抱く者が皆無という保証はありません」
つい先程遭遇したことを思い浮かべ、言葉を付け足す。すると——、
「……そうだな」
隣から思わず同意があった。
「それに、わたしが風変わりなことばかりしていると、執政殿に迷惑がかかるようだし……。少し自重するよ」
「別段、迷惑なことはありませんが……」
ファラミアは正直な感想を口にした。確かに、エレスサールには王宮の不文律から外れた振る舞いが多い。だが、そのほとんどはファラミアにとって好ましいものだ。一人歩きを咎めはするが、迷惑だとは思っていない。
主の悪癖に困っているのは、事が露見する度、捜索する侍従や衛兵だろう。そんな彼らも「困ります」と言いながら、口許は綻んでいる。本気で困っているわけではないのだ。
「そうか? 玉座に就いたのがあれでは困ると、妙な提案を持ち込む連中が増えては迷惑だろう?」
さらりと言われて、ファラミアは目を見張った。訊くまでもない、彼は先程の一件を知っているのだ。
「……ご覧になっていたのですか」
ファラミアは主から目を逸らし、息をこぼした。
「すまない。盗み聞きするつもりはなかったんだが……たまたま行き合ってね」
「いいえ」
ファラミアは首を振った。
「とんだところをお目にかけました」
できれば知られたくなかった。知らせまいと決めていた。あんな言葉をこの人の耳に入れたくなかったから。それが見られていたとは……。
「要求されるままの予算を通さないと、王位から放り出される恐れがあるんだな。初めて知ったよ」
エレスサールが軽く笑う。
「あのような者たちのことなど、お気になさいませんよう」
そう、気にする必要はない。あんな言葉を気にしてはならない。王としてはいささか風変わりだが、エレスサールのやり方は間違っていない。
「気にしなくていいいのか?」
不思議そうな顔で首を傾げる主に、ファラミアは力強く答えた。
「もちろんです。彼らが要求する予算は私腹を肥やすためのもの。真っ当に使われることはありません。陛下がお気にかける必要はまったくございません」
「それはそのとおりで、わたしも彼らの言うことを考慮する必要はないと思うが……」
そう言いながら、エレスサールは釈然としない様子だった。思案するような間を置いた後、おもむろに口を開く。
「ああいった連中の不満には、わたしの国王らしくない行動も含まれているだろうから、少し自重しようかと……。そうすれば、妙な考えを起こして、あなたのところへ押し掛ける者も減るだろうし……と、そう思ったんだが……」
こちらを向いた顔がこくんと斜めに傾く。
「気にしなくていいのか?」
大真面目に問われ、ファラミアは軽い頭痛を覚えた。
——大いに気にしてくれ。
というより——、
「あのような者たちの不満がなくても、行動は慎重になさるべきで、常日頃から大いにお気遣いいただくことです」
きっぱり言うと、エレスサールはたじろぐように上体を退いた。
「そ、そうか……」
「おわかりいただけましたか?」
「えっ……あ、あぁ、まあ、一応……」
「一応?」
単語を聞き咎め眉を上げると、エレスサールは慌てた。
「あ、いや……よくわかった。気をつける。自重する」
ファラミアへ向かって宥めるように手をかざし、こくこくと頷く。
「ご理解いただきありがとうございます」
ファラミアはくすりと笑い、礼を言った。もう一押し、一人歩きを止めるよう言うべきだろうが、口にしても彼が頷く可能性は低い。努力するという言葉が精一杯だろう。その言葉を得ても、守られる可能性は皆無に等しい。
諦めているわけではないが、彼に無理を言いたくないという気持ちもある。型破りで手の焼ける主だが、それでも愛すべき人だ。それに——、
せっかく良い気分になれたのだ。わざわざ険悪にすることもない。
朝議の後、一旦自室に引き取り、改めてエレスサールを訪ねていく途中だった。打ち合わせのあれこれを胸の内で考えながら、明るい気分で歩いていたのだ。それを、あの三人にすっかり打ち壊された。
刺々しい気配のまま御前に出るわけにはいかない。王の執務室に辿り着く前に、なんとか気を落ち着けようと努力していた。だが、そんな努力をする必要もなかった。
——執政殿に迷惑がかかるようだし……。
そう言ってくれた。自身のことをあげつらわれていたのに、ファラミアの心情を気遣ってくれたのだ。このお人好しの主君は。
手を焼かされるのも、迷惑をかけられるのも、この人なら構わないとさえ思う。もっとも、そんなことを口にしたら、「わたしはそんなに手がかかるのか」と不満げに首を傾げられるだろう。そんなところも、また、
——愛しい。
「あの三人を含めた何人かを、財務長官が調べると申していました。予算の申請に不審な点が多いそうです」
「そうか」
エレスサールがほっと息を吐いた。通い詰められて辟易していたのだ。ようやく解放されると安堵したのだろう。
「結果が出るまでしばらくかかります。もうしばらくご辛抱いただくことになりますが……」
「わかった」
短い返事だったが、そこには任せるという響きがあった。こんなふうにエレスサールは信頼を示してくれる。ファラミアはふと、あの三人が気の毒になった。彼らは王の信頼を得る喜びを知らずにいる。誠に不幸だ。
「あと、朝議でちらりと出た話ですが——」
「何かわかったか?」
「はい」
ファラミアは脇に抱えていた書類箱を示した。
「さすが仕事が早いな。さっそく聞かせてもらおう」
「はい」
重厚な扉が近づいてくる。多忙な、けれど、誇れる主の下で務めを果たす、歓びの一日がはじまろうとしていた。
END