冬芽
はらり、と白いものが落ちてきた。
「村まで持たなかったな」
前を歩く人が振り返った。その息も白く染まる。
「ええ」
ハルバラドも白い息を吐き出し、空を仰いだ。どんよりと低く垂れ込めた雲から、小さく白い欠片が音もなく落ちてくる。
「急ごう」
アラゴルンが足を速めた。既に積もっている雪を蹴散らし、彼の隣に並ぶ。フードから覗く青灰色の瞳に厳しい色が浮かんでいた。
「今年は犠牲が出なければいいが……」
寒さだけで人は命を奪われる。蓄えが乏しければ、たちまち飢えが襲う。冬は厳しい季節だ。
「そうですね。昨年は雪が多かったですから」
雪に慣れた土地だが、それも過ぎれば手に負えなくなる。昨冬、小さな集落が雪に降り込められ、全滅したと耳にした。一族の集落ではなかったが、同じ災いが自分たちに降りかからないとは限らない。災いは寒さや雪だけではない。狼が獲物を求め、里へ姿を現すようになる。冬が巡る度、一族の誰かが襲われ、ときに命を落とす。
「当分、止みそうにないな」
はらはらと舞い落ちてきた雪は、見る間にその勢いを増し、足下に新たな白い層を積み上げていく。ハルバラドは再び空を見上げた。目に映るのは鈍色の空と絶え間なく落ちてくる白、そして……、
視界の端にトネリコの枝が入った。葉をすっかり落とし、既に雪をかぶっていたが、雪片が剥がれ落ちた枝にある変化があった。
「族長、見てください。ほら——」
枝の先端が天を突くように尖り、その手前にもぽつぽつと小さな膨らみが見えた。冬芽だ。
「もう春の準備を始めてますよ」
「ああ……」
アラゴルンが足を止めた。
「大したものだな。時季になれば芽吹き、花を咲かせて実を付ける。きちんと命をつなぐんだ」
ハルバラドは僅かに眉を顰めた。気分を明るくさせようと声をかけたのだが、要らぬことを考えさせてしまったかと心配になった。彼の声はただ感心を示す響きだけがあったが、言葉は自身と引き比べてのものに違いない。けれど、アラゴルンは口許を綻ばせて、木に近づいた。
「これは雌株かな」
「さあ……。村のはずれの木立は雌株が目立ちますが」
ハルバラドは首を捻った。樹木の雌雄がはっきりとわかるのは実りの季節だ。葉を落としている状態では見分けが付かない。
「あそこのトネリコには一族中が世話になっているな。家具にも武具にも。わたしの弓もそうだ」
アラゴルンは穏やかに笑った。暗い思考に沈むことはなかったようだ。ハルバラドは安堵の息を吐いた。笑みを浮かべて長の言葉に答える。
「わたしの弓もですよ」
「そうだな。そうやって、さまざまな物に形を変え、生き続けるのだと思うと、人より樹木のほうがずっと逞しいのかもしれないな」
アラゴルンはすっと手を伸ばし、愛おしそうに木の肌を撫でた。
「人の暮らしに無くてはならない木だ」
幹の表面から、さらさらと雪が落ちる。青灰色の目が細められ、春の陽射しのようにやわらかな笑みが浮かんだ。その表情に目を奪われる。ハルバラドは無言でアラゴルンの肩に手を置いた。その拍子にマントに積もっていた雪がこぼれ落ちた。
「ああ、すまない。けど、構わなくていいぞ」
彼は小さく笑ってマントの雪を払い、「お前のほうが積もってる」と、ハルバラドの肩に手を伸ばした。その腕をつかみ、抱き寄せるようにアラゴルンの肩に手をまわす。
「ハルバラド?」
腕の中から不思議そうな声が上がった。フードの下で小さく首を傾げたその顔には、警戒の色がまったくない。
——どうしてこの人は……。
こうも無防備なのか。思わず苦笑が漏れる。
「何を一人で笑っている。おかしな奴だな」
今度は少し訝しむ声が上がった。
「無くてはならないと、思っただけですよ」
「……トネリコのことか?」
「あなたのことですよ。族長」
一族にとっても、中つ国にとっても、そして——、
ハルバラドにとっても……。
「お前以外の者からそんな言葉が出たら、この身に流れる血のことだろうと、訊くところだが——」
「わたしにそんな問いかけをなさるつもりで?」
「しないよ。訊いた途端に怒鳴りつけられそうだ」
アラゴルンがくすりと笑う。
「よくご存じで」
ハルバラドはにやりと唇をゆがめて見せた。アラゴルンの口から白い息が漏れ、明るい声が響く。ハルバラドも息を白く染めながら笑った。ひとしきり笑うと、アラゴルンの青い瞳がまっすぐにハルバラドを捕らえた。
「無くてはならないのはお前も同じだ。ハルバラド」
トネリコを見ていたときよりも優しい眼差しが、ハルバラドの姿を映す。
「わたしにとっても、一族にとっても、お前の代わりはいない」
アラゴルンはそう言うと、邪気のない顔でふわりと笑った。降りしきる雪の中だというのに、陽だまりに居るような温もりがハルバラドの胸に広がった。長の肩にまわした手に自然と力が入る。だが——、
「ほら、行くぞ」
彼はするりとハルバラドの腕をすり抜けた。
「いつまでも突っ立っていたら、埋もれてしまう」
アラゴルンは再び厳しい表情を浮かべ、あっさりと身を翻した。きゅっと新雪を踏む音を立て、さっさと歩いていってしまう。長の足跡を辿りながら、ハルバラドは言った。
「あなたと二人なら、埋もれていい気もしますが」
「わたしは御免だ」
肩越しに素っ気ない言葉が返ってきた。だが、フードから覗く口許は笑っていた。ハルバラドは目を細め、その背中を追った。
今は深く雪に埋もれようとも、あのトネリコの芽のように耐えてみせよう。彼が在るなら、どんな冬も越えられる。春は遠くとも、必ずこの冬は終わりを告げる。そのときは——、
一斉に芽吹いた鮮やかな色が、この世界を覆うだろう。
END