冬晴れの空
黄みがかった雲が空を覆った翌朝、村は白く染まっていた。けれど、一晩中、雪を降らせた雲は頭上から去り、空には青く澄んだ色が広がっていた。やわらかなはずの冬の陽光が降り積もった雪に弾かれ、目に映るすべてを輝く風景に変えている。
「晴れたな」
空を仰いだドゥネダインの長、アラゴルンが笑った。その笑顔も今日は白い光に照らされて、一段と眩しい。ハルバラドは声もなく、ただ見惚れた。そんなこちらの様子を不審に感じたのか、アラゴルンが訝しげに首を傾げる。
「どうかしたか?」
「いえ——」
ハルバラドは苦笑まじりに目を細めた。
「ちょっと眩しかったもので……」
あなたの笑い顔が——と、それは声に出さずにおく。
「ああ、そうだな」
長は合点したように頷いた。
「照り返しがきつい」
そう言って笑う顔を横目におさめながら、ハルバラドは明日の予定を確かめるように繰り返した。
「明日、見張り小屋へ物資を運びます」
冬になると餌を求め、北から狼が下りてくる。その見張りのため、拠点を設けて警戒に当たっている。晩秋から早春まで、任に就いた者の多くは戻ってこられない。大地が雪に閉ざされる前に物資は運んでいるが、半年近く詰めることになるのだ。最初に運んだ分だけで持つわけがない。頃合いを見計らって、追加物資を運ぶのが冬の習わしだった。
「ああ」
アラゴルンがわかっていると言うふうに、短い相槌を打つ。その横顔を見ながら、ハルバラドは訊いた。
「どうしても、ですか?」
物資運搬の一行にアラゴルンは同道すると言っている。
「どうしてもも何も……冬場、戻ってきたのなら、見張り小屋へ陣中見舞いに行ってくれと、最初に言い出したのはお前じゃなかったか?」
アラゴルンが不思議そうに首を傾げた。確かに彼の言うとおり、見張りの連中の志気を高めるため、顔を見せてやってくれと、頼んだのはハルバラドだった。ただし、それは十年以上前の話である。当時の運搬役はベテランとは言えずとも中堅どころが多く、一族の長を同道させることに不安がなかった。だからこそ、できた提案だった。
だが、ホビット庄の警戒やアンドゥインの東岸の情勢など、探索が広範囲に広がったため、ベテランはもちろん中堅も出払っているのが現状だ。村に残っているのは年老いて引退した者か傷病者、そして経験未熟な若輩者だった。雪中行軍を年寄りや傷病者にさせるわけにはいかない。経験未熟であっても、体力のある若者に頼るしかなかった。
しかし、彼らに一族の長を託すのは心許ない——というのも、また偽らざる気持ちだった。
冬季の旅はただでさえ危険だ。冷え込みがきつければ、たちまち体温を奪われ凍え死ぬ。野山の実りも獣も他の季節ほど豊富ではなく、糧食が底をつけば飢えてしまう。吹雪が方角を見失いやすくし、斜面では雪崩に襲われる。そのうえにオークや狼の襲撃がある。
アラゴルンが同行を望んだのは、見張り役の志気を高めるばかりでもなく、若者たちの未熟さを慮ったゆえだろう。冬季の旅の経験が未熟な彼らだけで、送り出すのが心配だからに違いない。
けれど、ハルバラドにしてみれば——仲間の安全はもちろんだが——族長であるアラゴルンの安全が最優先になる。同行者には長の身の安全を図ってもらわねばならない。しかし、今回の同行者ではアラゴルンの身を守るどころか、いざというとき足手まといになる可能性が高い。かつての自分と同じように……。
数人の同行者がいて心配になるというのもおかしな話だが、これならば、普段は反対する彼の単独行のほうがマシだとすら思う。いささか向こう見ずな行動を取る長だが、それでも自身の命は守りきる人だ。足を引っ張る同行者がいない分、待つ身も気楽だ。
「そんなに心配することじゃないだろう。今までも行ってる」
人の気を知ってか知らずか、長は軽い口調で言う。
「ですが——」
今までと今回とでは状況が違う――と、言いかけたとき、ザッという音とともに、白いかけらがはらはらと降ってきた。
——雪……?
晴れているのにと思った途端——、
ドサッ!
ひと抱えもある雪の塊が、ハルバラドの眼前に落ちてきた。そこは、たった今まで一族の長が立っていた場所で……。
「族長!」
叫んだときには、アラゴルンは真っ白になって屈んでいた。頭から雪の塊をかぶったのだ。
「大丈夫ですか!?」
ハルバラドは急いで彼の雪を払った。
「ああ……」
自身も雪を払いながら、アラゴルンは気怠げに視線を上に向けた。
「昨今の若者はそそっかしいな。下に人がいるかどうか、見ないのか」
見上げれば傍らの屋根の上から物音が聞こえる。どうやら雪下ろしの真っ最中らしい。つまり、たった今、一族の大切な長を埋めんばかりに落ちてきたのは、雪下ろしの雪だったのだ。
「おい! 気をつけろ!」
屋根に向かって叫ぶと、端に若い男が寄ってきた。ブランダラスのところのエレアラスだ。
「あ、すみません」
ハルバラドを見てひょこりと頭を下げる。
「すみません、じゃない! 族長を殺す気か!」
拳を振り上げて叫ぶと、エレアラスの視線が脇に逸れた。その目が一点に止まり、見る間に大きく開かれていく。彼の口が「まさか……」と動いたように見えた。それきり動きがぴたりと止まる。驚愕で声も出ないようだが、それはまあ仕方がないだろう。
族長の頭の上に雪下ろしの雪をぶっかけました——なんて、他の者たちに知れたら、エレアラスは雪に埋められるに違いない。が、
ふらり……。
あろうことか、屋根の端でエレアラスはよろめいた。
「おいっ! しっかり……」
しろ! ——と、叫び終わる前に、彼の手からシャベルが落ち、屋根の端で跳ね上がるや、ハルバラドに向かって落ちてきた。とっさに飛び退いた直後、
ズサッ!
恐ろしい音とともに、自分が立っていた場所にシャベルが突き立った。しかし、ほっと息を吐く間もなく、黒い影が視界をよぎった。
ズシン!
衝撃音とともに雪が舞い上がる。
「おい!」
叫んで事態を把握するや、ハルバラドの顔から血の気が引いた。エレアラスが落下した地点は、アラゴルンのいた場所だ。
「族長っ!」
受け止めようとしたのか、長が下敷きになって倒れている。落下物を受け止めるのは、簡単なようでいて実は危険だ。特に人間一人を受け止めた場合、下手をすると潰されてしまうことがある。
しかし、駆け寄ると、雪の上でアラゴルンの手がひょこんと招くように動いた。
「族長、ご無事ですか」
傍らに膝を付くと、掠れた声で返答があった。
「ああ、なんとか……」
エレアラスの肩の向こうに苦笑する顔が見える。
「雪がクッションになって助かった」
半分、埋まったがな——と笑う声に、ハルバラドは大きく息を吐いた。
「無茶しないでくださいよ。ご無事だったからいいものの、頭や胸を潰されかねないんですから」
「仕方ないだろう。落ちてきた者を避けるわけにもいかない」
「そりゃそうですがね……」
だからといって、身を投げ出すのもどうなのか——憮然としていると、袖を引っ張られた。見れば、アラゴルンの手が袖をつかんでいる。
「座り込んでいないで、起こしてくれ」
ふうっと息を吐き、彼はうんざりしたように言った。
「重くて動けない」
「わかりました」
ハルバラドは笑って答え、長を下敷きにして気を失っている若者の体を退けた。
「ありがとう。——彼は大丈夫か?」
上体を起こしたアラゴルンが、エレアラスに目を向ける。
「ええ。失神しているだけでしょう」
答えながら、ハルバラドはエレアラスの肩をゆすった。
「ん……」
鈍い声を発して若者が目を開く。
「気がついたな。怪我は——」
無いか——念のため、訊こうとしたところ、
「うわあぁぁぁ!」
相手は絶叫してハルバラドから飛び退った。失礼なやつである。
「それだけ動ければ大丈夫そうだな」
その背後でアラゴルンが笑う。エレアラスは飛び跳ねるように振り返った。
「う、あ、あぁぁ……」
言葉にならない声を発した後、身体を折り曲げるように頭を下げ、
「申し訳ありませんっ!」
一言叫ぶと、顔も上げず——それでも、シャベルはしっかりつかみ——逃げるように走り去った。
「……怪我はないようだな」
アラゴルンが座り込んだまま茫然と呟く。そんな彼の手を取って立ち上がらせ、ハルバラドは再度確認した。
「お怪我は?」
「大丈夫だ」
雪を払いながらアラゴルンは笑ったが、何を思ったか、ハルバラドをじっと見つめた。
「どうかしました?」
「隣にいたのに、お前は埋まるどころか、雪もかぶってないんだな」
不満げに言われて、ハルバラドは焦った。
「そりゃ……お助けできれば最善だったと思いますが……」
除雪の塊はともかく、エレアラスの落下からは長を救えたはずだ。その点は過失だと思う。シャベルさえ降ってこなければ——というのは言い訳にしかならない。だが、そういうことではないと言うように、アラゴルンは首を振った。
「別に助けてくれとは言ってない」
「はあ……」
では、何が不満なのだろうと思っていると、アラゴルンは少し離れて手に雪を取った。それを軽く丸め——、
ぱしっ。
ハルバラドに投げつけた。
「族長?」
どういう意図なのか、彼の態度に対応できずにいると、敬愛する長はハルバラドをビシッと指した。
「わたしだけ雪をかぶったのが気に入らない」
——は?
ぽかん、と口が開く。
——どういう理屈ですか、それ……。
予想外のことに頭がついていかず、間抜けに突っ立っていると、アラゴルンはちょうど近くを通りかかった子供たちに呼びかけた。
「おーい、君たち。副長が雪合戦の相手をしてくれるぞ。——そらっ」
言い終わると同時に、ハルバラドに向かって丸めた雪を投げつける。
——ちょっと待て。
制止する間もなく、次が飛んできた。子供たちは顔を見合わせていたが、族長が第二弾を投げたことから、一斉に雪を丸めはじめた。一族の長がゴーサインを出したから、張り切り方が違う。たちまち硬い雪のつぶてが飛んできた。
「コラァ!」
一喝すると、さすがに一旦止まった。しかし、それもほんの僅かな間で、再びつぶてが飛びはじめる。ハルバラドは雪のつぶてが飛んでくる中、ゆっくりと、だが大股でリーダー格の子供に向かって歩き出した。
雪が当たっても歩みを止めないこちらの姿勢に、子供たちもまずいものを感じたのだろう。ハルバラドが足を進めるうちに、次第に雪を投げる者は減っていった。距離が縮まるにつれて子供たちは後退りはじめ、あと二、三歩になったところで、
「逃げろぉ!」
「うわぁ!」
口々に叫んで駆け出した。
「まったく……」
ふうっと肩で息を吐き出し、逃げていく小さな姿を見送る。子供たちはこれでいい。だが、問題はまだ残っている。
——焚きつけたやつだ。
元凶がいた方を振り返ると、痩身の黒衣が離れたところを歩いていくのが見えた。のんびりとした足取りだったが、ハルバラドの視線に気づくや、ぱっと駆け出す。
——逃がすか!
すかさず、ハルバラドは追った。
黒衣は雪を蹴立てて、村はずれの木立へ駆けていく。ハルバラドはしめたと笑った。雪が積もったばかりで、誰も足を踏み入れていない場所だ。やわらかな新雪に足が埋もれ、どんな俊足でも走れなくなる。そんなことは前を行く人とて百も承知だろうに。どうやら、我らが長は逃げ道の選択を間違えたらしい。
ハルバラドは彼が道をつくった後を行くのだから、楽なものだ。両者のスピードの差は大きく、どんどん距離は縮まった。木立に入り、間もなく追いつくと思った矢先、アラゴルンは深みに足を取られたらしく転倒した。
——あの人のこんな姿を見ることになるとは……。
若い頃なら情けないと思っただろう。今は——、
普段なら慌てて駆け寄るところだが、状況が状況だけに愉快な気分になってしまった。人間とはゲンキンなものだ。
「観念するんですな」
ハルバラドは余裕綽々、倒れ臥している人に歩み寄った。それでも、助け起こそうとするだけの気持ちはまだあり、腕をとるべく手を差し出したのだが、上体を起こしながら振り返った人は、あろうことか丸めた雪を投げつけてきた。
——まったくもって往生際が悪い。
とはいえ、そんな体勢で投げた物が当たるわけもない。雪の塊はハルバラドの頭を飛び越していった。子供でもあるまいし、何をやっているんだか。
「いい加減、バカげた真似は……」
止めてくださいと言いかけたとき、頭上でザッと不穏な音が立ち、
ズサッ、ザザァー……。
真上から盛大な雪が降ってきた。
「……族長」
アラゴルンが肩を震わせて笑っている。彼の投げた雪の塊が、ハルバラドの頭上の枝に積もった雪を落としたのだ。ハルバラドはすうっと剣呑に目を細めた。どういうつもりか知らないが、悪ふざけが過ぎるというものだ。
——覚悟してもらおう。
胸の内で物騒な台詞を呟き、ハルバラドは不届きな野伏に飛びかかった。慌てて後退る相手の肩を押さえ込み、共に雪の中へ倒れ込む。二人分の重みが新雪を穿ち、ずっぽりと埋まったが、そんなことは構わなかった。腕の中にがっしりと痩躯を閉じ込める。
「おい……」
戸惑い含みの抗議の声が上がったが、それは物理的に封じた。身じろぐような抵抗も体重をかけて押さえる。
「少しだけ……」
そう囁くと、抱き締めた肢体からふっと力が抜けた。物分かりの良い長は、僅かな時間を与える決心をしてくれたらしい。そんな彼の懐の深さに感謝しながら、ハルバラドは腕に力を込めた。冷たい雪の中で抱く温もりが愛おしい。
——もう少しだけ……。
間近で感じる吐息の熱さに胸が震えた。
◆◇◆◇◆◇◆
「そろそろ戻ろう」
永遠にも思える静寂の時を、甘く掠れた声が破った。落ち着いた口調だったが、腕の中からハルバラドを見上げる美しい瞳は潤んでおり、このまま解放するのは惜しい気持ちになる。しかし、いつまでも雪に埋まっているわけにいかないのが現実だ。だいたい「厭です」と答えたら、次の瞬間には脛を蹴られているに違いない。
「そうですね」
ハルバラドは立ち上がり、腕を取ってアラゴルンを起こした。
「すっかり雪まみれだな」
淡い色の目が、ハルバラドを見遣ってうれしそうに細められる。そういえば、彼は自分だけ雪をかぶったのが気に入らないと言って、ハルバラドに雪をぶつけてきたのだ。
「気が済みましたか」
呆れ半ばに訊くと、アラゴルンは「まあな」と笑い、ハルバラドのマントを軽く叩いた。雪を払ってくれているらしい。
「お前の——」
こちらを見上げて、眉間をすっと指す。
「ここから皺が無くなったし」
——え?
「昨日、物資運搬の話が決まってから、ずっと険しい顔をしていた」
そう言って、アラゴルンは苦笑した。
「まあ、お前が心配するのはわかる。今回は本当に若手ばかりだからな」
けれど——と、一族の長は幾分真剣な表情で言った。
「お前が不安そうにしていたら、運搬役の不安が増す。彼らも冬季の旅が危険なことは知っている。口では『任せてください』なんて言っているが、経験不足を自覚していないわけじゃない。わたしたちには平気な顔を見せていても、仲間うちでは不安をこぼしているそうじゃないか」
そういった話はハルバラドの耳にも入っている。不安が大きくなれば、それは恐怖心に変わる。足が竦んでしまって、任務に支障が来すおそれがある。だが、今の彼らに「大丈夫だ」と、根拠のない安心を与えることはできなかった。そのほうが、より愚かな結果を招く。
しかし、こうした話をアラゴルンが持ち出したということは、彼の考えはハルバラドと異なる——つまり、
安心させてやれ、ということか……?
「ハルバラド」
青灰色の目がハルバラドをとらえる。
「信じてやれ」
静かで穏やかな声だが、逆らえない勁さがあった。
「命じたお前が信じてやらなかったら、彼らも自信を持てない」
確かにそうだ。こちらが信用しなければ、命ぜられた者は疑心暗鬼になる。
「しかし……」
頭ではわかっていても、不安は募る。特に今回は——。
「心配するな」
また皺が寄っているとでもいうように、アラゴルンが眉間を指す。
「経験不足な面はフォローする。そのために同行するんだ」
にこりと笑って言われ、ハルバラドは顎を落としそうになった。
——あなたの同行が一番心配なのだが……。
「あのですね、族長……」
そこのところを説明しようとしたが、アラゴルンは話は終わりだというように、村へ向かって歩き出した。
「ちょっ……族長!」
つれない背中に向かって呼びかけると、やわらかな青色の眼差しがちらりと振り向いた。
「心配するな。全員、無事に連れて帰ってくる」
白銀に輝く景色の中、白い歯が覗く。
「だから、留守番を頼む」
ひらりと手を振り、黒衣はゆっくりと遠ざかっていく。ハルバラドはひとつ息を吐き、眩しい空を仰いだ。澄んだ青い色がどこまでも広がる冬晴れの空。その色は、雪の中、腕に抱いていた人の美しい瞳によく似ていた。
END