弦月
じじっと燭の灯が揺れ、デネソールは書面から顔を上げた。窓の外を見遣れば、半分に欠けた月が東の空に昇っている。日増しに影の伸びる東の空だが、天空を渡る銀の花には届かぬらしい。
しかし、それも天空に在り、守護者がいてこその話か。デネソールは睨むように銀の輝きを見た。川を挟んだだけの土地を、天高く航行する存在と比べるなど、
——愚かなことだ。
残り少なくなった燭の灯を消し、デネソールは執務室を出た。夜間、閉ざされる扉を避け、回廊を渡っていく。すると、前方を横切る影が目に入った。
すらりとした細身のシルエット、無造作に束ねられた黒髪、石造りの床であってもほとんど音を立てぬ歩み——将たちの覚えもめでたい中隊の長、ソロンギル。だが、その素性はどこの誰とも知れぬ流れ者だ。そんな者が、夜更け、何やら大きな荷物を手にして歩いていく。
デネソールは足を速めた。呼び止めるか、黙って尾けるか——考えを巡らせながら回廊を渡り切り、ソロンギルが歩いていった方向を見遣ったが、既に人影は消えていた。立ち去った後か、それとも、
——撒かれたか。
そう思いながら足を踏み出したとき、
「公子」
静かな声に呼ばれた。振り向けば、柱の陰から“星の鷲”が現れた。とっくにこちらに気づいていたということだ。デネソールは苦々しい気分でゆっくりと近づいた。
「今時分、なぜ、こんなところにいる」
この男が与えられた住居は別の環状区にある。夜更けに城内を歩いていることが、既に胡乱だ。
「楽士の方との約束がありまして……」
ソロンギルは困惑気味の笑みを浮かべ、手にしていた荷物の紐をほどいた。現れたのは弦を張った楽器だった。
「練習の伴奏を頼まれております」
それだけ言って、再び歩き出そうとする。その進路を塞ぐようにデネソールは立った。
「なぜ、楽士がそんなことをお前に頼む」
来月、管弦の宴が催される。それが楽士の昇進に係わる重要な場であり、彼らが準備に熱を入れていることはデネソールも知っている。だが、練習相手ならば同輩、そうでなくても文官に依頼するのが相場だ。剣を振るう武官に頼む楽士など、聞いたこともない。
目の前の男は楽器を持たせれば、なるほど、楽士に見えないでもない。けれど、この男の右手は弦を爪弾くためではなく、剣を振るうためにある。見た目は細身の優男でも、軍で知らぬ者はおらぬほどの遣い手だ。隣国では将軍職を務めていた。そんな者に伴奏を頼む酔狂な楽士がいるわけがない。
「同輩の楽士がいるであろう」
偽りを申すな——そう詰め寄ると、ソロンギルはまた困惑気味の笑みを浮かべた。
「嘘ではありません。わたしも、最初はご同輩の方に頼んだほうが良いのではと思いましたが——」
そう言いながら、ソロンギルは楽器をくるみ直した。
「ご同輩の楽士に頼むと、いろいろ障りがあるのだそうです。練習の進み具合や奏法などを競争相手に漏らされると……。ああいう世界も、見えないところでは戦並みの深謀遠慮が為されているのですね」
眼前の男は淋しげに呟いたが、デネソールはさもありなんと思った。楽士たちの奏でる調べは華やかだが、あの美しい音のために為される努力は並大抵ではないと漏れ聞いている。見かけどおりのきれいごとだけで済む世界でもないのだろう。特に利害が絡めば——。
「口の固い楽士や管弦に精通した文官など、めぼしいところはみな、年長者に押さえられてしまって困っていると、そう言われて断れなかったのです」
なるほど、一応、筋の通った話だ。しかし、腑に落ちない。
「だが、なぜ、お前に頼む? お前が楽器を嗜むなぞ、ちらとも聞いたことがなかったぞ」
本人は多くを語らないが、人の耳目を集める男だ。今をときめく——とまでは言わないが、率いた隊を不敗に導く手腕は軍の外からも称賛の声が聞こえてくる。それだけ注目を浴びている者のことは自然と噂が立つ。また伝わるのも早い。
「話せば長くなるのですが——」
ソロンギルは曖昧な笑みで、首を傾げた。
「手短にしろ」
命じると、淡い青色の目がしばたたいたが、すぐに「では——」と話しはじめた。
「先月、アンドゥインの河口に赴いた折り、海賊に襲われている商船を発見しました」
「救出ではないのか」
微妙な言い方にデネソールは目を眇めた。
「海賊は討ちましたが、発見時には既に半数を超える犠牲者が出ていました」
ソロンギルは目を伏せた。結果として救出にならなかったため「発見」だと言ったらしい。
——殊勝なことだ。
どこまでも善人ぶる態度が苛立たしい。デネソールは苦々しく唇をゆがめ、話の続きを促した。
「犠牲者の一人に旅の楽士がありました。この楽器は彼の形見です」
ソロンギルが手許の楽器を見た。
「犠牲者を悼みながら、その持ち物は奪ったか」
挑発するように問いかけたが、相手はそれに乗らず、静かに首を振った。
「わたしが看取ったのです。『楽の道を志す者に渡してほしい』と託されました」
「それで、なぜ、お前が持ったままなのだ? 今から“楽の道”を志すのか? そこから楽士の練習相手の話にどうつながるのだ?」
矢継ぎ早に尋ねると、男は苦笑した。
「ですから、長い話になると……」
「手短にしろと言った」
ソロンギルは仕方なさそうに小さく息を吐くと、「これを——」と少し楽器を持ち上げた。
「わたしが持ったままなのは、今のところ、まだ欲しいという方がいないからです。こちらの楽士の方々は、それぞれ良い楽器をお持ちです」
確かに、宮廷の楽士はみな良い楽器を手にしている。旅の楽士——それも殺された者が持っていた物など、欲しいとは思わないだろう。
「練習相手にという話は——、これを託された直後、状態を確かめておこうと思い、調弦のついでに弾いてみたのです。たまたま、それが将軍のお耳に届いていたとかで……、彼の知人のご子息だという楽士を紹介されました」
デネソールの脳裏に一人の将の顔が浮かんだ。質実剛健を擬人化したような外見だが、音曲にも造詣が深いと聞く。彼の耳に留まったのなら、目の前の男の腕前はなかなかのもの、楽士の練習相手も務まるのだろう。
ソロンギルは「紹介された」と言ったが、実際は将軍の仲介で断れなかったに違いない。楽士本人と話して、なんとか断ろうとしたのだろうが、「他に練習相手がいない」と泣き落とされたわけだ。まあ、そんなことはどうでも良いが——。
「事情はわかったが、そんな練習をこんな夜中にするのか?」
「夜中か早朝でないと、練習用の部屋を借りられないそうです。他の時間帯は年長の楽士たちに押さえられているようで……」
ソロンギルは肩を竦めた。
「それに付き合ってやっているわけか」
「引き受けたことですから」
楽器を携えた男は小さく笑い、「それでは、失礼いたします」と踵を返した。足早に立ち去ろうとする背中を呼び止める。
「待て」
怪訝に振り返った顔に向かって、デネソールは言った。
「同行しよう」
◆◇◆◇◆◇◆
若い楽士の練習に一刻ばかり付き合った後、デネソールはソロンギルを伴って館へ帰った。
「あの腕前でよく楽士が務まるな」
葡萄酒を注いだ使用人を下がらせ、デネソールは言った。話の楽士は笛の奏者だったが、演奏ときたら、始終とちり、つっかえと、それは酷いものだった。
「今夜は思いがけず公子がご臨席で、緊張したのでしょう」
ソロンギルがかばうように言った。確かに彼はデネソールの訪問に驚いていた。多少の動揺はあったかもしれない。しかし、宮廷付きの楽士が貴人の臨席に狼狽してどうするのだ。
「そのようなこと言い訳にならぬ。晩餐の席での演奏もある」
「食事と歓談に音楽を添えるのと、間近で注目されながら吹くのとでは異なるでしょう」
ソロンギルはわかったようなことを述べ、酒杯を手に取った。ひと口飲んで、付け足すように言う。
「もっとも、彼はまだ正餐の席に出られないようですが」
「当たり前だ。あんな演奏をされては料理も酒もまずくなる」
切って捨てるように言うと、眼前の男はただ肩をすぼめて淡く笑み、葡萄酒を口にした。反論して良いときと控えるときを瞬時に見分けている。おもしろくない。デネソールは男の傍らにある包みを目に遣った。
「おい、何か弾け」
ソロンギルの動きがぴたりと止まった。ゆっくりと楽器の包みを見遣り、見比べるようにデネソールに視線を戻す。
「ですが……今、料理も酒もまずくなると……」
躊躇いがちに紡がれる言葉をデネソールは遮った。
「それはあの笛吹きの話だ」
ソロンギルは瞠目し、ぱちぱちと音がしそうな瞬きをした。それから、しげしげと首を傾ける。言葉が通じてないわけではないだろうに、何をやっているのか。
こういうとき、実はこの男、とんでもなく鈍いのではないかと、常とは別の疑念を抱く。剣の腕も頭の回転も、並ではないことは重々承知しているが、時折、こうしてきょとんと間の抜けた反応をする。この落差はなんなのか、まったく、
——気に入らぬ。
デネソールは苛々と息を吐いた。
「さっさとしろ」
「はあ……、では……」
力のない返事をし、ソロンギルは包みを解いた。すんなりと楽器を構え、耳を澄ましながら弦を調整していく。楽士のところでも見た光景だ。手慣れた様子は基礎が身に付いていることを物語っている。見様見真似でない、正規の手ほどきを受けたことがあるのだ。
「その扱い、どこで覚えた?」
尋ねると、ソロンギルは目を上げ、何事か懐かしむような表情で「昔——」と言い、再び調弦に集中するように目を伏せた。
「子供の頃、面倒を見てくれた人たちが教えてくれたのです」
「流れ者ではなかったのか」
「ええ、流れ者です」
はっきりとそう答えた後、ぽろんぽろん、と弦を爪弾きながら歌うように呟いた。
「……の地に留まることのできない……流れて、去っていく者……」
何を言っている——そう問う前に弦が強く弾かれた。
ビンッ……。
低く深みのある音が響く。続いて重厚な和音が幾つか奏でられ、部屋を覆う空気は弦を弾く音に占められた。
ぽん、ぽろん、ぽん、ぽろろん……。
曲はやがて、哀愁を帯びた単音の連なりに変わったが、なぜか、デネソールは口を挟むことができなかった。記憶の奥底を揺らすような、どこか懐かしい調べのために——。
技巧が無くては奏でられぬ旋律。これを弾きこなすことが、ただの流れ者ではない証だ。半月のように、目に映らぬところに何を隠しているのか——油断ならぬ者。けれど、
——この調べが響く間は目を瞑っていてやろう。
細やかに奏でられる調べを聴きながら、デネソールは目を閉じた。
END