薄暮
環状に段を重ねる白い都の最上層に、一際高くそびえる白い塔。その最上階に向かって、緑葉の名を持つエルフ——レゴラスは階段を駆けていた。エルフらしい身軽さでペースを落とすことなく駆け上がっているが、果てしなく続くかのような石段には少々うんざりしていた。
——これじゃあ、スープもお茶も冷めてしまうよ。
スープやお茶を運んでいるわけではないが、そんなことを胸の内で呟いてみる。最上階へ抜ける階段を上がると、窓辺に目当ての人物が佇んでいた。白の山脈の稜線に隠れた陽の名残りが、その姿を淡く照らしている。白の木の王、エルフの石——さまざまに呼ばれる人の子、アラゴルン。
レゴラスが来たことに気づいているだろう彼は、しかし、振り返りもしなかった。紫色に染まっていく窓の外を眺めたまま、その後ろ姿には近寄りがたい雰囲気が漂っている。だが、レゴラスは構わずに声をかけた。
「ファラミアが捜していたよ」
「そうか」
「悪い王様だ。臣下を心配させて」
隣に立つと、彼がちらりとこちらを見た。
「そう思うなら、教えてやったらどうだ」
「いいのかい? 独りになりたいんでしょう」
わかっているなら訊くな、とばかりに彼は再び窓の外を向いた。その手には一通の封書が握られている。彼が独りになりたくなった原因だ。
「けど、僕は出ていかないよ。本当は独りだとちょっと寂しい、そうだろう?」
「わかったようなことを……」
ため息とともに呆れた呟きが聞こえた。
「そうだね。本当のところはわからない。僕は君じゃないから。でも、いいでしょう。僕がそばに居たいんだから」
にっこり笑ってやると、彼はやれやれと肩を竦め苦笑した。追い払う気はないらしい。レゴラスはアラゴルンの手にある封書に視線を移した。
「それ、フロドから?」
「ああ。今頃は海の上だろう」
淡々とした声に、訊こうとしていた言葉を飲み込む。
——会いに行かなくて良かったのかい?
旅立ったのはフロドだけではない。養い親や友であるイスタリ、縁のある森の奥方だ。けれど——
「アラゴルン……」
——君はなんでも自身の内で決着をつけてしまうね。
レゴラスは彼の肩に手を置き、窓辺の椅子に座らせ、後ろから包むように抱き締めた。
「緑葉のエルフはいつもわたしを甘やかすな」
——嘘ばかり。
甘える気などないくせに……。
「仕方ない。惚れた弱みってやつだよ」
耳許で囁くと、彼は不思議そうな顔をして振り向いた。
「そういうものなのか?」
罪のない青灰色の瞳が憎らしい。
「あのね、エステル。そういうことは真面目に問い返すもんじゃないよ」
「いや、しかし……」
一旦考えるように黙った彼は首を捻った挙げ句、やっぱりわからないと顔に書いてレゴラスに向き直った。
「ひとつ訊いてもいいか?」
「なに?」
ロクなことじゃあるまいと思ったが、レゴラスは返事をした。
「その……だな、わたしのどこがいいんだ?」
今や大国の王となった人の子が大真面目な顔で訊いた。
——エルロンド卿……。
レゴラスは胸の内で、既に灰色港から旅立ったであろう智恵者の名を呟いた。いったいどんな育て方をしたのか、と。
本人はエルフに囲まれて育ったため、人間と感覚がずれているところがあるらしい——程度に思っているが、それは違う。断じて違う。エルフとだって立派にずれている。深いため息が出た。
「そんなにしみじみとため息を吐かないでほしいんだが……」
呆れられていることはわかったのだろう、非難の声が上がった。ただし、なぜ、呆れられているかはわかっていない。それもまた彼らしく、好ましいとすら感じるのだから……。レゴラスは苦笑した。
「そういうところも——」
「は?」
「どこがいいんだ、と大真面目に訊くところもだよ」
「よくわからないんだが……」
彼は戸惑った様子で首を傾げる。
「いいんだよ。わからなくて」
レゴラスはくすくすと笑った。
「なんだか莫迦にされているような気がするが……まあ、良しとするか」
彼は小さく笑うと、レゴラスの腕を振りほどき立ち上がった。
「日が暮れる。戻るぞ」
夜の色が深くなる景色を一瞥し、あっさり踵を返す。
「なんだ。もう終わり? 君を独り占めできると思ったのに」
「ファラミアが捜していたんだろう?」
階段を下りていく後ろ姿が言った。
「ちぇ、言うんじゃなかった」
せっかく慰めてあげようと思ったのに、と駆け寄って背後から手をまわすと、「それは残念だったな」と笑われた。
「可愛くない……」
「当たり前だ。ほら、離れろ」
肩越しに伸びた手が額を押す。
「塔のてっぺんまで登ってきたってのに、つれないね」
「そう言うな。夕食は一緒に取ろう。それまでアルウェンの相手を頼む。ギムリも来ているんだろう?」
レゴラスが頷くと、彼はうれしそうに笑った。
「今夜は皆で一緒に飲もう。旅の話を聞かせてくれ」
皆ではなく、君と二人がいいんだけど……とは言えない笑顔だった。本当に惚れた弱みだ。仕方がない。息をひとつ吸うと、レゴラスは飛び切りの顔で笑ってみせた。
「喜んで。白の木の王の望むままに」
END