気まぐれ
春のやわらかな陽射しが降り注ぐ正午過ぎ、イシリアン公ファラミアは王都ミナス・ティリスの大門をくぐった。アンドゥインの東岸、南イシリアンの大公であり、エミン・アルネンに居を構えるファラミアだが、執政職を兼ねているため、月の半分程はミナス・ティリスで過ごしている。
ファラミアがミナス・ティリスへ入るときは、いつも夕暮れ時だ。エミン・アルネンを朝発つと、だいたい日の暮れる頃に着く。今日、昼過ぎに到着できたのは、昨夜、オスギリアスで一泊したからだ。ペラルギアの公使が滞在中だったので夕食を共にした。ペラルギア周辺の近況を詳しく聞くことができ、有意義な時間を過ごした。
今朝は朝食前に公館のまわりを歩き、街の様子を眺めた。モルドールとの戦いで破壊され、一度は廃墟となったことを思うと、街が復興している姿は感慨深いものがあった。それもみな、帰還せし王エレスサールあってこそである。ファラミアは白の塔の下におわす人を思って視線を上げた。
見遣った先にそびえ立つのは環状区の隔壁で、エクセリオンの塔は見えなかったが、ファラミアの口許は綻んだ。
——今頃は昼食を召し上がっておいでだろう。
敬愛する主君のことを思いながら、馬を歩ませて環状区を上がっていく。行き交う人々がファラミアに気づき、道を空けながらさっと頭を下げる。その表情は明るい。ファラミアは会釈を返しながら、目を細めた。人々が明るさを取り戻したのも、やはり王おわすおかげ……と思ったとき、沿道に信じられない人影を見た。
建物の柱にもたれ、フードの陰からこちらを窺う細身の人物——。
灰色がかった濃緑色のマントは珍しくもない旅人の姿だが、すらりとしたシルエットは主君のそれだ。見誤ることはない。
城にいるはずの王がなぜこんなところに……という疑問は、残念ながら起こらない。エレスサールが「気晴らし」と称して城を抜け出すことは、不本意ながら側近の間で常識となってしまっている。止めようにも、野伏時代に得た知識と技術を最大に活かして抜け出してくれるため、事が発覚するのは執務室がもぬけの殻になった後ということがほとんどだ。
ひとつ珍しいと言えば、昼間に城を出ている点だろうか。執務室を抜け出すことはあっても、陽の高いうちに黙って城を出ることは——本人の言を信じれば——ないという話だったが……。
何にせよ、国王が単身で街をふらふら歩いているなど、臣下として見逃してはおけない。早急に城へお戻りいただくよう説得するのが筋だ。だが、衆目の前で馬上から「陛下」と呼ぶわけにはいかない。かといって、目立たぬよう後を追えば、撒かれておしまいである。
とにかく主から目を離さぬようにし、どう手を打とうか考えていると、濃緑色のフードの端がすいと指で持ち上げられた。青灰色の眼差しと視線が合う。ファラミアが見ていることに気づいた——というより、見つけてほしくて、わざと目に付く場所に立っていたのだろう。エレスサールは軽く頷くと、さっと身を翻し、小路へ姿を消した。
——付いてこい……ということか。
ファラミアは次の環状区の門をくぐったところで馬を下りた。
「ファラミア様?」
「どうなさいました?」
随行者三名は慌てたように馬を止めた。そのうちの一人、イシリアンの若い野伏にファラミアは言った。
「マントを貸してくれ」
「は?」
「マントを貸せと言っている」
ファラミアは自分のマントの留め具を外しながら、もう一度言った。
「あ、はい……」
若い野伏は訳がわからないという顔をしながら、マントを脱いだ。それを受け取って羽織り、ファラミアは襟に金糸の刺された自分のマントを若者に渡した。
「あの……」
「着ていっていいぞ」
「と、とんでもありません!」
裏返った声を出す若者は相手にせず、ファラミアは年嵩の野伏を振り返った。
「寄るところができた。お前たちは予定どおり、館まで行ってくれ」
「お伴します」
付いてこようとする野伏を、ファラミアは「いや、いい」と断った。
「一緒だと目立つ。それより、館に到着が遅れると伝えてくれ。それと——」
ファラミアは声を潜めた。
「侍従長に伝言を頼む。日暮れまでには陛下をお連れすると」
“陛下”の単語に事情を察したらしく、年嵩の野伏はハッと息を呑んで厳かな声で返事をした。
「かしこまりました」
「馬を頼む」
ファラミアは愛馬の手綱を野伏に渡すと、フードをかぶり、来た道を戻っていった。
◆◇◆◇◆◇◆
主君が姿を消した小路をたどっていくと、程なくして建物の陰から「ファラミア」と静かな声に呼ばれた。振り向けば、先ほど目にした濃緑色のマント姿があった。パイプ片手に建物に寄りかかっている格好は悪く言えば無頼の者、良く見ても異郷の旅人で、いかに想像力豊かな人物でも、これを王だと思うことはないだろうという有り様だった。
「こんなところで何をなさっておいでです?」
口調が詰問調になったのは、この場合、致し方ないことである。だが、齢(よわい)九十を超えようという主君は、臣下が少しばかり険しい声を発したところで動じない。邪気のない顔でにっこり笑った。
「執政殿に早く会いたくなってね」
こういうことをうれしそうに言うからタチが悪い。もっとも、そんな言葉を鵜呑みにして喜ぶほど、ファラミアは素直にできていない。
「さようでございますか。光栄に存じます」
慇懃な言葉を紡ぎながら、主君に歩み寄った。
「ですが、わざわざ玉体をお運びいただかなくとも、登城いたしましたら最初にごあいさつに参ります。お一人でお出かけになることはお控えください」
距離を詰め、彼がもたれている壁にトンと手を付く。エレスサールは少々気圧されたように顎を引いたが、笑顔は崩さなかった。
「それはわかっているが、待っていられなかったんだ」
可愛らしい台詞を吐き、こくりと首を傾げる。他の者が同じことをしたら十中八九からかっているのだと思うが、エレスサールの場合、これが自然体なのである。
「そうまで恋しく思っていただけるとは栄誉なことと存じます、が——」
そっと主の頬に手を添えて、囁くのは甘い言葉ではなく、単独で出歩くのは止めるように説得——のつもりだったが、出だしで「そうじゃない」と遮られた。
「あなたが城へ入る前……いや、館へ着く前に話したいことがあったんだ」
「……何でしょう?」
ファラミアは僅かに眉を顰めた。軽い調子で言われたが、自分が館に着く前に聞いておかねばならないのなら、重要な——それもあまりよろしくない——用件である。
「オスギリアスでペラルギアの公使と会っただろう?」
「ええ」
オスギリアスで一泊する予定は、エミン・アルネンを発つ際、早馬で報せておいた。
「最近、白の山脈のふもと——ギルライン川の支流の集落から働きに出てくる女が多い、そういう話を聞かなかったか?」
働きに出てくると言えば聞こえはいいが、はっきり言えば娼館へ売られてくる女である。確かに増えていると聞いたが……。
「なぜ、それを……」
「野伏から聞いた。オスギリアスでも、新入りはあの辺りの出身者が増えているらしいな」
ファラミアは頷いた。ペラルギアやオスギリアスだけではない。叔父の領地ドル・アムロスでも、新顔は白の山脈のふもとからが多いという話が耳に入っている。
「ひとつの地域からの身売りが多いというのが気になってね。山脈のふもとということだし、こちらの耳に入っていない災害でもあったのか、それとも凶作続きだったのか、または山羊や牛に流行り病でも出たのか……調べさせた。が、特にそういった記録や報告はなかった」
エレスサールは肩をすぼめ、ため息を落とすと歩きはじめた。ファラミアも隣に並んで歩き出す。
「記録の上ではごく普通……いや、それどころか、家畜の育ちが良いからと、大量のチーズが献上されたという記載があった」
つまり、記録の上では家畜を肥やせるほどにまぐさも十分あり、次から次へと女が身売りするような事情は見当たらないというわけだ。
「当の女たちは何と言っているんです?」
娼妓の身の上話は客の同情を引くためのつくり話とも言われるが、一から十までが嘘ではない。身売りするだけの事情があったのは確かであり、話の土台は事実のことが多い。だから真実味がある。
「それとなく当たってみたらしいが、みな『思い出したくない』で、後は口を閉ざしてしまうそうだ。彼女たちと同じく……と言っても、白の山脈は東西に長いが、まあ、山のふもとの出身だと言って話を振ってみても、効果がないらしい」
「それは……」
珍しいと思った。身売りの理由は語りたくなくとも、故郷の話なら饒舌になる者も多い。中にはロクでもない暮らしだったとかで「故郷のことなど口にしたくない」という例外もあるが、それでも最低だと悪態を吐くついでにぽつりぽつりとこぼれ出てくるのが思い出話というものだ。まったく話さないのは余程のことである。
「とにかく揃ってに口が固い」
エレスサールは苦笑した。
「なんとか数人から聞き出せたのが『借金の形』という、お決まりの文句だった」
確かにお決まりの文句だ。だが、借金の形は事実のような気がした。いったい何の借金なのか、それが問題だが。
「そんな彼女たちの出身地の領主が、二、三日前からミナス・ティリスに来ている」
エレスサールが意味ありげにファラミアを見た。
「身売りの付き添いですか」
つい口に出てしまった。なにしろ、今聞いた話が胡散臭過ぎる。領地が飢饉でもないのに、住民女性が次々に身売りするなど普通ではない。エレスサールが「それもあるかもしれないが……」と言いながら笑った。
「どうやら、目的のひとつはあなたのようだ。執政殿」
「わたし、ですか……?」
ファラミアは足を止め、目をしばたたかせた。
「ああ。執政閣下とお近づきになりたいと、いろいろ当たっていたようだ。その結果、いきなり館を訪ねても、やさしい執政殿は門前払いなさらないと知ったらしく、『閣下がミナス・ティリスに入られたら、ごあいさつに伺おう』と意気込んでいるそうだ。今頃、美女を土産に執政館で待ち構えているかもしれないな」
迷惑な話である。同時にエレスサールが「館に着く前に話したい」と言った意味がわかった。
ファラミアがエミン・アルネンとミナス・ティリスを行き来していることは誰でも知っており、大まかな予定はその気になれば把握が可能である。ミナス・ティリスに着いて以降のことなら、さらに予測は簡単だ。大門を通過したことがわかれば、さほど遅くないうちに館に入り、登城することはほぼ確実なのだから。それを阻止するには、今回のエレスサールのように不意の待ち伏せをするしかない。
「事情はわかりました。それにしてもお詳しい。よくご存じですね」
「軍務の者が教えてくれた。ある将軍に取り入っているらしく、軍務関係の者は幾人か引き合わせられたそうだ。で、会う相手ごとに『なんとか執政閣下に紹介していただけないか』と言っていたとか……。まあ、そんな話が聞こえてきたのでね。知らせておいたほうがいいと思って、待ち伏せさせてもらった」
「お気遣いありがとうございます」
知らせてもらったことはありがたく、何より主君が気にかけてくれたことが喜ばしい。ファラミアは素直に礼を言った。
「ですが、やはりお一人で出歩かれるのは感心しません。陛下御自らおいでにならずとも、誰かを寄越してくだされば十分だったと思いますが」
本心を言えば、エレスサールが出向いてきてくれたことはうれしい。けれど、この主君に絶対に言ってはならぬことだった。そんなことを伝えたら、エレスサールの微行の歯止めが利かなくなってしまう。
「それではつまらない」
ぼそりとエレスサールが言った。
「陛下」
咎める声を出せば、エレスサールはやれやれといった感じで肩をすくめた。
「我が親愛なる執政殿は、本当にわたしの言動に関しては融通が利かないな」
青灰色の瞳がすっと距離を詰め、ファラミアの顔を覗き込む。
「たまには快く、主の気まぐれに付き合ってみる気にならないか?」
「なりません」
即答すると、エレスサールは仕方なさそうに苦笑した。
「頑固なことだ」
「おそれながら、この件に関しましては陛下が柔軟過ぎるかと……」
「わかった、わかった」
エレスサールは小言は十分だと言うように、手をひらひらと振った。
「話は済んだからおとなしく城へ帰るよ。でも、昼食を取るぐらいはいいだろう?」
あなたもまだだろうし——と上目遣いに窺う眼差しは、たとえ本人が無自覚だったとしても、おねだりのそれである。
「いいでしょう」
ファラミアは渋々といったふうを装い、了承の返事をした。
「ありがとう」
にっこりと笑った主は、二軒ばかり先の店をついと指した。
「そこの店がうまいんだ。煮込み料理が評判だが、マッシュポテトのパイもいい。中に入っているチーズの風味が絶品なんだ」
そう言って、店へと歩き出す。
「旬のときに出てくる魚介料理もいい」
店の料理に詳しいことが、“常連”の証拠だと気づいていないのか、エレスサールはうれしそうに話す。
「ゆっくりできるなら葡萄酒も楽しめるんだが……」
恨めしげにちらりとこちらを見遣ったのがおかしくて、ファラミアは思わず笑みをこぼした。
「陛下がわたしの気まぐれにお付き合いくださるなら、お時間を取りますよ。食事の後も」
「あなたの気まぐれ?」
なんだ? とエレスサールの首が傾く。
「後ほどお話ししますよ」
ファラミアは穏やかな笑みで応じ、店の扉に手をかけた。
「まずは食事にしましょう」
「そうだな」
にこりと目を細め、エレスサールは扉をくぐった。その背中を眺め、今のような笑顔だけでなく、彼のあらゆる表情と声を独り占めできる時が訪れることを思い、ファラミアは微笑んだ。愉しい時間が約束されるなら、昼下がりの気まぐれも悪くはないと——。
END