独り占め
西に傾いた太陽が景色を薔薇色に染め、夏草が茂る大地には騎馬の影が長く伸びている。
ローハン軍との合同演習へ出かけていたゴンドールの白の塔の大将ボロミアは、昼間の熱気が残った風に吹かれながらミナス・ティリスの大門をくぐった。
◆◇◆◇◆◇◆
「お帰りなさい。兄上」
執務室に向かったボロミアを出迎えてくれたのは、弟で執政を務めるファラミアだった。本来なら大将のボロミアが執政閣下の執務室へあいさつに足を運ぶべきなのだが、ファラミアは「帰城のあいさつは陛下のみで十分でしょう」と公言してはばからない。王権を強固なものにしたいと望む執政は、己の権威が高まるようなことは避けたいらしい。
「いかがでした? 演習は」
「ローハンは騎馬の機動力を活かした小規模な部隊を幾つか創設したそうだ。演習で彼らの姿も見た。なかなか良い動きをしていた。実際に役立つかはまだわからぬが……、とりあえず、演習の間は賊の動きはなかった」
「そうですか。ひとまず、賊への牽制は成功……でしょうかね」
「さあな。軍事演習のそばで事を起こす無謀さは持ち合わせていないとわかったが……」
今回の演習の目的は、ローハン谷近辺に現れる賊への牽制だった。
北方王国アルノールの再建が本格的にはじまり、廃れていた街道に人の往来が戻ってくると、それに惹かれたように盗賊が跋扈しはじめた。ローハン軍と北方の野伏たちの働きで大きな被害は出ていないものの、賊の動きが沈静化する気配もなかった。そこでローハンとゴンドールの両軍で、盗賊討伐を想定した演習を行ってはどうかという話が出てきた。盗賊どもに「これ以上荒らすとローハンとゴンドールの軍が討伐するぞ」と知らしめる、いわば示威行為だった。
演習が狙いどおりの効果を発揮するかの判定は、今後の成り行き次第である。軍が立ち去ったらまた活発に動くかもしれず、油断はできない。
「それにしても、ローハンと比べるとこちらは暑いな」
ボロミアはマントを脱いで言った。
草原の国ローハンは白の山脈をはさんだ北側にある。北に位置するといっても隣国であり、あまり変わらないと思っていたが、ペレンノール野の風に感じた熱気はあちらの草原の風にはなかった。
「一ヶ月空けていると、季節にも取り残されたように感じる」
篭手を外しながら言ったボロミアに、ファラミアは穏やかに笑んで答えた。
「暑くなったのはここ数日ですよ」
「そうなのか」
「ええ。急に暑くなったので、体調を崩した官吏もいます」
ファラミアの言葉にボロミアは眉を寄せた。北方の出身ゆえ、暑さに弱い主君の顔がよぎる。
「陛下はお元気か?」
「はい」と答えたファラミアだったが、すぐ後に「今のところは」と付け足した。
「侍従長と料理長の話では、召し上がる量が減ったそうです」
「そうか……」
夏が苦手なアラゴルンは毎年暑さが厳しくなる折、食が細くなるのだ。本人はあまり深刻にとらえていないが、仕える者としては気を揉む出来事だった。
「ですが、今日の夕食は楽しみだと仰せでしたよ。『ボロミアと一緒だから』と」
「……そ、そうか」
返事をしながら、ボロミアは頬が熱くなるのがわかった。
ファラミアの言うとおり、帰還した日の夕食をアラゴルンと一緒に取る約束をしていた。ボロミアが楽しみにして帰ってきたのは言うまでもないが、こうして人伝(ひとづて)にアラゴルンの気持ちを聞かされると気恥ずかしくなってしまう。それも暑さで食欲を失いがちの彼が、ボロミアの同席を理由に食事を楽しみだと言ってくれているのだと思うと、うれしさで舞い上がってしまいそうだ。
——こんなことではいかん。
モルドールの脅威があった頃、国事に専念したいからと敢えて色恋から距離を置いた生活を送ってきた。そのせいで、いい歳だというのに想い人の言葉ひとつで一喜一憂してしまう。
——小娘でもあるまいに。
ボロミアはぴしゃりと頬を叩いて、表情を引き締めた。
「陛下が楽しみにしてくださってるなら、支度を急がねばな……」
「そうしてください。旅の汚れを落としてさっぱりするといいでしょう。湯の支度はできていますから、どうぞ」
万事心得た調子で、出来の良い弟は微笑んだ。
「そうか、礼を言う」
ファラミアに感謝の言葉を述べ、ボロミアは湯殿に向かった。
◆◇◆◇◆◇◆
湯を使い、衣服を改めたボロミアが侍従に案内されたのは、いつもどおりの王の執務室ではなく、北棟から張り出した露台だった。隅で焚かれたかがり火が、手すりにもたれて杯を揺らす細身の影を浮かび上がらせている。
「やあ、おかえり」
振り返った痩身の貴人はボロミアを見て、青灰色の目を細めた。
「演習は上々だったようだな、ボロミア。よくやってくれた」
淡い水色のシャツに、薄地の黒い上着が風にはためく。風に煽られて揺れ動く衣服が、主君の体の線を描き出しているようで、ボロミアは思わず目を逸らした。
「あ、はい、ローハン軍との連携もよく取れて……」
内心のドギマギを誤魔化すように、口を付いて出たのは事務的な報告だった。なんと色気のないことだろう。もう少し気の利いたことを言えないのか。我ながら情けなくなって俯いたボロミアの頬を、すっとアラゴルンの指がかすめた。
「報告書を楽しみにしている。ともかく、中へ入ろう」
そう言って部屋へ向かう主君の後ろ姿は、暑さのせいか高めに髪が結い上げられ、普段は目に触れない白いうなじが見えていて、またボロミアをドキリとさせた。
露台に面した部屋にはランプを置いたテーブルが用意されていた。侍従に椅子を引かれ、促されるままボロミアは腰を下ろした。
「お飲み物はいかがなさいますか」
給仕の問いかけに、アラゴルンは手にしていた杯をゆらゆら振って見せた。玻璃の中で細かな泡が立ち上っているところを見ると、微発泡の酒らしい。
「わたしはこのままでいいよ」
「かしこまりました」
「ボロミア様はいかがなさいます?」
「……そうだな、ロスサールナッハの白を」
「かしこまりました」
程なくして、ボロミアが頼んだ飲み物と共に前菜が運ばれてきた。
「鶏肉のパテ、夏野菜添えでございます」
「うまそうだな」
アラゴルンの声にボロミアは顔を上げた。食欲が減退気味の主君が「うまそうだ」と食べる気になってくれたのなら喜ばしいことである。顔色も良いようで、ボロミアはほっと安堵の息を吐いた。
「乾杯しよう」
アラゴルンが杯を目の高さに持ち上げた。
「演習の無事終了と大将閣下の帰還に」
主に倣ってボロミアも杯を持ち上げた。
「陛下の健康に」
そう言うと、アラゴルンの口許に淡い笑みが浮かんだ。
「乾杯」
カチリと杯が合わさる。口を付けた葡萄酒はよく冷えており、湯上がりの喉に心地良かった。杯を空けてカトラリーを手に取る。切り分けた鶏肉のパテに夏野菜を添えて口に運ぶ。食欲減退気味の主君の胃腸を慮ってだろうか、やさしい味わいだった。
「ジャガイモの冷製スープでございます」
前菜を食べ終える頃、スープとパンが運ばれてきた。冷製になっているのは、やはり暑さで食が細くなる主への配慮なのだろう。
その後も料理は白身魚のソテー、仔牛のローストとタイミングよく運ばれてきた。アラゴルンの皿のほうが量が少ないのは気がかりであったが、穏やかな笑みを浮かべ料理を楽しんでいる様子を見る限り、深刻になることもないかと思った。
アラゴルンに操られた銀のナイフがローストされた肉を切り裂く。フォークに刺さった肉が薄い唇の向こうへ消える瞬間、ちらりと赤い舌が見えた。何度か頬が咀嚼する動きをした後、アラゴルンの喉がびくりと動いた。それを見て、ボロミアはごくりと唾を飲み込んだ。料理ではなく、アラゴルンの仕草に食ではない欲求を刺激されている。じっとアラゴルンが仔牛のローストを口に運ぶ姿を見ていると、不意に青灰色の目がこちらを向いた。
「ボロミア?」
アラゴルンが不思議そうに小首を傾げる。
「どうした? 食べないのか?」
「え? い、いや……なんでもない」
ボロミアは慌てて首を振り、ローストにナイフを入れた。いつの間にか手が止まっていたらしい。切り分けた肉を口に運ぶ際、ちらりと向かいを見遣れば、穏やかに細められた青灰色の目がこちらを見ていた。こうした柔らかな笑み一つにも、ボロミアの心臓はどきりと跳ねる。
「う、うまいですな!」
動揺を誤魔化すように、ボロミアは大声でローストの感想を言った。
「そうか。大将殿が気に入ったなら、料理長も喜ぶだろう」
アラゴルンがにこりと笑った。
「いや、わたしより、陛下がお気に召したほうが喜ぶと思いますぞ」
「そうでもない。うまいと言ったら、切なげな顔をされた」
アラゴルンが自嘲するように笑った。
「切なげ?」
ボロミアは目をしばたたいた。主君が誉めたのに切なげとはどういうことか、不可解である。
「うまいと言ったら、『でしたら、もっと召し上がってください』と切なげに言われてしまってな……。わたしとしてはちゃんと食べているつもりなんだが……」
アラゴルンの口許に微苦笑が浮かんだ。
「それはあなたの身を案じてのことだろう。召し上がる量が減ったと聞いたぞ」
「そんなに減っているかな? 自分ではそんなつもりはないんだが……」
アラゴルンがこくりと首を傾げた。
「あなたは元々痩せ気味だから、少し食が細るだけでも周囲は心配になるんだ」
そもそも、主君の食が細くなったら、仕える者が心配するのは当たり前だ。
「わたしは平気なんだが……まあ、皆に心配をかけるのは本意じゃない。食べるようにするよ」
「そうしてくださるなら、わたしも安心だ」
「今日はなんだかいつもより食べられる気がするよ。あんたが一緒だからだな」
そう言って、アラゴルンはうれしげに目を細めた。
「それは光栄ですな」
食卓を共にして食が進む相手というのは、やはり好感を抱く相手だろう。それも、懐に入れた者には基本的に好意を抱くアラゴルンが、わざわざ食が進むと言明するくらいだ。きっとそれは特別な感情――と思っただけで、ボロミアの頬は熱くなった。
「あなたの食が進むなら、いつでも御相伴にあずかりますぞ」
「ありがとう。ボロミア」
アラゴルンの顔にふわりとやさしい笑みが浮かんだ。
「しかし、人気者の大将殿をわたしが独り占めしてしまっては申し訳ない。今までどおりでいいよ」
「そのようなこと……あなたは王ではないか。お気になさるな」
主君の望みを叶えるのが臣下の務めだ。それが人の道に反するようなことなら批判もあろうが、食事を共にしたいというささやかな望みにあれこれ言う者がいるとは思えない。どちらかと言えば、ボロミアのほうが文句を言われるのではないかと思う——大将閣下ばかり、陛下と食事してずるいと。
「いやいや、王だからこそ、私的な感情で人を動かすことは控えなければ」
アラゴルンが生真面目に言った。
「それはそうだが……」
「とりあえず今夜、あんたを独り占めできるんだ。わたしはそれで満足だよ」
——できればもっと……。
ローストを口に放り込みながら、ボロミアは思った。満足だなんて言わずに、独り占めしたいと思ってくれないだろうか。ボロミアとしてはもっと独り占めされたい、そう思っているのだから。
END