初雪の幻影
ミナス・ティリスの最上層、後宮へ向かうファラミアのマントの裾を冷たい風がはためかせた。空を見上げれば、エクセリオンの塔に触れそうなほど、雲が低く垂れ込めている。黄みを帯びた暗い雲を眺め、ゴンドールの執政はそっと息を吐いた。
——雪が降りそうだな。
吐息が白いもやとなって漂う。今夜は冷え込みそうだと思いながら、庭に足を踏み入れれば、暗雲を吹き飛ばしそうな明るい子供の笑い声が聞こえてきた。この国の王子エルダリオンの声だ。
「こら、そっちはだめだ」
甲高いはしゃぎ声を追いかける低い声はエルダリオンの父、ゴンドールの王エレスサールのものだ。善政を敷く大国の王も、我が子のこととなると“鮮やかな手腕”とはいかないらしい。そんな主君の姿は微笑ましく、自然とファラミアの口許を綻ばせるひとつになっていた。
はしゃぎ声と共に軽い足音も聞こえる。小さな王子はかなりご機嫌らしい。自分が姿を見せたら、一気に下降しそうだ——と、苦笑しながら庭を進むファラミアの目の端を、白いものがひらりと落ちていった。
「あっ、ちちうえ、ゆきっ!」
灌木の陰から弾けた声が上がった。葉を落とした木々の合間から、エレスサールの横顔が見えた。
「降ってきたな」
「ゆき!」
小さな姿がぴょこんと飛び跳ねた。はらはらと舞い落ちる雪を追いかけるように、上を向いて敷石の上をくるくると回っている。本人は楽しいのだろうが、端から見ていると転びそうで危なっかしい。同じことを危惧したのか、エレスサールが小さな王子を抱き上げた。
「うれしいか?」
「うん」
「だが、雪はうれしいことばかりでもない。ミナス・ティリスのように坂の多い街では、雪が積もって凍れば、滑って危ない」
エレスサールが為政者の教育らしく、諭すように言った。もっとも、いくらエルダリオンが利発でも、三歳でそんなことを理解できるはずもない。きょとんと首を傾げた。
「あぶない?」
「ああ」
「でも、きれい」
次から次へと落ちてくる雪を見つめる幼子の目は、好奇心いっぱいに輝いている。
ミナス・ティリスでは、雪は毎冬決まって降るものではない。降らない冬もあるぐらいで、どちらかと言えば珍しい天気と言える。子供なら“雪の害”を思うより、興味が先立つのが自然だろう。エレスサールも「そうだな」と、苦笑交じりに頷いた。そんな彼の黒髪にも雪はうっすらと積もり、白くまだらに染めていく。
「けっこう降ってきたな。中に入ろう」
エルダリオンの髪や肩に積もった雪を払い、エレスサールは回廊へ歩き出した。ファラミアもすぐそばの回廊へ向かう。
「えー」
エレスサールの腕の中から不満そうな声が上がった。
「えーって、お前、寒いだろう? いつまでも外にいたら風邪を引くぞ。それに——」
屋根の下に入ったエレスサールが、さも当然といった具合でファラミアを振り返り、「わたしに迎えが来た」と言った。声をかけなかったのに、気配に敏い主はとっくに気づいていたらしい。
王の腕に抱かれているエルダリオンがこちらを見た。両親によく似た青い瞳に残念そうな色が浮かぶ。
ファラミアが軽く一礼すると、幼子は唇を引き結んだ顔で頷きを返してきた。予想どおり、王子の機嫌は急降下したようだ。
「ほら、そろそろお茶の時間だろ」
エレスサールがエルダリオンを回廊に下ろす。折り良く、建物の中から「エルダリオン様」と呼ぶ女官の声が聞こえてきた。
「お前にも迎えが来た」
エレスサールが小さな王子の頭をくしゃりと撫でる。淋しそうな表情を浮かべたエルダリオンだったが、女官に手を引かれると素直に歩き出し、扉の向こうに消えた。
「——待たせたな」
エルダリオンを見送ると、エレスサールはくるりと踵を返し、足早にファラミアのほうへやって来た。
「殿下も陛下と同じく、雪がお好きなようですね」
エレスサールの故郷は北方だ。ミナス・ティリスと違い、冬になれば当然のように雪が降り積もる寒冷な気候の土地である。小さな王子のようにはしゃぎはしないが、彼もまた、雪が降ると感慨深げに空を見上げる。傍らで見ているファラミアが切なくなるような表情で——。
しかし、無遠慮な臣下のからかいに、エレスサールは自嘲気味の笑みを浮かべて首を振った。
「わたしのは“好き”とは違う。ただの郷愁……、言ってみれば懐旧の念だよ」
ただの懐旧——けれど、そうやってあなたが懐かしむ対象すら羨ましいと言ったら、この人はどんな顔をするだろう。ほら、今もファラミアの隣で足を止め、白い欠片を落とす空を見上げている。
「ゴンドールで雪が降るようでは、北はもっと冷え込んでいるかもしれないな」
再び歩き出したエレスサールが、白い息を吐きながら言った。
「その北——アルノールから陛下に……」
ファラミアは懐から封書を取り出した。受け取ったエレスサールが「何か変事でも?」と問うように首を傾げた。
「何も……、特には聞いておりません。ですが、緊急のようでしたので」
北方の野伏たち——かつての北方王国を支えていた末裔——と、その長だったエレスサールとの間には、部外者が入り込めない絆がある。それはエレスサールが戴冠してから数十年を経た今でも続いている。少なくともファラミアはそう感じていた。
封書を見つめ、僅かに眉を顰めたエレスサールだったが、さすがにこの場で開くことはせず、懐にしまい込んだ。
「急ごう」
短く言って足を速める。後を追おうとしたファラミアの視界を、風にはためいたエレスサールのマントが覆った。突風で回廊に雪が吹き込み、景色がかすむ。かすんだ景色の中、ファラミアが見たのは——、
フードをかぶり、黒っぽいマントに弓矢を背負った野伏の後ろ姿だった。
——あれは……。
息を呑む間にまた強い風に煽られた。
「ファラミア?」
訝しげな顔で振り返ったのは粗末なマントの野伏ではなく、襟を毛皮で縁取った豪奢なマントの王だった。けれど、ファラミアは確信した。一瞬で掻き消えたあの野伏が、戴冠前のエレスサールの姿だったのだろうと。
そうしてフッと息を吐き出す。確かに自分は、彼が懐かしむ時代には共にいられなかった。だが、未来は共に歩める。彼の即位以降、共に歩んできたように。それは素晴らしいことではないか。
「ファラミア、どうした?」
雪まじりの風に吹かれて突っ立っている臣下を、エレスサールが心配そうに窺っている。
「なんでもありません」
ファラミアは肩に降り積もった雪とともに、垣間見た幻を振り払うように首を振って駆け出した。
END