帰る場所
朝議を終えて執務室に戻ったボロミアに、控えの間の部下が「閣下」と声をかけてきた。
「ペラルギアの公使から、面会を延期して欲しいと連絡がありました。同席予定の将の到着が遅れているそうです」
「そうか」
やはり、と思いながらボロミアは返事をした。昨夜、当の公使と食事をしたのだ。その席で、将軍の到着が遅れているという話は聞いた。昨日までにハルロンドに着いている予定だったらしい。それが午後になっても現れないと。
何か悪いことが起こっていなければとボロミアが懸念すると、公使はそうではないと困ったように笑った。その将軍は、こちらに来る直前の予定が演習になっているそうだ。おそらく、それが長引いているのだろうということだった。
話題の将軍の演習は船の操舵だと聞いた。ならば、そのままハルロンドまで来る可能性もある。他に差し迫った用もないことから、ボロミアは当日ぎりぎりまで待つと返事をしておいた。
「到着次第、報せるよう返事をしておきました。二、三日のうちなら都合を付けると……。よろしかったでしょうか」
「ああ。充分だ」
数日後、今度はボロミアのほうに演習の予定が入っている。それまでにペラルギアから人が来なければ、日程を仕切り直すしかあるまい。公使だけで話が進められないかと思ったが、用件が軍事面のことであり、専門的な知識のある将の同席は必要なのだそうだ。
ボロミアはマントを脱ぎながら、執務机に向かった。机には書類が幾つかあったが、どれも急ぐものではなかった。
——さて、どうするか。
昼食まで時間が空いた。これが夕刻の話なら執務もほぼ片づく頃と、主君のご機嫌伺いに行くのだが、昼間から然したる用もないのに出向いては、執務の邪魔になるだけである。予定を思案しながら、裏返しになっていた書類を手に取れば、それは第一環状区の修復工事の計画書だった。
第一環状区はモルドール軍に攻め込まれた際、甚大な被害を受けた。門はギムリの協力で元通り以上の姿になり、主要な施設も修復されているが、未だ損壊したままの建物は少なくない。これまで、そういった箇所の修復は延び延びになっていた。賄うだけの予算がないという理由づけで——。
当初、それらを静観していた国王エレスサールだったが、進み具合の遅さに業を煮やし、とうとうひと月程前、
——都の修復が完了するまで、式典ならびに宴はいっさい取り止める。その分の予算を修復にまわせば良い。
と、爆弾発言をかまし……もとい、仰せになられた。それ以降、取り残されていた箇所の工事が急ピッチで進められるようになった。
現在、諸侯諸官は「修復作業は急ぎ行いますゆえ、典礼や宴は通常どおり……」と、頑固な王を頷かせることに必死である。ボロミアや執政である弟のファラミアにも、彼らから国王説得への協力要請が幾度となくあった。しかしながら、差し迫った典礼や宴の類がないため、大事ではないと二人とも聞き流している。
そうした工事の一件である計画書がボロミアの手許にあるのは、工事範囲に軍の備品倉庫が含まれているためだった。
——確か、一昨日、始まったはずだ。
ボロミアは、朝議に纏っていったマントではなく、灰色がかった地味なマントを手に取った。
「お伴します」
外出を察した副官が立ち上がった。
「構わなくていい」
そう言ったが、生真面目な部下は頷かなかった。
「そうは参りません」
「工事の視察に行くだけだぞ」
「ご案内します」
マントを羽織った副官は先に立って歩き始めた。
◆◇◆◇◆◇◆
街の様子を見ながら、徒歩で第一環状区まで下りた。修復現場では損傷した建材が取り除かれ、その作業が終わった区画には足場が組まれていた。櫓のようなそこを、荷物を担いだ職人がひょいひょいと登っていく。その身軽さにボロミアは感心した。
「まるでエルフだな」
「ええ、本当に」
頷いた副官が辺りを見回して言った。
「ここは滑車を使えないんですね。彼らのような存在は貴重でしょう」
そういえば、以前、見た現場は滑車を利用して、高所へ建材や道具を運び上げていた。今、目にしている現場は場所が悪いのか、他に何か理由があるのか、彼の言うとおり滑車はなかった。
「詳しいな」
ボロミアが振り向くと、副官は照れたような、けれど、少々誇らしさの覗く笑みを浮かべた。
「ほんの聞きかじりです。詳しい知り合いがおりまして——」
話しかけた副官の視線が、ふと動いた。彼の視線を追うと、何かを焼いているのか、火を焚いている若い男の姿が目に入った。その若者は炎の中にやっとこを突っ込み、何かを取り出した。それが何か見定める間もなく、若者はやっとこを振り上げ、それを投げ上げるように飛ばした。真っ赤に焼けたものが宙を飛び——、
別のやっとこの間に挟み取られた。
若者の頭上で作業をしていた、面差しのよく似た年輩の男——おそらく父親だろう——が受け止めたのだ。彼はつかみ取ったものを鉄の枠にはめ、鎚で打ち込み始めた。若者が投げたのは焼いた鋲だったのだろう。
「大したものだな」
「はい」
副官は誇らしげに頷き、親しみの籠もった目で彼らを見ていた。
「知り合い、というのは彼ら父子のことか」
「はい。父親のほうは昔、家で働いていました。子供の頃、彼——息子のほう——とはよく遊びました。今でも付き合いがあります」
「そうか」
そのとき、作業をしていた若者がふとこちらを向いた。副官を認めて軽く会釈をする。副官は片手を挙げてそれに応え、ボロミアに言った。
「ご紹介しましょう」
◆◇◆◇◆◇◆
副官の知人である職人の父子との話を終え、ボロミアは一人、修復現場の中を歩いていた。もうすぐ昼時ということもあり、副官には職人父子と一緒に食事をしろ、と言って置いてきた。
副官ははじめ、そんなわけにはいかない、帰路もお伴すると言って聞かなかったが、それなら大将の館の昼食に職人の二人も一緒に招こうと言った途端、黙ってしまった。何より慌てたのは職人の父子(彼らは最初から恐縮しっぱなしだった)のほうで、引き攣った顔でボロミアを見ていた。
結局、副官が折れ、「まっすぐお帰りください」という、上官をなんだと思っているのかという言葉で、ボロミアを送り出してくれた。
——アラゴルンでもあるまいし……。
苦笑したボロミアだったが、視察に来たのだからもう少し……と、修復現場をひと巡りし始めた姿が、部下からすれば“寄り道”だということには気づかなかった。
「よぉ、うまそうな匂いだなぁ」
歩いていくと、前方から声とともにシチューの匂いが漂ってきた。昼食の支度をしているのだろう。
「匂いだけじゃないぜ」
「おっ、ほんとだ。こいつはうまい。——いいのを雇ったな」
どうやら、新しい料理人の腕がかなり良いらしい。旅を共にした庭師を思い出しながら、ボロミアは微笑ましい気分で声が聞こえてきた方を見遣って——、
目を疑った。
視線の先で職人相手にシチューをよそっているのは、黒っぽいマントを引っかけ、くすんだ緑色のコートを着た野伏、アラゴルン——ボロミアの主君その人だった。
◆◇◆◇◆◇◆
「——まったく。あの連中も連中だ。自国の王の顔も知らぬとは」
苛立たしげにボロミアがこぼすと、隣を歩く男がのんびりと言った。
「それは仕方ないだろう。わたしはこちらに来て、まだ日が浅いのだし……」
フードの下から宥めるような青灰色の瞳が覗く。玉座に就いて“まだ日が浅い”——それでも一年は過ぎているが——ゴンドールの王だった。
——たまには昼間の様子も見てみたいと思って……。急ぎの仕事はなかったんだ。だから……。
シチューの鍋の前でボロミアに睨みつけられた野伏は、ちらちらと上目遣いでこちらを見ながら、子供のような言い訳をしてくれた。
急ぎの仕事がなかったから? それがなんだ。国王が単身ふらふらと、ほっつき歩いていいものか。しかも「たまには昼間の様子も」とはどういうことだ。夜間は頻繁に出かけているということか——と、怒鳴りつけたいのを堪え、ボロミアは無言で主君を促すに留めた。アラゴルンはおとなしく付いてきたが——、
「それに、あそこの職人は他の土地から働きに来ている者が多い。ミナス・ティリスの者ならともかく、王の顔など一生知らぬままだろうよ」
軽く笑う様子に反省の色は見られなかった。
「だから、そんなことで怒るな」
「しかし、わたしの顔は知っていたぞ」
不機嫌の最大の理由はそこではなく“主君の悪癖”だが、ボロミアはとりあえず返事をした。実際、彼らはボロミアが近づいていくと、信じられないものを見たような顔で固まってしまった。一目でボロミアが何者か認識したことになる。
「それは、あんたが遠征や演習で他の土地にも出向くからだろう。——ああ、あと絵姿で見たと言っていたな」
そんなことはあの場で言っていなかったはずだが……、いったいいつ聞いたのか。いつからあそこに居たのか。眉間のしわが深まるボロミアなど目に入っていないがごとく、主はくすくすと笑った。
「色男の姿は多くの人が愛でたくなるらしい」
——何が“色男”だ。
しかし、絵姿というのは良い手かもしれない。
「では、あなたの絵姿もつくらねば。そして国中に広めよう。さすれば、自国の王の顔を一生知らぬままなどという、不届き者もいなくなる」
言った途端、隣の歩く足がぴたりと止まった。
「おい……止めてくれ。微行が出来なくなる」
どういう理屈だ、と引っかからないではなかったが、覿面の効果にボロミアは愉快になった。
「ならば尚更せねばなりませんな」
にやりと笑うと、アラゴルンは心底おもしろくないという顔をした。
「そういうことなら……、わたしにも考えがあるぞ」
硬い声が脅し文句を告げる。
「どのような?」
勅命で絵姿を禁ずるつもりか、或いは——と、考えを巡らすボロミアの耳に、低い呟きが届いた。
「帰る——」
ぼそりとした声の後、妙に明瞭な言葉が続いた。
「北へ、アルノールへ」
黒いマントが翻り、隣にあった姿が背を向いた。大きく距離が開く。ボロミアはとっさに離れていく腕をつかんだ。そのまま右腕を捻り上げ、同時に足下を払う。バランスを崩させた痩身を引き寄せ、もう一方の手で肩を鷲づかんで脇の壁に押しつけた。ぎり、と睨みつけた相手はなぜか驚きの表情で、その美しい青い目を見開いていた。
「……冗……談だ」
信じられないことを掠れた声が言った。
「……冗談だと?」
問えば、こくりと頷く。しかも、その顔には僅かに怯んだ表情があった。どうやら、本気で言ったわけではないらしい。
「冗談でも……いや、冗談で口にすることか。軽率に過ぎるぞ」
「悪い。……確かに軽率だった。もう言わない」
申し訳なさそうに言われたが、ボロミアは舌打ちしたくなった。これは「もう言わない」という話ではない。先程のような内容を軽々しく口にするということは、彼が自身の存在をそれくらいにしか考えていないという裏返しなのだ。
「本当だ。二度と口にしない。だから——」
アラゴルンの顔が苦しげにゆがんだ。
「手を放してくれないか」
そう言われて、捻るように腕をつかんだままだったことに気づき、慌てて放した。
「あ、ああ、すまない。……失礼した」
「いや、いいさ。わたしが悪かった」
アラゴルンの左手がぽんとボロミアの肩を叩いたが、主の腕を捻り上げていいわけがない。そっと腕を取って袖をめくれば、思ったとおり、くっきりと握った跡が付いていた。思わず顔が曇る。
「気にするな。大したことじゃない」
アラゴルンは穏やかに笑った。しかし、ボロミアが手に取った右腕を軽くまわすと——、
「っつ……」
彼の口から低い呻きが漏れた。相当痛むはずだ。治療が必要である。
「寮病院に寄ろう」
だが、自身のことに無頓着な主君は、呆れた顔で首を振った。
「そんな大袈裟な……。大したことないと言っただろう。日が経てば治る」
「何を悠長な! 軽く見て腕が使えなくなったらどうする!」
自分が力まかせに捻り上げたのだ。「大したことない」わけがない。
「落ち着け。放っておくつもりはない。自分で処置するから心配するな。冷やして消炎の薬を塗っておけば充分だろう。後は……しばらく無理な動きを控えればいい」
「それなら……」
ボロミアは渋々頷いたが、どうにも不安で念押すように訊いた。
「本当にきちんと手当てをするんだろうな」
「わたしはずいぶん信用がないんだな」
アラゴルンは肩をすぼめたが、すっとボロミアの顔を覗き込むと、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「だったら、大将殿が治療に来てくれ」
思いがけない言葉に虚を突かれた。なにしろ、普段は「大丈夫だ」「心配するな」で済まされてしまうのだから——。ボロミアが咄嗟に返事が出来ずにいると、彼はくいと首を傾げた。
「厭か?」
「まさか、厭なわけがない」
「じゃあ、その後、一緒に昼食を取ろう」
麗人はにっこり笑うと、何かを見上げるように首を動かした。視線を辿れば、建物の間から白き塔の姿が覗いていた。
「——帰るか」
その言葉とともに、再び黒いマントが翻った。ボロミアは無言で頷き、その背中を追った。唯一無二の主君の背を——。
END