黄金の森
黒門前での戦いののち、ゴンドール・ローハン両軍はアンドゥインの東、イシリアンのコルマルレン野で野営した。指輪を葬り、大鷲に救出された二人の小さな勇者もここで手当てを受けている。
「どう?」
レゴラスがフロドとサムの寝かされている天幕に入ると、昼間と変わらない姿勢で白い衣の魔法使いが座っていた。
「せっかちな奴じゃな」
エルフのくせにと言いたげに、ガンダルフがこちらを向いた。
「何も変わらぬよ」
「でも、危機は脱したんでしょ」
運ばれてきた二人は過酷な旅でずいぶん弱っていたが、アラゴルンが持つ癒し手の力で危うい状態は脱したと聞いた。
「だからと言って、すぐに目を覚ますわけがなかろう。ホビットは丈夫な種族じゃが、それでも、お前さんたちエルフのように疲れや病を知らぬわけではない。こうして——」
ガンダルフは寝息を立てている二人を目で示し、
「眠って力を養っておるんじゃ」
レゴラスに向かってさとすように言った。
「それぐらいわかってるよ。僕らだって斬られれば痛いし、怪我もする」
レゴラスは少々むくれた。エルフは不老不死で疲れを知らないが、怪我と無縁ではない。他者の手にかかれば、マンドスの館へ直行だ。
「ただ、二人が目を覚まさないと、エステルが笑わないからさ……」
あの心配性の人の子は、自分の食事もそっちのけで二人を癒した(そしてフラフラになった)。手を尽くした甲斐があり、二人の容態は危機を脱した。けれど、一向に目を覚まさない。そのためか、アラゴルンの顔は晴れない。ギムリが冗談を言っても笑わない。しかし——、
「そりゃ、別の理由じゃろ」
ガンダルフはあっさりとレゴラスの推測を否定した。
「別の?」
レゴラスは軽く眉を顰めた。いったいどんな別の理由があるのかと思えば、
「肋が二、三本折れておる」
軽い調子でとんでもない理由を明かされ、レゴラスは絶句した。
「……え?」
「トロルに踏まれておっただろう」
確かに、彼は黒門前の戦いでトロルに踏みつけにされていた。あれを見たときは、不死のはずの寿命が縮む思いがした。あのまま踏み潰されてしまうのではないかと、気が気でなかった。直後にバラド・ドゥアが崩れ、助かったのだが……。
「それで折れたと言うておった。笑うと痛むそうじゃ」
「だけど、僕にはは大丈夫だって……」
戦いが終わったとき、レゴラスはアラゴルンに怪我はないかと尋ねた。彼は大丈夫だと答えた。それで安心したのだ。
「ふむ……まあ、大丈夫じゃろう」
魔法使いはパイプを吹かし、のんきに呟いた。
「折れた骨が肺にでも刺されば一大事じゃが、幸いそうはなっておらん。処置はしたと言うておったから……」
レゴラスは最後まで聞かずに天幕を飛び出した。
「まったくもう!」
——肺にでも刺さればだって? 冗談じゃない。
肩を怒らせ、飛ぶような勢いでアラゴルンの天幕へ向かう。
——処置はしたから大丈夫だって? 何を言ってるんだ。
処置をするのは当たり前じゃないか。自分は「怪我は?」と訊いたのだ。彼は骨を折っていた。なのに「大丈夫だ」と答えた。それが気に入らない!
「エステル!」
アラゴルンの天幕に飛び込む——と、そこには先客がいた。正式に戴冠はしていないものの、事実上のゴンドール王として軍を率いた彼の天幕に来客があるのは驚くにはあたらない。だが、客はエルフだった。それも、レゴラスの見知った顔だった。
「ファロンスール」
「——殿下」
相手は闇の森のエルフだった。
「どうしたのさ」
「ドル・グルドゥアの殲滅をお知らせに参りました」
ファロンスールは森の南にある丘の名を口にした。死人占い師が要塞を築いた丘だ。その死人占い師はサウロンが変じた姿であり、彼の力が強くなると、森の南部は邪悪な生き物が徘徊する恐怖の森になった。その悪しき拠点を一掃したと言う。
「ドル・グルドゥアを?」
「はい。ロスロリエンの奥方の手で浄化されました」
「そう」
人の子が無謀な戦いに挑んでいたとき、エルフたちも戦っていたのだ。レゴラスはうれしくなった。
「へぇ、やるじゃないか。父上、大喜びでしょ」
「はい」
「今頃は大宴会だ」
酒好き宴会好きの父だ。こんな大きな勝ちを祝わずにおけるわけがない。葡萄酒の樽がいくつ空いただろう。
「なのに、君は使いに出されてしまった。残念だったね」
「わたしにはこちらのほうが性に合っておりますので」
ファロンスールは涼しい顔で言った。確かに彼はバカ騒ぎをするタチではない。
「殿下こそ、祝宴に参加できず残念なのでは?」
「僕もこっちのほうが性に合ってるんだ」
レゴラスは笑った。森のエルフの宴会は確かに楽しい。だが、ここにはどんな華やかな宴にも勝る魅力的な存在がある。そのそばにいるほうがずっといい。
「さようですか。ですが、一度お戻りください。王が淋しがってらっしゃいますよ」
「うん、そのうちね」
軽く返すレゴラスにファロンスールは苦笑をこぼしたが、咎める言葉は発しなかった。改めてアラゴルンとレゴラスに辞去の礼を取ると、天幕を出ていった。すると——、
「彼と一緒に戻ったらどうだ?」
背後からとんでもない言葉が投げかけられた。
「何それ、僕を追い出す気?」
眉を吊り上げて振り返れば、アラゴルンは気遣わしげな顔で言った。
「そういうわけではないが、スランドゥイル王が淋しく思ってらっしゃるなら……」
生真面目な人の子はどんな言葉もまともに受け取る。とんだお人好しだ。
「あんなのは言葉のアヤだよ。帰るかどうかは僕が決める。それより、エステル——」
レゴラスはアラゴルンにズイと詰め寄り、その上着をめくり上げた。
「おいっ、何をす……ツウッ……!」
驚いてレゴラスの手を払いのけ、後退ったアラゴルンだったが、仰け反った途端に胸元を押さえ、膝から崩れるように仮設の寝台に座り込んだ。
「折れてるんだって?」
「もうちょっとマシな確かめ方をしろ」
痛みに顰められた眉の下、青灰色の目がレゴラスを睨む。
「僕が訊いたとき『大丈夫だ』と言ったのは、どこの誰だったっけ?」
「あのときは自分でも折れてると思ってなかったんだ。気づいたのは黒門から退いた後だ」
「で、黙ってた」
「言い触らすことじゃないだろう。それに処置はした」
だからいいだろうと言いたげに、アラゴルンは息を吐いた。
「見せて」
信用できない——という顔をして、レゴラスは言った。アラゴルンを仕方なさそうにため息を吐き、上着のボタンを外しはじめた。後を追うように、レゴラスがシャツのボタンを外す。胸元に巻きつけられた白い布が現れた。確かに固定の処置はしたようだ。だが——、
「緩んでる」
レゴラスは布の結び目をつまんだ。
「これじゃあ意味がない。一人でこそこそするから、こういう中途半端なことになるんだ」
アラゴルンはきまり悪そうに顔を背けた。レゴラスは用を為していない布をほどく。すると、軟膏を塗りつけた布が落ちた。微かに消炎効果のある薬草の匂いがする。
「へえ、消炎の湿布はしてたんだ」
「当たり前だ」
ムッとした声が返ってくる。
「けど、もう効果は薄れてるんじゃない? 香りが飛んじゃってるよ」
指摘すると、アラゴルンの口許が舌打ちしそうにゆがんだ。
「……そろそろ替えようと思ってたところだ」
取って付けたように言う。そんな言葉を信じるわけもないが、レゴラスはにっこりと笑って言った。
「そう。なら、僕が来たのはちょうどよかったわけだ」
アラゴルンは口惜しげにそっぽを向く。そんなところが可愛らしい——と思われていることを、この人の子は気づいているだろうか。
「で、替えの湿布は?」
アラゴルンが黙って顎をしゃくる。その視線の先に軟膏とガーゼがあった。レゴラスは軟膏をガーゼに塗りつけ、包帯を巻き、固定の三角巾を縛り直した。その間触れた彼の肌はあからさまな熱を持っていた。骨折しているから患部が熱を持つのは当たり前だが、それにしても熱い。
気になって、アラゴルンの額に手を伸ばす——と、触れた途端、アラゴルンが払うように頭を振った。しかし、レゴラスには指先がかすめた一瞬で十分だった。
「やっぱり……」
発熱している。なぜ隠すのか、隠して治るものではないだろう、きちんと処置して休養すべきだ、なぜそれがわからない——頭の中が文句で溢れかえる。けれど、出てきたのは大きなため息だった。シャツを羽織り直していたアラゴルンが気遣わしげにこちらを窺う。また何か言われるのかと、案じているような視線だ。
——もう何も言わないよ……。
何しろ、この人の子はわかってやっているのだ。言っても無駄という言葉が、これ程ぴったりくる者もいないだろう。
「今日はもう休んだら?」
半ば投げやりに言ったが、意外にも素直な返事があった。
「そうだな」
アラゴルンはのろのろと寝台に身を倒した。動作がゆっくりなのは、肋の骨折が痛むからなのだろう。水差しの水で濡らした布を額に当ててやると、穏やかに目を閉じた。最初からこれぐらい素直に振る舞えばいいのに。まったく……、
——素直なんだか、頑固なんだか……。
それでもこうして横になったのだ。今夜のところはおとなしく寝ているだろう。そう思い、レゴラスは踵を返した。すると、
「レゴラス」
背中に声がかかった。振り返れば、真面目な光を湛えた青灰色の瞳があった。
「世話をかけた」
レゴラスは軽く笑い、ふと思いついたことを言ってみた。
「ねぇ、君が戴冠したら、僕、ここで暮らしてもいいかな」
「……ここ? コルマルレン……北イシリアンにか?」
「そう」
「別に構わないが……、スランドゥイル王が頷くか?」
「それは大丈夫。じゃあ、いいんだね」
レゴラスは寝台に駆け寄り、アラゴルンの目許に唇を落とした。
「これで決まりだ」
アラゴルンが小さく苦笑する。その頬に再び「お休み」と唇を落とし、レゴラスは天幕を出た。フウッと息を吸って夜空を仰ぐ。そこへ草を踏む音が近づいてきた。
「——殿下」
「ファロンスール」
先程会った森のエルフが立っていた。
「まだ居たんだ」
「ごあいさつですね」
ファロンスールが苦笑する。
「僕は帰らないよ」
機先を制するように言うと、ファロンスールの眉間に皺が寄った。
「殿下——」
「ああ、勘違いしないでよ。一度は帰るさ」
そう一度は帰る。あの懐かしい森の王国に。けれどもう、あそこは自分の居場所じゃない。
「だけど、その後はここで暮らすんだ」
レゴラスはきっぱりと言った。
「ねぇ、素敵なところじゃないか。美しいブナの木がたくさんある」
森のエルフが住まうに相応しいだろう——と腕を広げてみせる。ファロンスールはやれやれといった態で肩をすぼめたが、反論はなかった。
「確かに美しい森ですね」
そう、美しい森だ。そして対岸には石の都がある。人の子の治世を見守るのにちょうどいい。あの人の子の御代で、この森は更に美しくなるだろう。
「秋になったら色づいて、きっと黄金色に輝いて見えるよ」
陽の落ちた暗い森が風にざわめく。しかし、レゴラスの目には黄葉した葉が陽射しに輝く景色が見えた。
END