一夜草
白い帆が風をはらみ、櫂が碧き水を掻く。ローハンの若き王エオメルが乗る船は、ゴンドールの東を流れるアンドゥインを上っていた。川岸の眺めはまだ緑の色が乏しい。そうした風景の中、上流に白い街並みが見えてきたのは午をいくらか過ぎた頃だったか。
オスギリアス——シンダリンというエルフの言葉で“星の砦”という意味なのだと、青灰色の瞳を持つこの国の王がやわらかな声で教えてくれた。かつてはゴンドールの王都だったと、これは義弟となったゴンドールの顕官から聞いた。
モルドールが勢力を拡大する中、都は守護の塔に移り、安全を脅かされるようになった星の砦はついに廃墟となった。それも冥王の滅亡後、復興作業が進められ、街には人々が戻っている。友邦の民が笑顔でいられることは、素直にうれしいことだった。その王が敬愛すべき人ならば、なおさら——。
——お会いできぬのが残念だな。
エオメルの脳裏に黒髪の麗人の姿が浮かぶ。今回のゴンドール訪問は、舅であるドル・アムロスの大公イムラヒルの招きによるものだった。それゆえ、滞在日数の多くはドル・アムロスに費やされ、王都ミナス・ティリスには二泊しただけだった。
ゴンドール王へ訪問のあいさつをし、晩餐も共にした。その後、ゆっくりと言葉を交わす時間も得た。しかし、帰路はミナス・ティリスに立ち寄らない。かの人の顔を見ることができない。白の都を間近にしながら……。
——次にお会いできるのはいつだろうか。
近いうちにエドラスで会おうと話したが……。国王の予定はそうそう自由の利くものではない。近日中にと調整しても、軽くひと月後なんてことが茶飯事だ。
——できれば一目なりとも……。
叶わぬ望みが遡る水面に愛しい人の笑みを映して見せる。会えないと思い知るほど、焦がれる気持ちが強くなる。
「ふうっ……」
思わず、ため息が漏れた。そこへ「殿」と声をかけられ、流れに浮かんでいた想い人の笑顔はかき消えた。
「オスギリアスでの予定ですが——」
顔を上げれば、壮麗な街が間近に迫っていた。巨大な街の姿は既に視界に入り切らなくなっている。港には多くの船が停まり、埠頭では荷の積み下ろしがされていた。ずいぶん賑わっているようだ。その賑わいを眺めながら、エオメルは随行者の一人から念押すように告げられる予定を聞いた。
「——以上です」
「わかった」
船は水先案内人の小舟に誘導され、やがて埠頭に横付けされた。接岸とともに船から縄が投げられる。埠頭で縄を受け取った者が船を繋ぎ止めるより先に、エオメルは岸へ飛び降りていた。
「殿っ……!」
慌てた声が背後で上がった。
「お待ちください!」
振り返れば、先程予定を告げた男が、エオメルと同じように飛び降りてくるところだった。
「勝手をされては困ります」
思い切り眉を寄せた顔で言われ、エオメルは口をゆがめた。他出を重ねるごとに、随行者が口うるさくなった。外遊の度、周囲の目を盗んでは姿をくらましてきたのだから、自業自得ではあるが……。
「船を下りただけだろう」
どこにも行かぬと、エオメルは肩をそびやかした。
「普通になさってください」
「つまらん奴だな」
自分より若い者に年寄りじみたことを言われ、エオメルは憮然とした。勇猛果敢なエオルの家の子が、船から岸に飛び移ったぐらいのことに眉を顰め、ぐだぐだと説教をするなど……。これではまるで、
——石の国の民ではないか……。
ため息を吐き、見比べるように周囲の石の国の民を見まわす。その目がある姿を捉えた。灰色のマントをまとった人物が建物の脇にひっそりと立っている。なんてことのない旅人の姿だ。なのに、目が釘付けとなった。心の臓がばくんと高い音を立てる。脳裏にひとつの名がよぎった。
——アラゴルン……殿。
フードをかぶっているのに、なぜわかったのか。マントを羽織っていても、どこかしら線の細さが出ていたからだろうか。理由などわからない。けれど、見た瞬間、彼だと確信した。
「……ルン殿!」
足が自然に駆け出していた。途端、灰色マントの人物が身を翻す。
「お待ちください!」
叫んだが、灰色のマントは建物の陰に隠れてしまった。
「ちっ……」
思わず舌打ちが漏れる。足を速めて建物の陰に飛び込めば——、
「ウオッ!」
灰色の塊とぶつかりそうになった。身を仰け反らせ、バランスを失ったエオメルの腕を、灰色のマントの人物がやさしくつかむ。
「見つかってしまったな」
灰色のフードの下、薄い唇が笑みを形づくった。
「マークの王は目敏い」
はらりとフードが肩に落とされ、淡い青色の瞳が現れる。
「……アラゴルン殿」
先刻まで会えないと思っていた人物が目の前に立っていた。
「ドル・アムロスからの帰りかな?」
「あ、はい」
「あちらはどうだった?」
「はい。イムラヒル公に手厚いもてなしを受け、楽しく過ごしました。多くの方々を紹介していただき、同行した商人たちは大変喜んでおりました。それに、やはり海の大きさは格別だと……。以前も見ましたが、草原と山を見て育ったので、あの果てのない眺めにはなんと言うのか……言葉では表せないものを感じます。ローハンには海がありませんが、アイゼン川を下れば海に出ます。いずれはあちらの航路を開拓していければと……」
調子に乗ってしゃべるうちに話がずれはじめた。そのことに気づき、かあっと頬が熱くなる。
「……失礼しました。くだらぬことをペラペラと……」
「構わないさ」
わたしが訊いたのだからと、黒髪の麗人は微笑んだ。
「それに、アイゼン川を下る航路には興味深い」
「さようですか」
「ああ。だが、ここで立ち話をしていてはお伴の方が気を揉むだろう」
アラゴルンの目がエオメルの背後に向けられた。それにつられて振り向けば、後ろに男が立っていた。先程エオメルに説教をした若者だ。
「何より、ご亭主が物陰に連れ込まれたままでは奥方も心配なさるだろうし……」
「あ、いえ、ロシーリエルはまだドル・アムロスです。もう少し実家でゆっくり羽をのばさせてやりたいと思って……」
「そうか。エオメル殿はやさしいな」
そう言って浮かべられた微笑こそ、やさしさに溢れていて、エオメルはどぎまぎした。動悸がする。まったくどこまで余裕がないのか、自身に舌打ちしたくなる。なんとか平静を装って、質問を口に上せた。
「いえ……。あの、アラゴルン殿はなぜ、ここに?」
「ああ、視察だ」
アラゴルンが埠頭のほうに目を遣った。
「出入りする船が増えてきたから、新たな埠頭が必要だと上申書があってな。それで、どんな様子か見に来た」
お忍びでですか——とはエオメルも尋ねない。その程度にはこの人のことを知っている。
「マークの王の帰路に当たるとは思わなかったが——」
さらりと黒髪が揺れ、アラゴルンの首が少し傾いた。その顔にふわりと笑みが広がる。
「会えてよかった」
「いえ、こちらこそ……」
やわらかな笑みに見惚れたのは束の間、続いた言葉にエオメルは愕然とした。
「エドラスまでお気を付けて」
笑顔が引き上げられたフードの下に隠れたかと思うと、アラゴルンはなんの躊躇いもなく踵を返した。
「あ、あの……」
あまりにもあっさりした態度に、エオメルは我知らず、目の前で翻ったマントの端をつかんでいた。何か? という顔が振り返る。
「その……視察が済んでいるのなら、わたしどもと一緒に……」
なんとか引き留めねばと、必死に言葉を搾り出した。しかし、相手はごく自然に首を横に振った。
「ありがたいお誘いだが、こちらも連れがいてね……」
すっと青灰色の瞳が動く。その方向に静かに佇むマント姿があった。
「勝手をすると叱られるんだ。すまない」
肩をすぼめる姿は本当にすまなさそうで、エオメルは何も言えなくなった。
「それに、わたしが同行したら、お伴の方は気が気でなくなるだろう」
「そんなことは……」
ない——とは言い切れなかった。ゴンドール王が“脱走の天才”であるという事実はローハン兵の間でも知られており、随行者の緊張が高まるのは必至だった。エオメルはそれでも構わなかったが、アラゴルンは周囲の者に無用な心配をかけることは避けたいようだった。やはりこの場で別れることになるのかと、肩を落としかけたとき、アラゴルンが訊いた。
「エオメル殿は今日のうちに発たれるのか?」
「いえ、出発は明日で、今夜はこちらの公館に泊まります」
オスギリアスの公館だから、ゴンドールの官吏や軍人が利用する施設だが、友好国という理由でローハンの公職者にも利用が認められている。
「そうか。わたしも同じだ」
アラゴルンがうれしそうに頷いた。お忍びの視察だというから独自に宿を取っているものと思ったが、そうでもないらしい。お目付役らしき同行者もいるし、完全なお忍びではないのかもしれない。
とにかく、同じ公館に泊まるのなら、また話す機会もつくれる——期待に胸をふくらませるエオメルの前で、青灰色の瞳の麗人はにこりと笑み、
「では、夜にまた会おう」
短い言葉を残して去っていった。
◆◇◆◇◆◇◆
公館に入ったエオメルは、予定されている晩餐のために仰々しい身支度を余儀なくされた。湯浴みの後、髪や髭の手入れとともに、舅から贈られた衣装を着せられた。訪れた国の衣装を着てみせるのは、外交儀礼の利に適っている。しかし、ゴンドールの宮廷人が纏う衣装は総じて裾が長い。騎馬の軍装に慣れたエオメルにとっては動きにくく、袖をとおすのは気の進まないことだった。
不慣れな衣装に身をおさめ、華やかながら堅苦しさを感じる晩餐をなんとか済ませると、エオメルはそそくさと用意された部屋に引き取った。部屋係も側仕えも控えの間で追い払い、扉を閉める。用意された部屋は寝室とその続き部屋の二間あった。正直、一人では持て余す広さだ。豪奢ではないが、一国の王を迎えるのに相応しい調度で設えられた部屋を見ていると、この街が数年前まで廃墟同然だったことなど嘘のように思える。
エオメルは改めて部屋を見まわした。燭の灯りが照らす壁に、馬の姿を織り込んだタペストリーが浮かび上がる。見事なものだが、普段からあるものなのか、ローハンの王を迎えるために用意されたものなのか……。もし、わざわざ飾られたものだとしたら、
——やり過ぎだ。
エオメルは苦笑した。だが、こうした心遣いで歓迎の意を示されることはうれしい。そばによって、タペストリーにそっと触れてみた。途端——、
「お気に召したかな」
寝室から穏やかな声がかかった。驚いて振り返れば、寝台脇の椅子に淡青色の瞳の麗人が座っていた。
「アラゴルン殿……」
ゴンドールの王の脇にあるテーブルでは燭台の火が灯っている。彼は隠れていたわけではない。なのに、声をかけられるまで気づかなかった。
「いつからこちらに……」
エオメルは寝室に足を踏み入れた。
「半刻程前かな」
この国の最高位に在る貴人はくつろいだ表情で笑った。エオメルとは対照的に簡素な衣服——というより、淡い色の夜着に地味なコートを羽織っただけというぞんざいさ、足下にいたっては裸足である。それでも、だらしない印象を受けないのは……、
——惚れた者の欲目だろうか。
身分を考えれば、過ぎるほどにくだけた姿だ。それで賓客——それも友邦の王——の前に現れるのは、常軌を逸していると言っていい。だが、エオメルは礼を失しているとは思わなかった。礼装で迎えられるのはもちろん喜ばしいことだが、こうした気安い姿で接してくれるのは、それだけ心を許されている証のように思う。
それに、襟元をくつろげ、ゆったりと腰を下ろしているさまは魅力的だ。適度に打ち解けた姿は、礼装にない艶を感じる。本を手にしているのも雰囲気に合っていて……と、友邦の王の姿を眺めていたエオメルは、その書物が自分の持ち物だということに気づいた。
「ああ、すまない。勝手に読んでしまって……」
エオメルの視線に気づいたアラゴルンが詫びた。
「いえ、構いません」
読まれて困るものではない。
「シンダリンにご興味がおありか」
本は西方語で書かれたシンダリンの解説書だった。
「あ、はい。こちらの方々のお名前や地名はエルフ語に由来するものが多い——」
「そうだな」
「それでドル・アムロス滞在中、イムラヒル公にあれこれ尋ねていたら、良いものがあると……。いや、本当にゴンドールにはどんな書物もあると感心しました」
アラゴルンが頷くように淡く笑んだ。彼のまろい指がぱらぱらと書物を繰る。頁の間に挟まっていた紙片がはらりと落ちた。
「おや……」
アラゴルンが落ちた紙片が拾い上げた。
「これはスミレかな?」
紙片はしおりだった。しおりには押し花が貼り付けられていた。
「栽培種のようだな」
押し花の花弁は野生のスミレより大きかった。
「ずっと東の国では、スミレに“一夜草”という異称があると聞いた」
アラゴルンがしおりを眺めながら言った。
「一夜草? 一晩でしぼむ花でもないのに?」
エオメルは首を傾げた。
「そう、どうしてかと思うだろう? その訳は、スミレを摘みに野に出てきたが、立ち去り難くて一夜を過ごしてしまった——と詠んだ歌があるからだそうだ。野で過ごす解放感から立ち去り難くなったのかもしれないが、可憐な花の魅力に惹かれたからだという解釈もできる」
アラゴルンは押し花を愛おしげに見ると、口づけるようにしおりを唇に掠めさせ本に挟み直した。彼にとっては何気ない仕草だったのだろうが、エオメルの喉はごくりと鳴った。
「二夜草という呼び名もあるそうだ。一晩が二晩に延びたのかな」
くすりと笑って、アラゴルンは本をテーブルに置いた。
「……わかります。延ばしたくなる気持ちは」
エオメルはアラゴルンの座る椅子の背に手を付いた。
「おや、そうか」
くい、とアラゴルンが上を向いた。青灰色の瞳におもしろがる色が浮かぶ。自分のような若造が迫ったところで、この人は焦る必要すら感じないのだろう。
——相手にされていない……。
その落胆を表面には出さず、エオメルは距離を詰めた。
「ええ、わかります。とてもよく……」
アラゴルンの肩に落ちる黒髪をすくい、彼の頬に手を添える。ほのかに笑んだ想い人は静かに目を閉じた。引き延ばしたい夜がはじまる。けれど、二夜には延ばせない——。
その思いを込めて、エオメルは伏せられたまぶたにそっと唇を落とした。
END


春の野に すみれ摘みにと 来し我ぞ 野をなつかしみ 一夜寝にける(山部赤人/万葉集)

という歌から、一夜草と呼ばれるようになったという説があります。
古くはすみれを食用にしていたので、ただ、すみれを摘みに出かけて、夢中になって摘んでいるうちに一晩を過ごすことになっただけ——かもしれず、すみれ=女性(恋人)の解釈は飛躍し過ぎという意見もあるようです。