光
林の中をオークたちがうろついている。
「囲まれたな」
アラソルンはひっそりと呟いた。
裂け谷の双子と共に狩りに出て数日後、負傷した数人が別れて裂け谷へ引き揚げることになった。昼間休息を取り、陽が落ちてから歩き出したところ、運悪く新たなオークの群れと遭遇してしまった。開けた草地から身を隠せる林へと逃げ込んだが、それで諦める連中ではない。しつこく林の中を捜している。
「多いですね」
「100はいるでしょうか」
まだ、場所を気取られてはいないが、近くに隠れていることはわかっているだろう。見つかるのは時間の問題である。
「わたしが出る」
「族長?!」
「わたしが囮になる。お前たちは左に迂回して川伝いに行け。裂け谷には遠くなるが、エルロヒアとエルラダンには合流できる」
「何を言うんです!」
「あなたを置いていけるわけないでしょう」
たちまち、声を抑えた抗議が起こった。
「お前たちこそ何を言ってる。全員怪我人の上、重傷者がいるんだぞ。ぐずぐずしていたら手遅れになる」
ほとんどは急を要する傷ではないが、オークの盾で足を折られ、自力で歩けない者が一人いた。骨折が原因で発熱もしている。この場の全員を持ってしても、彼を守りながら戦うことは無理だ。
「しかし……」
「ここで全員討ち死にする気か。わたしはまっぴらだ」
「それなら、わたしが囮に」
「お前、その足でオーク相手に勝てると思うのか」
アラソルンは足に傷を負った野伏を振り返った。自力で歩いているが、充分に走れるような浅い傷ではない。
「この中で一番傷が軽いのはわたしだ。だから出る。それだけのことだ」
「ですが、長であるあなたを囮にして逃げるなど出来ませぬ」
「じゃあ、救援を連れて助けに来い」
アラソルンはわざと明るい口調で言った。
「急いで裂け谷の双子を呼んできてくれ」
救援が早ければわたしも助かる、と笑うと男たちは押し黙った。
「心配するな。わたしは生きて戻る。帰りを待ってる坊主がいるんだからな」
そう言うと、傍らの男の口許が綻び、“坊主”の名前が呟かれた。
「ああ、アラゴルン様」
幼子の名前が出た途端、ピリピリしていた場の空気がやわらいだ。
「族長がお帰りになると、外に飛び出してらっしゃいますな」
気難しいと評判の年長者が頬を緩める。
「転びそうな勢いで……、見ているこちらがハラハラします」
これまた、ひとクセある者が目を細めた。
——大したものだ。
あの坊主ときたら、たった二歳で野伏たちの心を掌握してしまった。今はそんなことを悠長に話していられる時ではないのだが……。アラソルンは苦笑した。
しかし、悪い気はしないのだから、自分も相当親ばかである。それに、妙にピリピリしているより、これくらいの方が仲間の調子が出るのも確かだ。アラソルンは乗ることにした。
「そうだ。真っ先に出迎えてくれるぞ。『ちちうえ〜』ってな」
「耳がよろしいんですな」
「そうそう。族長の声が聞こえると走っていかれると、郷の者が話しておりました」
ひそやかな笑いが起こった。
「帰ったら馬に乗せてやる約束をしているんだ」
自慢げに言うと、一人が心配そうな顔になった。
「それはまだお早いのでは。何かあっては……」
「大丈夫だ。馬のほうもあいつを気に入ってる。だいたい、お前。わたしが乗せるのに、なんでそんな心配をするんだ。さては、わたしを信用してないな」
「族長は、時々無茶をなさいますから」
「なんだと」
じろりと睨んだところへ、仲裁が入った。
「まあまあ。とにかくアラゴルン様との約束のためにも、族長には無事お帰りいただかねば」
「もちろんだ。だが、帰るときはお前たちも一緒だ。一人でも多く仲間を連れて帰るのも長の役目だろう。わたし一人だけで帰るのは、寂しいではないか」
「では、寂しがりやの長のためにも、我々は迂回して救援を呼ぶことにいたしましょう」
年長者が決定を下した。
「そうしてくれ」
「急ぎますから、持ち堪えてくださいよ」
「頼む」
アラソルンは仲間から離れ、木の陰から飛び出した。
◆◇◆◇◆◇◆
一晩かけて林の中を駆け回った。見上げた木々の間の空が、淡い藍色に変化し始める。
——夜明けが近い。
陽が昇ればオークは去る。もう少しの辛抱だと思ったとき、
「族長!」
自分を呼ぶ声がした。
「アラソルン様!」
「ここだ!」
答えた途端、すぐそばでヒュッと風の鳴る音がした。身を寄せている木の幹に、乾いた音を立てて矢が突き刺さる。声で居場所が知れたのだ。慌てて場所を移動する。
「ご無事ですか!」
駆け寄ってくる声に、少数のオークが走っていく。
「気をつけろっ!」
思わず叫ぶと、また近くで矢が風を切る音がした。これでは下手に声を出せない。狙い撃ちにされてしまう。身を伏せながら、木の陰から陰へ、自分を呼んでいた声の方向に移動する。
「族長!」
再び呼ばれて、控え目に答えてみた。
「こっちだ」
今度は、矢は飛んでこなかった。代わりに——
「グアァァ!」
木の陰からオークが飛び出してきた。肩に打ち込み胴をなぎ払ったところへ、次が背後から斬りかかってきた。柄を逆手に、剣を後ろに突き出す。
「ギャアァァ!」
はた迷惑な奇声を発して倒れた。すぐさま駆け出そうとしたが、叫び声を聞きつけた連中にたちまち群がられ、退路を塞がれてしまった。
——仕方ない。
剣を構えて突っ込んだ。
——いち、に、さん……
打ち込み、蹴り飛ばし、なぎ払い、殴って、斬り倒す……
——四、五……、六……
残るは右手にいるヤツのみ、と思ったとき——、
ヒュン……。
風を切る音に思わず身を伏せる。だが、倒れたのはオークだった。眉間に突き立っていたのはエルフの矢。振り返れば、裂け谷の双子の一人が斜面の上に立っていた。その隣には野伏の姿も見える。
——助かった。
駆け寄ろうと立ち上がった途端——、
バシッ!
顔に凄まじい衝撃を感じた。頭が仰け反り、膝をつく。
——なんだ……?
灼けつくような痛みに顔を触ると、目の辺りから細い棒が生えていた。
——矢が……刺さったのか……?!
「族長ォ!」
叫び声に顔を上げたが、何も見えない。両目ともやられたのだろうか。必死に目を開けようと数度試みると、ぼんやりと林の風景が映った。駆け寄ってくる人影もぼんやりと頼りない。聞こえる声はなぜか遠く、途切れがちだった。
ウワァーンと耳鳴りのような音が聞こえ、身体が傾いだ。おぼろに映っていた木の幹の風景が、木々の間に覗く藍色の空に変わった。灼熱の痛みも薄れていく。どうやら——、
帰れそうにないらしい。
「ギル……ライン」
歳若い妻の顔が、木々の間に見える空に浮かんで消えた。夜明け間近の空の色が、幼子の瞳の色に重なる。
——ちちうえー。
なぜか、はっきりと幼子の声が聞こえた。
「アラ……ゴルン」
景色が揺らぐ中、幼子の姿は鮮明になった。頼りない足音まで聞こえてくる。いつも、駆け寄ってきたところを抱き上げていた。高く抱き上げると、はしゃいで明るい笑い声を立てた。
——アラゴルン。
もう、お前を抱き上げてやれない。けれど——
祈っている。お前の笑顔が失われることがないように。お前の未来が、お前の愛せる日々であるように——。
明るい光に包まれていた幼子の姿が急速に翳ってゆく。まるで、子供の行く末を影が覆うような不吉さで……。
「ア……ラゴ……ン」
——どうか光を……。
エアレンディルよ。その光で導いてください。
どんなときも失うことのない光を、あの子に……。
END