Intermission
指輪棄却の旅が始まってしばらく経った頃から、ボロミアは小さい人たち——主にメリーとピピンの二人——の剣の稽古の相手を務めるようになった。
◆◇◆◇◆◇◆
「僕たちの稽古の相手になってほしいんです」
ある日、休憩中にメリーとピピンが頼んできた。
「アラゴルンに頼んだらどうだ?」
彼とは会議での一件以来、わだかまりがないわけではなかったが、このときは別段含むところはなかった。裂け谷滞在中、彼が二人に剣の型を教えていたのを遠目ながら見ていたからだ。
「それが駄目なんです」
「型は教えられるけど、相手は駄目だって……」
「それはまた……」
どういうことだ、と訊こうとしたとき——
「わたしは、初心者の相手は向いていないんだ。ボロミア」
当の本人から声がかかった。
「型を付けるくらいならいいんだが、実際に剣を交えると、どうしてもイレギュラーな動きをしてしまう。基本が身に付いていない内から、癖のある相手とやり合うのはまずいだろう」
ボロミアは頷いた。癖のある剣を相手にしていると、自然とその癖に引きずられてしまう。癖に対応して変化のある技が身に付くとも言えるが、それも基本があっての話だ。基本が身に付いていないのに、そんな稽古ばかりしていては崩れた型で覚えてしまう。
アラゴルンの剣は変化に富んでいる。それが悪いと言うわけではない。しかし、初心者に真似できるものではない。技術と力量が備わっていなければできない剣さばきだ。
実のところ戦いが始まってしまえば、オーク相手に基本だの型だのと言っている暇はない。生き残ることが最優先だ。だが、基本なき剣はいざというとき脆い。
「その点、あなたは型がしっかりしているから、二人の相手にいいと思うんだが」
「僕たち、剣を持ってるだけじゃなくて、使えるようになりたいんです」
「お願いします!」
茶色の巻き毛頭が二つ、ぴょこんと下げられた。言葉にはしなかったが、フロドを守るためなのだろう。普段はそそっかしく、何かとガンダルフに叱られているが、彼らは彼らなりに必死なのだ。
「お引き受けしよう」
その日から稽古が始まった。
◆◇◆◇◆◇◆
カンッ、キィン……。
乾いた金属音が、古の建物が残る丘に響く。一行はここで昼食を取ることになった。
滅びの山へ指輪を棄てるという過酷なはずの旅も、エレギオンまで距離がある現時点では、まずまず順当に進んでいた。数日前に少数のオークと鉢合わせたが、それもすぐに片付いた。
昼食の準備中、こうしてメリーとピピンの稽古をするのもすっかり習慣になった。これには、二人の剣の上達以外に思わぬ効用があったらしい。いつの間にか、一行の料理番的存在になったサムに礼を言われた。二人につまみ食いされずに済むのだそうだ。大真面目な顔をして言った庭師に、メリーとピピンは不満げに鼻を鳴らし、その横でフロドが笑っていた。
キィン、カン、カン……。
「いいぞ。ピピン。——次、メリー」
カンッ、カン……。
「腕だけに頼るな」
傍らからアラゴルンの声がかかった。見回りを兼ねた薪拾いから戻ったらしい。そばの岩に腰を下ろし、パイプを取り出した。
彼は見回りや狩りが済むと、稽古を見るようになった。一服しながら、先程のようにアドバイスを出すこともある。
キィン……。
一際鋭くメリーが打ち込んできた。アラゴルンのアドバイスを早速取り入れたのだろう。腕だけになりがちだった先程までの剣さばきと違い、全身での踏み込みだった。横目にちらりと見物人を見遣れば、そこには嬉しそうに目を細めて笑う顔があった。初めて見る表情——
目を奪われた。
「隙あり!」
威勢の良い掛け声に、ハッとしたときには遅かった。
ガキィン!
両手で剣を構えたメリーとピピンが、揃ってボロミアの剣を打ち叩いた。右手で軽く構えていただけのボロミアは、見事に剣を叩き落とされてしまった。
「やったぁ!」
「一本取ったぞ!」
ボロミアは呆然として、はしゃぐ二人を眺めた。
「ボロミア。稽古に余所見は禁物だぞ」
立ち上がったアラゴルンが、落ちた剣を拾いながら言った。
「あ、ああ……」
「どうした。らしくない。具合でも悪いのか?」
拾った剣を差し出しながら、アラゴルンは首を傾げる。その気遣わしげな表情は、無心にものを尋ねる子供のような風情で、またしてもボロミアは驚いた。
これまでも彼が笑みを浮かべることはあった。首を傾げる仕草もなかったわけではない。だが、笑うと言ってもそれは表情をやわらげる程度のもの、あまり変化はなかった。首を傾げたときはどこか訝しむような気配が消えず、疑われているかのような居心地の悪さを感じていたものだ。
「ボロミア……どうした? どこか痛めたのか?」
棒立ちになったままの自分を、青灰色の瞳が心配そうに見ている。首を傾げたまま、大して背の高さが変わらないのに、なぜかその視線は上目遣いだ。今までのような居心地の悪さは感じないが、落ち着かない気分になるのは同じだった。
「え? 怪我?」
「大丈夫?」
メリーとピピンの心配そうな声が下のほうから聞こえてきたが、ボロミアはアラゴルンの瞳から視線を逸らせなかった。
「ボロミア?」
アラゴルンが顔を覗き込むように一歩近づく。それになぜかギョッとし、ボロミアは慌てて首を振った。
「い、いや、なんでもない」
「ほんとに?」
グローブをした手を確かめるように触りながら、ピピンが訊く。
「ああ、大丈夫だ」
「よかった。僕たちが思い切り打ち込んだせいで、どうかしちゃたのかと思った」
「なんともない。それに、今のは君らのせいではない。わたしの油断だ」
「油断禁物のお手本だね」
ピピンが軽口を叩いたとき、サムの呼ぶ声がした。食事が出来たと聞くや、二人のホビットは飛ぶように走っていく。
「元気だな」
ボロミアは笑いながら、その後ろ姿を見送った。彼らは“小さい人”だが小さな子供ではない。麦酒もパイプも嗜む。けれど、駆けていく後ろ姿は無邪気な子供のようで、自分の眼には守るべき対象に映った。
「ボロミア」
横から剣の柄が差し出された。
「ああ、すまない」
「本当に大丈夫か?」
アラゴルンが気遣わしげな視線を寄越した。意外に心配性なのだと思ったが、彼が無頓着なのは彼自身のことに限られていると思い直す。しかし……、
——なんだって上目遣いで覗き込むように見るんだ。
と思っても、落ち着かない気分になるから止めてくれ——とは言えない。加えて先程の失態も、まさか、笑顔に驚いた——なんてことは絶対に言えない。
「な、なんともない。大丈夫だ」
ぶっきらぼうにそれだけ言って、ボロミアは身を翻した。
「おーい」
「早く来ないとなくなるよぉ」
メリーとピピンの声に手を挙げて答えながら、意識は背中に感じる青灰色の眼差しから離れなかった。
——落ち着かない……。
けれど、もう居心地の悪さは感じなかった。
——それに……
先程の彼の笑顔を思い出し、ボロミアは少し頬を緩める。彼の表情の変化に乏しさに、エルフに近いものを感じていた。しかし、笑った顔は人間らしいものだった。自分と変わらぬ人の子だと。
王家の末裔だとエルフから告げられた上、彼に王位を請求する気概がないと見て反発した。しかし、一人の人間として見た場合、彼は優れた戦士だ。
エレンディルの血を引く者、単独で荒野を渡ってきた野伏、鮮やかな剣を振るう戦士——彼にはさまざまな顔がある。他にどれだけの顔があるのか。
——知りたい。
そうだ。彼を知ることも旅の目的にすればいい。旅が終わるまでに、どれだけの顔が明らかになるだろう。どんな顔を見せてくれるだろう。そう考えると、なぜか心が浮き立った。
「おーい」
「今行く」
ボロミアは足早にホビット二人に駆け寄った。
END