一服
ゴンドールに新しき王朝が興って数年、ハラドとの国境がにわかにきな臭くなった。当初、国境線をめぐる小競り合いに見えたそれは、たちまちのうちに規模が拡大し、ハルネン川沿いにある砦がハラド側の手に落ちるかにまでなった。
しかし、そうはならなかった。
まず、執政を兼ねるイシリアン公ファラミアが救援に向かい、砦の陥落を防いだ。その後、エレスサール王が自ら軍を率いてミナス・ティリスを発ち、敵軍を退却させた。王が南の地に赴いてひと月、ゴンドールは新たな領地を手に入れ、ハラドとの間に和睦を結んだ。
その報せを受け取った白の都は大いに沸き返り、王が帰還するや、祝賀会が催された。
◆◇◆◇◆◇◆
宴の人いきれを逃れ、ゴンドールの王、エルフの石たるエレスサール──アラゴルンは篝火を避けながら中庭に出た。立哨の兵士に注意しつつ木に登り、枝をつたって露台に下りた。空いている窓を探し、灯りの消えている部屋にに入る。柱にもたれ、ほっと息を吐き出した。
懐からパイプを取り出して葉を詰め、煖炉の脇にあった火打ち石で火種をつくって火を灯した。長椅子に腰を下ろし、パイプに口を付ける。葉の香りが鼻腔をくすぐった。
——慣れぬものだな。
苦笑いとともに、白い煙が暗い部屋に吐き出される。淡く白い筋が頼りなげに漂い、やがて闇に消えていった。それがなんとなく宴から夜陰に消えた己の姿のように思え、アラゴルンの口から再び、乾いた笑いとともに煙が吐き出された。
主賓が宴から姿を消すなど、あってはならないことだ。中座するなら周囲の者に断るのが礼儀である。けれども、どうにも息苦しくていられなかった。
己の行いを人々が祝してくれるのはありがたいことだ。得体の知れない者と蔑まれた野伏の頃を思うと雲泥の差だ。しかし>……、
——やはり疲れる。
それが正直な気持ちだった。
野伏の村でも宴会はあったが、無礼講同然の気さくなもので、壮麗な石造りの都で開かれる宴とは異なっていた。
仕官時代に戦勝の祝宴に出席したことはある。けれど、ローハンの宴は、時間が過ぎれば歌や踊りに飲み比べと、野伏の宴と変わらぬ状態になり、気楽に過ごせた。ゴンドールの宴の雰囲気は今と変わらないが、なんといっても当時の主賓は執政家の人間だった。お歴々の目は彼らに集まり、流れ者の身は目立たぬようにしていれば壁際の飾り物で過ごせた。昇進とともにに声をかけられる機会は増えたが、大抵の場合、周囲が勝手にしゃべって盛り上がっていた。対処に困ったのは数えるほどだ。
それが今はもっとも注目を浴びる存在となり、愛想良く笑うだけでなく、時には自分から話題をつくって話さねばならないのだから気が重い。それも人々の興味を引く話題でなければならないときては、疲れるなというほうが無理である。
なにしろ、アラゴルンは仕官時代の後四十年余り、ほとんど単独で野山を旅してきた身だ。話し相手がいなければしゃべることもない。必然的に無口になった。お世辞にも話術に長けているとは言えない。
行軍の命令ならば野伏にもしていたし、仕官時代に培った経験もあってこなせるが、社交界における洒落た会話となると苦手意識を拭えない。
しかし、苦手だと言っても、今や王だ。社交的なやり取りを避けては通れない。──いや、
半分ぐらいは最高権力者の職権を大いに活用し、その機会を潰そうと思った──が、不埒な企みは有能な執政の前で水泡に帰した。
ファラミアに言わせると、礼儀作法を身に付け、会話もできないわけではないのに、実行しないアラゴルンの態度は怠けていることになるらしい。できるのと慣れるのは違う——と訴えたら、
——では慣れてくださいませ。
と、慇懃に返された。
——慣れる前に疲れる。
という呟きは黙殺された。我が執政は時々、主にすごぶる厳しくなる。
慣れろと言われても、上流階級の洗練された会話というやつには、どれだけ場数を踏んでも慣れたという実感が湧かない。当意即妙な受け答えなど、自分には無理なのだ。そうアラゴルン自身は思っているが、ファラミアの評価は異なる。
——陛下は立派にこなしてらっしゃいます。
公務に関しては公正な評価をする男が言うのだから、傍から見てみっともないことにはなっていないのは事実だろう。それでも、社交の場に慣れたという感覚は持てない。アラゴルンとて、下層の酒場での会話なら、こんな苦手意識は抱かない。上品な会話に馴染めないのだ。特にご婦人方の会話を聞いていると、同じ生き物の思考かと疑いたくなるぐらい話が見えない。
アルウェンが一緒のときはいいが、宴のはじめから終わりまでずっとくっついて動くわけにもいかない。彼女にもご婦人方との付き合いがある。実のところ、サロンではアラゴルンより彼女のほうが余程顔が利く。今夜の宴でも有力者のご夫人や令嬢たちに囲まれ、別室で談笑中だ。
エルダール出身の妃が人の子の世界で、好意的に受け入れられるのは良いことである。とはいえ、その中に入りたいかと問われたら、アラゴルンは躊躇するだろう。
——上流階級の付き合いにはついていけない。わたしの性に合わない。
いつだったか、ついこぼしたことがあった。けれど、ファラミアは軽く笑って、真面目に取り合わなかった。
——最上位にあらせられる方が何をおっしゃいます。
——今は確かに国王で、この国の最上位だが、ちょっと前まで野山を駆けずりまわる野伏だったんだ。上品な会話と無縁なのは当たり前だろう。
論理的な理由を述べたはずだったが、執政には通用しなかった。
——二十歳まで裂け谷にいらっしゃったのでしょう?
エルフの智恵者の下で育ったのなら、上品な会話も身に付いているはずだと言いたいらしい。
——そんな六十年以上前の話……。
アラゴルンにしてみれば一体いつの話だとぼやきたくなるが、人の子からすると、エルフの智恵者の養育というのは特殊な英才教育に思えるらしい。特殊さは認めるが、それは素晴らしい能力が身に付くことではなく、人の子と感覚が大いにズレることを意味するのではないかと、養育された身は思う。
——たとえどんなに昔のことでも、二十歳までに覚えたことは消えないものですよ。
訳知り顔でにっこり笑われ、アラゴルンは肩を落とした。ファラミアの言い分を認めたというより、反論する気が失せたからだ。
——会話でお困りになったときは、相手の方をしばし凝視した後、少し首を傾げて微笑みかければ大丈夫です。
完璧な笑みを浮かべた執政は、見合いに臨む小娘にするような助言をくれた。
聞いたときは、そんなことで大丈夫なわけないだろうと、まったく信じていなかったが、試してみれば退屈な長口上を黙らせる効果は確かにあった。なるほど、彼の鋭さは伊達ではないと感心し、それ以来、相槌を打つついでにしばしば首を傾げて笑ってみせている。ひょっとしたら、年寄りの引き攣った笑みに引かれているだけかもしれないが、別に構わない。
ただし、口を閉じさせるこの方法も、万人に効くわけではなかった。進言してくれたファラミア自身にも効果がない。自身には効かない方法を勧めるあたりも、また彼の有能さなのだろう。
ファラミアに効かないのはともかくとして、稀に離してくれなくなる者がいて困る。離れなくなるだけでなく、領地や館への招待、会食の誘いがしつこくなる。国王の予定というのは、さまざまな調整のうえで組まれている。王だからといって、勝手に変えられるものではない。
あまりしつこい相手には「執政を通してくれ」と言い、ファラミアを呼ぶ。我が有能なる執政はそういった相手のあしらいも上手い。彼を呼べばいつも片づいていた。そういつもは……。
今夜もしつこい手合いがいた。ところが、ファラミアを呼ぼうとしたら、姿が見えなかった。目で探していると、足早に侍従が近づいてきて、執政の言づてを耳打ちをしてくれた——軍務の高官に呼ばれてしばらく席を外すと。
アラゴルンは侍従に頷き、しつこい貴族を振り返って言った。
「すまない。急用ができた。失礼する」
侍従の耳打ちを急用の呼び出しだと誤魔化し、目立たぬように出てきたのだった。
——そろそろ戻るか。
気が重いからと言って、いつまでも隠れているわけにもいかない。それに、もうじきお開きだ。アラゴルンは燻らしていたパイプの火を消した。立ち上がって煖炉に灰を落とす。パイプをマントの端でぬぐい、さて──と、窓に足を向けて、アラゴルンは瞠目した。
玻璃の向こうに人影があった。窓が静かに開く。
「こちらにおいででしたか、陛下」
「ファラミア……」
淡い金の髪と碧い瞳を持つ長身の男が、室内に滑り込んできた。
◆◇◆◇◆◇◆
「ファラミア……」
宴の広間から中庭を挟んだ向かいの棟、その二階の空き部屋にいた主君エレスサールは、露台から現れたファラミアを見てギョッと立ち尽くした。
「一服なさっておいででしたか」
エレスサールが手にしているパイプを見て言う。
「あ、ああ……」
うろたえた声とともに、エレスサールの青灰色の瞳がウロウロと泳いだ。
「その……すまない。すぐ戻るから……」
パイプを懐へしまった主は、あたふたと窓枠へ手を伸ばした。ここで扉に向かうのではなく、窓から出ようとするところがエレスサールである。「陛下」と、ファラミアは窓枠へ伸ばされた手を取った。
「お急ぎにならずとも大丈夫ですよ」
そう言いながら、エレスサールの身を引き寄せる。
「そ、そういうわけにはいかないだろう。わたしは勝手に出てきてしまったのだし……」
エレスサールはファラミアの胸元に肘を立てて突っ張り、逃れようと背を反らせた。その抵抗を逆に利用し、ファラミアは引き寄せようとつかんでいたエレスサールの肩をぐいと押した。背を反らしていたところを押され、エレスサールはぐらつく。そこをすかさず捕まえて、今度こそファラミアは愛しい主を腕の中へおさめた。
「おい……」
エレスサールがもがく。その動きと反論を封じようと、ファラミアは彼のおとがいに手をかけた。顔を近づけたところ、エレスサールの手に押し返された。
「こら、待て」
「なんでしょう」
彼の首の後ろへ手をまわしながら尋ねる。
「戻らなくていいのか」
「わたしも一服したくなりまして」
そう言うと、青灰色の瞳にギロリと睨まれた。
「これは一服じゃないだろ」
そんなことはわかっている。エレスサールと二人でいる時間を延ばしたいだけだ。単独で探しに来たのも、他の者に邪魔されたくなかったからだ。エレスサールの居場所については見当がついていた。あの広間から彼が抜け出す際、だいたいこの辺りの部屋が避難先に選ばれる。それを知っていたからこそ、二人になれる良い機会だと思って来た。けれど、そんなファラミアの胸の内など知らぬ主は、そっけなく言った。
「とにかく戻るぞ」
「本当にお戻りになりたいですか?」
意地悪く尋ねてみる。華やかな場を苦手とするエレスサールが、本気で宴に戻りたいと思っているわけがない。ファラミアの予想どおり、彼の唇はおもしろくなさそうにゆがんだ。けれど、ファラミアを押し返す力は弱まらない。
「戻りたいとか戻りたくないとか、言ってる場合じゃないだろう。一応わたしが主賓なのだから」
宴からも執務室からも、城からもしばしば抜け出す主君だが、根は真面目だ。
「でも、抜け出していらっしゃった」
「それは悪かったと思っている。だから戻ろうと言ってるんだ。それに、王と執政が姿を消したままなのはまずいだろう」
「ああ、それなら、大丈夫ですよ」
しれっと答えると、エレスサールが虚を突かれた顔で目をしばたたいた。その一瞬の隙を逃さず、ファラミアは彼を壁に押しつけ退路を断った。
「……つまり、戻らなくても済むように手を打ってきた……ということか」
ふぅ、とエレスサールの口から息が漏れる。同時にファラミアを押し返そうとしていた腕がぱたりと落ちた。どうやら抵抗を諦めたらしい。
「適当に終わらせるよう、将軍方と担当官に頼んできました」
「相変わらず手まわしがいいな」
エレスサールは苦笑しながら肩をすぼめた。ファラミアは微笑で応え、壁にもたれている彼の背に手をまわした。痩身を引き寄せる。
「ですから少々時間がございます。愉しみましょう」
言った途端、再びエレスサールの手に押し返された。二人の間で伸びた腕が突っ張る。
「部屋に戻る」
硬い声で告げられ、ファラミアは彼の背にまわしていた手を放した。硬質な声は怒りの前触れだ。怒らせてしまっては元も子もない。
「そうですね。戻りましょう」
そう言いながら、窓から出ていこうとする主君を扉へ案内する。
「続きはお戻りになってからということで」
扉を開けながら言うと、エレスサールの足がぴたりと止まった。
「……なぜ続くんだ」
額に手を当てたエレスサールの口から、うんざりした声が漏れた。
「一服の後は再開——つまり、続きを行うものでございましょう」
我ながら論理破綻した台詞だと思った。だからエレスサールの口から呆れ果てたような、深く長いため息がこぼれたとしても仕方のないことだった。
「あなたの言うことは、ときどき意味がわからない」
主に嘆かわしそうに首を振らせるなど、本来なら臣下として恥ずべきことだ。だが、今は臣下としての立場より、彼に触れたい欲が上まわっていた。
「部屋にお戻りになれば、すぐにおわかりになりますよ」
にこりと微笑み、エレスサールの耳元で囁く。厭そうに目を眇め、ファラミアに背を向けたエレスサールだったが、その後ろ姿から低い声が聞こえた。
「好きにしろ」
許しの言葉を得たファラミアは碧い目を細め、愉しい時を思って笑んだ。そして、ふと彼がパイプを吹かす姿を思い浮かべる。
——部屋へお戻りになったら、まずは一服なさる時間を差し上げようか。
その姿を愛でるのも悪くない。そう考えながら、ファラミアは先行く人の後を追った。
END