賭け
霧ふり山脈の西でもオークの姿が珍しくなくなり、中つ国に再び暗黒の影が忍び寄る気配が濃くなっていた。そんな情勢であっても、ブルイネンへ続く流れが切り裂く谷は変わらず安息の地であったが、
——いつまで持つのか……。
裂け谷の憩いの館の主エルロンドは、己が手にある青玉の指輪を見つめ、そっとため息をこぼした。この力でどこまで対抗できるのか……。闇の勢力に対する良策は見つかっていない。
しかし、命運を決する時は確実に近づいている。その生涯に大きな動きがあると予見された人の子が今、この谷にいる。
——エステル。
のぞみ、と名付けたのはエルロンド自身だった。王を意味する言葉を冠した真名を隠すためもあったが、真の理由は幼子の将来に中つ国の希望を見たからだ。けれど、その“のぞみ”は未だ幼い。素性も知らず——知らされず——育っている。
——それでいい。
エステルの身の安全を考えてのことだった。だが、聡い子供は既に違和感を感じている。
——どうして僕の耳はみんなのように尖ってないの?
最初はそんな他愛ない質問からはじまった。それが、なぜ自分と母がエルフでなく、年月を経ると外見に変化が生じるのか。なぜ、人間の身がエルフの館にいるのか——、
自分は何者か?
核心を突く疑問に変わるのに、大した歳月はかからなかった。
——智恵者殿はいつまでこの茶番を続けるおつもりかな?
黄色い髪を持つエルフがからかうように言った。曖昧な疑問を抱かせたまま育てるより、真実を教え、気構えを持たせてやったほうがいい——バルログと戦い、マンドスの館から舞い戻った剛勇の者らしい考えだった。だが、それはエルロンドの考えと異なる。
——あの子が自分の力で自身を守れるようになるまで。
——なるほど。
強大な悪鬼を倒したエルフはくすりと笑った。
——弟御のお血筋のこと。思うようになさると良い。
——言われずとも。
それで話は終わった。彼と諍いを起こすつもりはない。父であるエアレンディルがまだ子供だった頃、陥落するゴンドリンから逃れる彼らのために、断崖絶壁の隘路で血路を開いたのが金華家の宗主である彼、グロールフィンデルだ。
——弟御のお血筋のこと。
口ではうそぶきながら、彼もまた、この地の養い子の行く末を気にかけている。エアレンディルにつながるドゥネダインの命運を。だからこそ、真実を教えるべきだと言うのだろう。だが、
——義父上。
そう呼んで見上げる眼差しは、未だエルロンドの胸にも届かない。その肩は細くか弱い。過酷な運命を背負わせた途端、折れてしまいそうだ。受け止める力が付くまで待つべきだろう。特に今は、イシルドゥアの末裔だと知れるだけで命を狙われかねない情況だ。何より——、
力を取り戻しつつある冥王に対し、決め手がない。頑是ない子供に真実を知らせるか否かより、そちらのほうが問題だ。
物思いに耽りながら、エルロンドが回廊を歩いていくと、ひっそりとした歌声が聞こえてきた。開いた窓の向こうに豪奢な黄金の髪が見える。
——珍しい。
彼がこんなふうに歌うのは、ここしばらく聞いたことがなかった。どうしたことかと近づけば——、
「……エステル」
金華公の膝の上に、小さな頭が乗っていた。やわらかな波を描く黒髪が白い額と頬にこぼれ落ちている。
「お起こしにならないよう」
グロールフィンデルの指がするりと黒い髪を撫でた。
「昨晩、ご子息たちと夜更かしをしたようだ」
子息たちというのは、エルロンドの息子、双子のエルロヒアとエルラダンのことだた。あの二人は養い子の義兄を自任し、大層可愛がっているが、どうにも良からぬ影響ばかり与えているようでならない。つい先日もギルラインに苦笑されたばかりだった。
「可愛いものです。『義兄上たちは平気なのに、僕は眠くて……。僕も大きくなったら平気になるのでしょうか』と訊くのだから」
フッと、グロールフィンデルの口許が綻ぶ。
「それで膝を? よもや、金華家の宗主が、そのように人間の無礼を許すとは……」
子孫が金華家の宗主に膝枕をさせたと知ったら、アマンに辿り着き、天空を航行するようになった強者の父も驚くだろう。
「智恵者殿と同じくらい、わたしもこの子が愛おしいのですよ。主筋の末裔ゆえ」
もちろん、智恵者殿のことも、ご子息たちのことも——と、真意のわからぬ顔で、艶やかなエルフはさざめくように笑った。確かに自分たちの血統を遡れば彼の主、トゥアゴンに辿り着く。エアレンディルの父親は人の子のトゥオルだが、母親がゴンドリンの王トゥアゴンの娘、銀の足のイドリルだ。
「卿。賭けをしませぬか?」
隠れた王に仕えていたエルフが目を上げた。
「この子は先人の成し得なかったことを成し遂げる」
切り込むような口調だった。エルロンドは眉を顰めた。このエルフはアングマールの魔王の再来を予言している。
「それは予言か」
「まさか」
黄金のエルフは目を見開き、小さく笑った。
「智恵者殿もご存じであろう? この子の未来は混沌として曖昧、力のある者でも見定められませぬ。単にわたしが賭けてみたいだけですよ。成し得ると」
目を細めたエルフの手がそっと、膝の上の黒い髪を梳く。
「さて、養い親殿はどうお賭けになる?」
歌うような問いかけに、エルロンドは唇を引き結んだ。
「そのようなこと、賭けにならぬ」
おもしろそうな顔で、こちらを窺うエルフの視線を振り切るように踵を返す。
「二者が同じほうに賭けては勝負にならぬだろう」
部屋を立ち去る背中にくすりと笑う声が聞こえたが、エルロンドは構わず歩き続けた。数歩も行かぬうちに、背後からやさしい歌声が聞こえてきた。
END