Halbarad
長く郷を留守にしていたドゥネダインの長が帰ってきた。長旅のせいか面やつれしていたが、黎明の藍色を映し込んだような瞳と、穏やかに微笑む笑顔に変化はなかった。
「本当によくご無事で」
「そんなふうにしみじみ言われると、なんだか変な気分なるな」
ローハン、ゴンドールと二国に仕え、とりあえずの危険を取り除いての帰郷だった。だが、帰途に着く前、彼は影の山脈へ足を踏み入れていた。ウンバールへの出撃前は何も言ってなかったというのに。
敵の情報は必要だが、イシルドゥアの血筋である彼がモルドールに近づくことは危険極まりない。帰郷した彼から話を聞いたドゥネダインの面々は慄然とした。彼が郷の者たちから「御身を大切に」と説教されたのは言うまでもない。とはいえ、長が危険を冒して持ち帰った情報の重要性は誰もが心得ており、アンドゥインの東岸の地図に新たな情報が書き加えられていった。
「少しくらい変な気分になっていただかないと」
「なんだ、それは」
情報の整理が終わったところで、ハルバラドは用意した家にアラゴルンを案内した。数日前に報せがあったため、屋内は掃き清められ、こざっぱりと整頓されていた。
「危険を顧みない行動をする長を待つ立場——というのを、少しはご理解いただけるんじゃないかと」
「危険を避けてばかりでは何も出来ないだろう」
「それはわかりますが、心配なものは心配なんですよ」
茶を淹れようすると、アラゴルンがテーブルに瓶を置いた。
「ハルバラド。飲もう」
「族長。人の話を聞いて……」
「聞いてるさ。だから、無事の再会を祝して」
「族長……」
「いろいろ心配させているんだろうが、わたしは無事に戻ってきたんだ。それは喜んでくれないのか」
アラゴルンは首を傾げ、窺うようにこちらを見た。
「わたしはお前に会えて嬉しいぞ。少々口うるさいとは思うが」
「……最後の一言は余分です」
ハルバラドはひとつ息を吐くと、棚からグラスを取り出した。
「裂け谷から持ってきた葡萄酒だ。美味いぞ」
相好を崩したアラゴルンがグラスに葡萄酒を注ぐ。
「族長。単に飲みたかっただけじゃないんですか」
「それもある。が——」
アラゴルンがグラスを掲げた。
「心配性で口うるさい仲間との再会に」
「無茶ばかりする族長の無事を祝って」
キンッとグラスが鳴った。それからはお互い、アラゴルンは留守中の郷の話を、ハルバラドは彼の旅の話を聞いた。
「モルドールってのは本当に“黒の国”なんですね」
「影に覆われて陽が射さないからな。暗闇の中、燃え盛る目と火を噴き上げている山だけが赤く輝いていた。滅びの山と……燃える目があるのがバラド・ドゥアだ」
「暗黒の塔ですか」
「ああ。名前のとおりの、守護の塔の白さとは対極の塔だ。だが、強大な力を欲すると塔を建てたくなるのは、人間も元はマイアの冥王も種族を問わず同じなのかもな」
呟かれた言葉にはどこか諦念の響きがあった。
「族長は、どうなんです?」
滅びたとはいえ、彼は王家の末裔だ。世が世なら、そびえ立つ塔のある宮で暮らしていたかもしれない。暗黒の塔はともかく、白の塔を見て思うところはなかったのだろうか。
「どうって、なにがだ?」
「塔ですよ。建てたいですか?」
「要らないな。あるなら使うし、必要があれば建てるが、とりあえず今は考えられない。それに——」
何を思ったか、彼はハルバラドを見て目を細めた。
「なんです?」
「わたしにはお前がいるから、それで充分だ」
「……は?」
「“Halbarad”すなわち“高い塔”だろ?」
確かに、シンダリンで“hal”は“tall”、“barad”は“tower”を意味する。
「それは、そうですが……」
「なんだ」
「それは名前であって、ほんとの塔じゃありませんよ」
「それくらいわかってる。真面目に受け取るな」
酔った上でのからかいなのか、アラゴルンはいつもより明るい声で笑った。
「本当に塔なら良かったですがね」
ハルバラドは小さく呟いた。
「ハルバラド?」
「本物の塔のような堅牢さはありませんから、役に立ちませんよ」
グラスの中に視線を落とし、自嘲気味の笑みを浮かべる。
「そうでもないぞ」
アラゴルンがテーブル越しに身を乗り出した。青灰色の瞳が蝋燭の灯りを映して煌めく。
「族長?」
顔を上げたハルバラドの耳許にアラゴルンが囁いた。
「動いてしゃべって剣も振るう塔は他にない。優れものだ」
「……族長」
「わたしの塔に乾杯だ」
アラゴルンがカチリとグラスを合わせた。ハルバラドは何も言えず、ただ杯を空けた。新たな決意を胸にして。
——あなたが塔だと言うのなら、あなたのための塔になろう。玉座なき王を守るための、どこへでも参じる砦になろう。
END