幸いなるかな
モルドールの滅亡後、北イシリアンで暮らすようになったレゴラスの元に、友人が訪ねてきた。
以前は中つ国中を歩きまわっていた友だが、冥王が滅びた後、自由に出歩けない地位に就いた。以前はどこに居るのかつかめないために会うことが難しかったが、今度は居場所がわかっていても気軽に会えない状態になった。
それでもまだ、レゴラスが彼を訪ねるのは比較的容易だ。その逆、彼がレゴラスの元を訪ねることは簡単ではない。だから、彼が訪ねてきたときはとっておきのお茶や、秘蔵の葡萄酒でもてなすことに決めている。
「うまいな」
暖炉の前の敷物に腰を下ろし、クッションにもたれた人間の王エレスサール——アラゴルンは傾けた酒杯に満足そうな息を吐いた。
「城で飲むのもうまいが、ここのは格別だ」
「まあね。森の王国から持ってきたから」
父のスランドゥイルは大の葡萄酒好きで宴会好き、ついでに宝石好きである。うましもの、きれいなものに目がないのは——方向性は異なるが——血のせいかもしれないと、レゴラスは青灰色の瞳の麗人を眺めた。
「スランドゥイル王はお元気か?」
「うん、相変わらず」
「それはよかった」
“相変わらず”の内容は訊かずとも察しがついたのだろう、アラゴルンはただ笑った。
「父のことはいいからさ、君のほうはどうなの?」
「どう、とは?」
アラゴルンの顔が軽く斜めに傾いた。
「君がこの前、ここに来たのは夏だったよね」
そう、この前、彼が訪ねてきたのは、ブナの葉が青々としていた夏だった。今、ブナの木はすっかり葉を落としている。基本的に永遠の命を持つエルフにとって、半年足らずの時は“久しぶり”どころか、“しばらくの間”にも入らない。
だが、人の子にとっては相当の日数という感覚になるらしい。だから、その“久しぶり”の間の変化を聞いてみたくなったのだ。
「僕が白の都へ行ったのも秋のはじめだったし……、これぐらい会わないのを人の子は“久しぶり”って言うでしょ。だからさ、最近の調子はどうかと、訊いてみたくなったんだよ。ほら、君たちは何ヶ月か会わないと相手の事情を尋ねるじゃないか」
「そういうことか」
人の子の真似事をするエルフにアラゴルンは笑い、それから「そうだな……」と、考えるように首を少し傾げた。堅物の智恵者に育てられた人の子は生真面目だ。気まぐれな問いかけにも、きちんと返事をしてくれるつもりらしい。
「今年は、そうだな——」
実りの季節を超えたからか、一年を総括するような言葉で話しはじめた。
「ほら、夏に南の方が嵐に見舞われただろう。だから農作物への影響を心配していたんだが……他で大きな天候の荒れがなかったおかげで、全般的に作物の出来は良好らしい。嵐に遭った地域も、他からまわす分で冬は越せそうだと聞いた。それで安心したところだ。
——それと、葡萄酒の出来も良くてな、新酒を幾つか試したが、うまかった。ここの葡萄酒には敵わないが、寝かせればいい味になると思う。来年以降が楽しみだ。次に来るとき持ってこよう。実りをきちんと味わえるようになると、ゴンドールが復興の道を歩んでいることを実感する。南イシリアンにも人が増えたとファラミアが喜んでいたし……問題はあるが、良い方向へ進めていると思う。
——アルノールの再建計画も進めている。まあ、南のように“国”として残らなかったから、先の長い話になるが……。けれど、少しずつ良くなっているという報告が入っている。報告に立ち寄る野伏が口を揃えて、みんなの顔が明るくなったと言うんだ。そう言う野伏の顔も明るいから、わたしも元気づけられる。
——そうだ、北と言えば、この間、サムから手紙が届いたんだ。黒スグリのジャムと長窪葉も一緒に。長窪葉はメリーとピピンからのお裾分けらしいが。ならず者に荒らされたホビット庄も、今はすっかり落ち着いたらしい。みんな元気だと書いてあった。あと、昨日、エオメル殿からも手紙が届いてな、ローハンも今年は天候がまずまずで……」
「あのさぁ、エステル」
滔々と続く話をレゴラスは遮った。
「ゴンドールとアルノール、ローハンやホビット庄の状況が良いのは、僕もうれしいよ。サムにメリーにピピン、ローハン王が元気なのもね。けど、僕が訊いたのはそういうことじゃない」
きょとんとしている顔に指を突きつけ、レゴラスは言った。
「君自身のことだよ。最近どうなの?」
「わたし?」
青灰色の瞳がまたたき、こくりと首が傾く。その肩で黒髪が揺れた。
「わたしは幸せだよ。それに元気だ」
見てのとおり、というように腕を広げる。ある意味、非常に彼らしい反応だった。レゴラスは深々とため息を吐いた。
「まあ、君らしい答えだよね……」
「気に入らなさそうだな」
「気に入らない、わけじゃないけどさ……」
「なんだ?」
「君、自分が不幸だと思ったこと、ないでしょ?」
図星でしょ、と訊けば、いささかムッとした声が返ってきた。
「当たり前だろう。二国を統べる王位に就いて、望んだとおりの妃を迎えて、理解ある仲間や臣下がいて……、それで不幸だと言えるか」
「今はそうだけど、これまでは? 苦しいときもあったでしょ」
今や大国の王となり、多くの者にかしずかれている彼だが、その半生は平穏とは程遠いものだった。旅に明け暮れ、闇の勢力との戦いに精力を注いだ。幾度となく生命の危機に見舞われている。
しかし、守っているはずの人間たちには、荒野をさすらう姿を警戒され、蔑称で呼ばれていた。もっとも、彼はその呼び名を——クウェンヤに訳したとはいえ——王朝名にしてしまったぐらいだから、気にしていないのだろうけど。
「苦しいから即不幸というものでもないだろう。苦しい中にも救いはある。少なくともわたしは、労苦と不幸を同義だとは思わない」
「まあ、そうだけど……」
きっぱりとした返事にレゴラスは苦笑した。確かに彼の言うとおり、労苦と不幸は似ているようで違うものだ。だが、苦しみが多ければ幸福感は薄れる。蔑まれれば心は傷つく。それはエルフでも人間でも、ドワーフでもホビットでもエントでも……同じだろう、おそらく。
だが、この西方人の末裔はそういったことに恐ろしいほど無頓着だ。いや、他者の苦しみや傷には敏いぐらいの気遣いを見せる。だが、自身の苦しみや傷には、気づいていないのではないかと思うほど鈍い。傷つかないのではない。たとえるなら、大量の血を流しているのに、立ち止まることもせず歩き続けているような感じだ。傍から見ていると痛々しいことこの上ない。
「レゴラス。いったい何が言いたい?」
「う〜ん……生い立ちについてはどう? けっこう悩んだ時期があったんじゃない?」
鈍い彼もエルフに囲まれて成長するうち、自分と母親だけが人間という状況に、拭いようのない違和感を感じていたらしい。そして、裂け谷を出てからは、人と感覚がズレている現実に突き当たったという。そのズレの違いは今でも消え去っていないらしい。まあ、現在は“違いを楽しむ”域にまで達してしまったらしいが……。
「それは否定しないが……」
アラゴルンは苦笑した。
「今はそれも良い経験だったと思っている。裂け谷での暮らしも、野伏の村での生活も、士官したことも、旅をしたことも……今は良い思い出だ。確かに苦しいときもあったが、無ければ良かったとは思わない」
強がりでも、自分に言い聞かせるふうでもない、ごく自然な語り口の言葉は、おそらく本心から出たものだろう。傷に鈍そうなのは相変わらずだが、暗い顔で未来を憂えていたことを思えば良い変化だと言えよう。
だが、その変化のあまりの大きさに呆れてしまう。これが、ついこの間まで、先祖の犯した罪に負い目を感じ、ドゥネダインの長としての責任も果たし切れていないと悩んでいた人物かと。
「君って、そんなに前向きだったっけ」
レゴラスの呟きに、青灰色の目がぱちぱちと二、三度しばたたいた。が、すぐに、その瞳にいたずらっぽい光が宿った。
「緑葉の王子にひとつ教えて進ぜよう」
「何?」
「人はな、短い期間で変わるんだ」
にや、と笑った表情には、老獪さすら感じられた。以前は見られなかった表情だ。ほんの僅かな期間にこうも変わるなんて——。
「……可愛くない」
ツンと顎先を上げると、人の子は明るい声を立てて笑った。軽く睨んでやると口を閉じたが、その肩は小刻みに震えて止まらない。おもしろくない気分で眺めていたレゴラスだったが、やがて息を吐いた。
——まあ、いいか……。
自分の生き死にが一族の命運に係わると、悲壮感漂う決意を胸に、無理矢理前を見ていたような痛々しい姿を思えば、こうして笑えるようになったのは喜ばしいことだ。王位に就いた今は、一族の命運よりも大きなものを背負っているはずだ。けれど、以前のような切迫感はない。いい具合に肩の力が抜けたのだろう。
——ちょっと余裕を持ち過ぎな気もするけど。
この愛すべき人の子が幸せだと笑っていられるなら、それが一番だ。
——君の世に幸いと弥栄のあらんことを。
レゴラスは手にしていた酒杯を軽く掲げた。
END