魔法使い
夜空に跳ねる馬の看板を一瞥し、アラゴルンは宿屋の扉をくぐった。まだ宵の口だが、エールが評判なだけあって、一階は既に酔客でいっぱいになっている。荒野でオークと対峙してきた身にとって、裂け谷とは違った意味で別世界だ。ここに集う人間たちは周囲に闇が迫っていることを知らない。
——人が憩う場所を守っていると思えば、エールの味もまた格別。五臓六腑に染み渡るってものですよ。
ここを案内してくれた仲間の言葉が頭をよぎった。危険を知らずに済ませられるなら、そのほうがいいのかもしれない。
アラゴルンはフードの下から、賑やかな声が響く店内をぐるりと見回した。落ち合う相手はまだ来ていない。どのみち今夜はここで泊まりになる。アラゴルンは宿を頼むべく、カウンターへ歩み寄った。
◆◇◆◇◆◇◆
薄汚れた風体に他者を寄せつけない雰囲気、おまけに何の職業だか定かでないとなれば、胡散臭い目を向けられるのは当然だ。それでも、宿泊を断られない程度には“人並み”に見えるらしい。アラゴルンは壁際の席に腰を下ろした。
とりあえず、腹に入れるものを頼もう、それとエール——と思っていたところ、近づいてきた宿屋の亭主がアラゴルンのテーブルにジョッキを置いた。
「まだ、頼んでいないが……」
間違いだろうと思って声をかけると、亭主はちらりと目を脇に動かし、硬い声で言った。
「あちらの方からのおごりです」
亭主の視線を追うと、カウンターの脇に長い髭をたくわえた老人が見えた。パイプをくゆらし、こちらを見ている。
——何者だ……?
しかし、アラゴルンが老人のことを尋ねる前に、亭主はさっさと離れていった。やはり、係わりを持ちたくないと思われているようだ。それにしても……、
——飲んでいいものだろうか。
アラゴルンはジョッキを見つめた。薄汚れた旅人にエールをおごりたい者がいるわけもない。そんな者は余程の物好きだ。いや、単なる物好きなら別に構わない。が——、
アラソルンの息子、アラゴルン。
自身の出自を考えれば、見知らぬ者から与えられた飲食物に口を付ける気にはならなかった。真名を伏せられ、エルフの守護の下で育てられた事実を踏まえれば、常に命の危険にさらされていると自覚せざる得ない。
彼はいったい何者か。凶暴さは感じないが、油断はできない。アラゴルンは再び老人を窺った。すると、彼は近くの客と歓談していた。こちらにはもう興味がないようだ。
——単なる気まぐれだろうか。
こういった場に慣れていなさそうな若い者を、からかう年寄りもいると聞いた。ひょっとしたら、そういう類の冗談かもしれない。とりあえずの危険はないと判断し、アラゴルンはジョッキを脇に押しやって亭主を呼んだ。
パンとチーズとシチュー、それと新たなエールを頼む。亭主は怪訝な顔をしたが、すぐに新たなジョッキにエールを注いで持ってきた。程なくして料理も運ばれてくる。それらに口を付け、アラゴルンはふっと息を吐いた。
守護の谷から出たものの、真名は伏せられているも同然だ。素性が明らかになるだけで、一族ごと滅ぼされる恐れがつきまとっていては名乗れるはずもない。
——くれぐれも御身を大切に。
オークと死闘を繰り広げながら、この身は守り切れという矛盾。けれど、縋るように握られた手を、振り払うこともできなかった。老いた者が自分を映す目は、認めたくないが、まさに一縷の望みを託す眼差しだ。
——アラソルン様が遺してくださった御子。
通りすがりに耳に挟んだ言葉だった。実父は自分が二歳のとき、オークの矢に斃れたと聞いた。顔も覚えていないが、娶って間もない妻と幼い子がいては、死ぬに死にきれない想いだったのではないか。若い自分にもそれくらいのことはわかる。
だが、一族にとっては、父が斃れても自分が無事だったことが“のぞみ”となった。か細く、今にも切れそうな頼りなさではあるが、彼らの守ってきた“血”が絶たれるという、最悪の事態は免れた。
——血を絶やさず、次代へつなぐこと。
彼ら——特に父を知っていた世代の者たちと接するうち、感じるようになった無言の圧力。生まれながらの“長”に課せられた当然の使命。子をもうけぬうちは死ぬなということだ。
エルフの智恵者に守られた憩いの地で甘やかされていた子供が、眷属に迎えられた途端、突きつけられた要求。分不相応にも貴きエルフの姫に懸想し、養い親に釘を刺された者に、然るべき血筋の娘御を娶り、子をなせと——。
「ふぅ……」
ため息も漏れるというものだ。それでも谷を出た当初は、こうまで鬱屈した想いはまだなかった。一族にとけ込むのに精一杯だったこともあるが、当時の自分はなんとか事態を打開できるのではないかと考えていた。だが、現実は違った。
必死に狩りを繰り返しても、どこからともなく湧くように現れるオークの群れ。冬が訪れる度、人里との距離が縮まってくる狼たち。増えるのは敵ばかりで、こちらは数を減らす一方だ。この閉塞した情況でいったいどうしろと——?
長老たちに話せば、たった五年で何を言うと失笑されそうだが、今のままでは追い詰められ、いずれ自滅する。五年あれば——いや、五年かけなくとも出てくる結論だった。
——先が見えない。
自分の代に一族の命運を決する動きが起こると聞かされた。かつての繁栄を取り戻すか、一族ごと滅ぶか……。
繁栄と言われても、かつてのことなど、書物でしか知らないのだから実感はない。ただ、オークや狼に襲われることがなく、危険な旅をせずともいい。守護の力が無くとも、あの谷のように安らかな日々が彼らの上に訪れるなら叶えようと思う。
——だが、そのために何をすればいい?
ここでオークを狩っていても、一時しのぎにしかならない。このブリー村のような、人が暮らす土地を守ることはできる。その意義は大きいが、対処療法でしかないのも事実だ。一進一退を繰り返しながら、徐々にこちらの力は削がれていく。
どう進めば辿り着けるのか。方策もわからないでは、夢見る安らかな日々は夢のままで終わる。
——どうすればいい?
答えなど出るはずもない自問に、再びため息が落ちる。そのとき——、
「悩みが深そうじゃの」
不意に声が降ってきて、アラゴルンは飛び上がりそうになった。顔を上げれば、長い髭の老人がジョッキを持って立っていた。先程、亭主に教えられた人物だった。
——いつの間に……。
いくら思考の淵に落ち込んでいたからといって、こんなに間近に来るまで、しかも声をかけられるまで気づかなかったことに驚愕する。
「そう暗い顔でため息ばかり吐いておっては、見える光も見えなくなる」
老人は当たり前のように、アラゴルンの向かいに腰を下ろした。木の杖を傍に立て掛け、灰色のとんがり帽子をテーブルの隅に置く。
「うまいエールを飲んで笑うことも必要じゃ」
老人はアラゴルンのジョッキにカチリと自分のを当てると、ごくごくと喉を鳴らした。満足そうな息を吐き出し、呆然と眺めているアラゴルンを見て不思議そうに言った。
「なんじゃ。飲まんのか」
「あの……」
見事に己のペースで事を進める老人に、アラゴルンは目をしばたたかせるしかない。
「わしが頼んだエールを用心するのはわかるが、自分が頼んだのは飲めるじゃろ」
「……あなたは?」
ようやくそれだけ訊く。老人は面白そうに笑った。
「そうじゃ、お前さんはわしを知らん。じゃが、わしはお前さんを知っておる」
テーブルに肩肘を付き、ずいっと身を乗り出す。
「お前さんは裂け谷の養い子じゃろう」
ずばりと言われ、アラゴルンは瞠目した。テーブルの下で、そろりと剣の柄を握る。老人は呵々と笑った。
「そう警戒せんでもいい。わしはエルロンド卿の友人じゃ」
「卿の?」
だが、信じていいものか。少なくとも、このけったいな老人を裂け谷で見たことはない。しかし、老人はこちらの剣呑な気配など頓着せず、いたずらっぽく片目を瞑った。
「ほれ」
声とともに、燭台の炎の周りで軽く火花が散った。
「きれいじゃろう」
子供のような顔で笑う。
——人……ではないのか?
エルロンドの友人という言葉が本当なら、人でない可能性のほうが高い。耳にエルフの特徴はないが、目配せひとつで火花を散らす者を人とは呼ばない。アラゴルンは肩の力を抜いた。老人のおごりのジョッキに手を伸ばす。
「いただきます」
「ほう」
老人は灰色の髭の奥に、やや意地の悪い笑みを浮かべた。
「卿の友人と名乗っただけで、それほどに信用しまっていいのか?」
「友人という言葉を信じたわけではありません。けれど、あなたには禍々しい気配がない」
亭主に教えられたときから、この老人に禍々しいものは感じなかった。
「それが根拠か? 気配など、力ある者はなんとでも変えられるぞ。ドゥネダインの長よ」
また素性に係わる呼び方をされ、アラゴルンは苦笑した。この調子では真名も知られているに違いない。けれど、動揺はなかった。
「わたしのことをよくご存じのようだ」
「敵なら当然だと思わぬか? お前さんはそのエールで命を落とすかもしれぬ」
わざと脅す物言いにアラゴルンは笑った。
「ならば、それがわたしの命運でしょう」
「ほう。悔いはないと?」
「悔いは、するでしょうね」
自分が命を落とせば、眷属が必死に守ってきた血は途絶える。他にいにしえの王家の血族はいない。あとは緩やかに、けれど、確実に一族は滅ぶ。王家の血を守ることで“のぞみ”をつないできた彼らの心を思えば、悔やまずにはいられない。
「ですが、あなたと争って勝てるとは思えない」
「この老いぼれに後れを取ると?」
老人が片眉を上げた。
「あなたは人ではない」
アラゴルンは静かに言った。
「やろうと思えば、手を動かさずとも——」
燭台を目で指し示す。
「その炎をわたしに移すことも可能なはずだ。そんな者を相手に、エール一杯の用心をしたところで意味がない」
「フォッ……」
老人の口許が綻び、愉快な笑い声が響いた。アラゴルンも笑った。ひとしきり笑ったところで「さて」と、老人は腰を上げた。
「わしは退散するとしようかの。お前さんの待ち人が来たようじゃ」
そう言って、戸口を見遣る。彼の言うとおり、アラゴルンの知った顔が入ってきたところだった。フードを落とした若い男が周囲を見回している。しかしと、アラゴルンは首を傾げた。
——落ち合う相手は彼ではなかったはずだが……。
入り口に気を取られていると、視界の端を灰色のローブが横切った。
「あの……」
アラゴルンは慌てて立ち上がった。老人が立ち止まる。
「また会えますか?」
やさしい笑みが振り返った。
「何度でも」
その言葉にアラゴルンが微笑すると、老人は目を細め、階段へと歩いていった。
「——族長」
振り返ると、戸口にいた若い男——ハルバラドが訝しげに灰色のローブを見送っていた。
「お前一人か。ケレベクセルはどうした?」
アラゴルンはハルバラドに座るよう促し、自分も腰を下ろしながら訊いた。
「あ、ここへ来る途中、オークの足跡を見つけて——」
「辿っていったか」
これまでオークを見かけなかった場所で足跡を目にしたのなら、野伏としては当然、捨てておけないだろうが……。ケレベクセルは血気盛んな自信家だ。
「無茶をしなければいいが」
アラゴルンが呟くと、ハルバラドは大丈夫だと笑った。
「群れを見つけたら、あっちに見つかる前に引き返すと言ってました。村かここか近いほうへ向かうと」
「そうか」
「それより、族長。さっきの老人、誰なんです?」
ハルバラドの目が、老人の消えていった階段に向けられる。
「さあ……」
そういえば名前を聞かなかった。
「エルロンド卿の友人らしい」
「らしいって……、卿に確かめもせずにそんな……怪しいじゃないですか」
生真面目な若者の顔に警戒の色が浮かぶ。
「確かに」
アラゴルンは頷きながら、しかし、小さく笑った。
「でも大丈夫だ。おごってくれたエールはうまかった」
「何のんきなこと……。敵だったらどうするんですか」
ハルバラドの声が険しくなる。
「その心配は当然だが、敵じゃない。たぶん」
「なぜ、そう思うんです?」
「敵だったら、わたしは今頃生きていない」
「不謹慎なこと言わないでください」
ハルバラドの声が高くなった。それを手で抑え、アラゴルンは笑った。
「彼は目配せひとつで火を操るんだ」
「……は?」
意味が飲み込めなかったのだろう、ハルバラドがぽかんと口を開ける。アラゴルンはくすくすと笑い、さっきまでそこに座っていた老人の姿を頭の中に描いていった。長い髪と髭にローブと杖——なんだか、まるで昔読んだ本に出てきた……。
——ああ、そうか。
脳裏にくっきりとあるイメージが浮かび、なぜだか納得してしまった。彼はきっと……。
——何度でも。
耳の奥で老人の声が蘇り、アラゴルンは目を細めた。また会えると言っていた。次はどんな現れ方をするだろうか。老人と話すまで、鬱屈した想いにとらわれていた心は、束の間軽くなっていた。
END