迷い猫
国王の執務室に入ったファラミアは、いつものように机に主の姿がないことにひっそりとため息を落とし、暖炉の前の床に座り込んでいる後ろ姿を見て、またひとつため息を吐いた。
「陛下」
呼びかけながら暖炉のそばへ近づき、王の周囲に散らばった物を見て、ファラミアは眉を顰めた。——白い布、包帯、使われたばかりと思われる乳鉢。汚れた布が無造作に金属製の容器に突っ込まれ、そこからは蒸留酒らしき臭気が漂っていた。あきらかに怪我の治療の跡だ。
「いかがなさいました」
王の脇に跪くと、彼の左足に包帯が巻いてあるのが見えた。
「お怪我を?」
「大したことはない。少し捻っただけだ」
そう言って国王——エレスサールは笑顔を浮かべたが、ファラミアは思わずため息を吐いた。国王というのは少々の病や怪我でも『大事』なのだ。足を捻っておいて、「大したことはない」のひと言で片づけられるものではない。
「ファラミア。気にするな」
「気にします。お怪我もですが——」
執務室で書類を相手にしている人間が、足を捻るということからしておかしい。
「いったいなぜ足を捻るなどということに? 陛下は何もないところで転ぶほど、足下が不確かではございませんでしょう」
「ちょっと息抜きに塔へ行った」
「どちらから?」
エレスサールは返事をせずに肩を竦めた。
「陛下。窓や露台は出入り口ではございません」
エレスサールが単独で執務室を出入りする際、使われるのが窓か露台であった。もちろん無断で抜け出すためだ。おかげで、扉の前に立っている近衛兵が部屋の主の留守に気づかず、前触れなく訪れた者がもぬけの空となった部屋に呆然とすることが度々だった。
街に下りるのはともかく、城内や庭を散歩するくらいなら、ファラミアをはじめ周囲の者も禁じていない。人間、息抜きを入れることで仕事の効率も上がる。国王とてそれは同じだろう。禁止しているわけではないのだから、堂々と扉から出ていってくれればいいのだ。そう指摘する度、エレスサールは困ったように笑う。
——扉から出かけると、必ず供がついてくるからな。
どこへ行くにも供がつくことに未だ慣れないらしい。戴冠まで単独行の多い野伏として生きてきた彼は、城内を少し歩くだけでもぴったりとくっついてくる存在に、馴染むことができないらしい。
——城の中を歩くだけだ。すぐ戻ってくるから好きにさせてくれないか。
王位に就いて間もない頃、彼は遠慮がちに訴えた。
——四六時中、人について歩かれると落ち着かない。これでは、息抜きなのに息が詰まってしまって気分転換にならない……。
少しばかり気の毒だと、思わないでもなかった。
しかし、こればかりは慣れてもらうしかない。いくら城内とはいえ万が一ということがある。国王をふらふらと単独で歩かせるわけにはいかない。ゴンドールにとって——またファラミアにとっても——断じて失うわけにはいかない存在だ。
——そのうち慣れておしまいになる。
侍従も近衛隊長も鷹揚に構えていた。供がついて歩く機会が増えれば、その存在にも慣れるだろうし、国王とはそういうものだとわかっていただける——それが周囲に仕える者の一致した見解だった。だが、その考えは甘いとわかるのに、さほど時間はかからなかった。
妙なところで頑固な王は、どうあってもついてくる供を拒否するため、実力行使に踏み切ったのである。つまり、最初から供がついてこないよう、黙って抜け出すという方法で……。
ご丁寧に書き置きがあったため「一大事か!」という騒ぎにはならなかったが、これには鷹揚に構えていた周囲の者が慌てた。やがて戻ってきた王に、皆が説教という名の意見をしたが、黙って聞いてはいたものの彼の態度に反省の色は見られなかった。以後、国王の脱走は日常的になり、供に慣れてもらうつもりでいた臣下のほうが、彼の脱走に慣らされつつあった。
「陛下。塔にも窓からお入りになったのではありませんよね」
今度も返事がない。青灰色の目はあらぬ方向に逸らされている。
「陛下! お答えください!」
ファラミアが声を強めたとき、国王から「みゃあ」という声が上がった。
——みゃあ?
「みゃう、みゃあ……」
引き続き聞こえる声の在り処に目を遣れば、国王の膝の影からぴょこりと仔猫が顔を出した。
「ああ、すまない。起こしてしまったな。お前を叱っているわけじゃないから……」
国王は指先で、銀色の毛並みに黒い班、淡い翠の瞳をした仔猫をあやすように撫でながら、真摯に話しかけている。途中、耳慣れない響きの言葉が混じったのはエルフ語だろうか。
「……そうだ。本当は優しい人間だ。…………。脅えなくていい……」
「みゃあ」
仔猫は嬉しそうに王の手に頭を擦りつけている。
「……猫を飼っておいでとは知りませんでした」
「飼ってるわけじゃない。拾ったんだ」
同じことではないか。
「塔にお出かけの際、ですか?」
「まあ……そうだ」
「陛下——」
「いや、だから、……鳥に突かれてたんだ。この猫は」
「だから可哀想になったと……。それはお優しいことですね。ですが——」
「その……、わたしの足下に飛び出してきて、すっかり脅えさせてしまったし」
「……それはどういう?」
「渡りの回廊から飛び降りたところにこの猫が飛び出してきて、間一髪で避けたんだが、危うく踏みつぶすところで……まあ、それですっかり脅えさせてしまって……」
ファラミアは眉をぴくりと動かした。
「なんとおっしゃいました?」
「だから、わたしが飛び降りたところに仔猫が飛び出してきて……」
「それで、陛下は避けようとして着地の体勢を崩した……つまり、陛下の怪我の原因はその仔猫だと——」
仔猫を見るファラミアの目が険しくなった。エレスサールが慌てて言い繕う。
「いや、この猫は近くに巣をつくっていた鳥に突かれて、パニックになっていたんだ。だから……」
「回廊から飛び降りたあなたが悪いんですね」
「……そう……なるな」
がっくりと肩を落とした王を見て、ファラミアは態度を少しやわらげた。
「それで、どうなさるんです? その仔猫。陛下が面倒を見るおつもりで?」
「いや、毛並みもきれいに手入れされているし、外に慣れていないようだから、どこかの飼い猫だろう。ファラミア、手間をかけてすまないが、飼い主を捜してやってくれないか」
「承知しました。それでは、その猫はこちらで預かりましょう」
ファラミアは王の手にちょこんとおさまっている仔猫に手を伸ばした。途端——
「みゃう」
仔猫はファラミアの手を逃れ、するすると国王の腕をよじ登り、あろうことかその頭の上に乗ってしまった。
「な……」
「みゃ〜お」
仔猫は、あっけにとられているファラミアを見下ろし、一人前に威嚇するような鳴き声をあげた。国王の頭の上から……。
「なんというところに」
一瞬、自失したものの、慌ててファラミアは仔猫を王の頭から引き離そうと手をかけた。目の前におわしますは恐れおおくも畏くも、遡れば伝承の英雄たちへとつながる血筋の人物。猫に頭を踏みつけさせておいていいわけがない。
「みゃうみゃ〜う」
「あ、いたっ。こら、爪を立てるな」
国王が顔を顰めて頭に手を置いた。引き剥がされまいと爪を立てて、ファラミアの手に抵抗していた仔猫は、すかさず王が伸ばした手にすり寄った。
「大丈夫ですか」
「ああ、大事ない。ファラミア。もういい、構うな。引き離そうとすれば余計に爪を立てるだけだ。わたしも頭を引っ掻かれたくない」
「ですが……」
ファラミアは諦めきれずに王の頭を見た。ゴンドールとアルノールの二国を統べる王が……、我らフーリンの家の者が千年待ちわびた王が、頭に猫を乗っけているなんて……あんまりではないか。
「そのうち飽きて下りるだろう」
臣下の胸の内も知らず、エレスサールはのほほんと言って立ち上がった。頭にちんまりと仔猫を乗せたまま……。
「おとなしくしていてくれるなら、執務の邪魔にもならんしな」
何事にも寛容だと評されるエレスサール。人柄そのままの大らかな発言をすると、左足を庇いながらもスタスタ歩き(裸足のままだ)、執務机に戻って書類に目を通し始めた。その頭上では仔猫が小さく欠伸をし、昼寝を始めてしまった。
ファラミアはそんな国王の姿を切なげに眺めた。普段、国王自身に“切れ者”と評される冷静な執政官も、猫が相手では勝手が違った。王の“王らしからぬ”行動にはため息を零すのが定番だが、今回はそれを通り越し、涙が零れそうになった。
——いや……。
この有り様を見たら、本当に落涙する者が出るかもしれない。
「ファラミア」
「……なんでしょう」
「何か用があって来たんだろう? まさか叱りに来ただけ、ではあるまい」
その言葉にファラミアは愕然とした。自分が仕事に関して他人——それも脱走癖のある王——に言われてようやく思い出すとは……。
「……陛下のあまりのお姿ゆえ、忘れておりました」
「あまりのお姿って……。そんなに酷いか?」
エレスサールは僅かに首を傾げた。いつもより角度が緩いのは頭上の仔猫のためだろうか。
「猫を頭に乗せて執務を行う王は、ゴンドール始まって以来かと」
確かめていないがきっとそうに違いないと、ファラミアは恨めしげに国王を見た。
「そう気にするな」
王は鷹揚に笑ったが、彼の姿を見る者としては、どうしたって気になる。頭の上で仔猫がちまっと寝ているのだから。
「見ているほうとしてはそうも参りません。非常に気になります」
「そういうものか……? そうだな、自分では見えないからな」
いささかズレたところで臣下の戸惑いに納得した王は、けれど仔猫を下ろすわけでもなくただ笑うだけだった。
「まあ、今だけだ。飼い主が見つかれば帰るさ」
その飼い主は、飼い猫が国王の頭を寝床にしたと知ったら卒倒するだろう。
「——それで、用は?」
「こちらの書類に署名をお願いします」
まだ、仔猫が気になったが、これ以上こだわっていると仕事が進まない。ファラミアは無理矢理頭を切り換えて、巻いてあった書類を執務机に広げた。エレスサールが目を通し、ペンを走らせる。
「ありがとうございます」
礼を述べて書類を巻き直し、改めて王を見遣れば、頭の上では相も変わらず仔猫が気持ちよさそうに眠っている……。気にするなと言われても無理、慣れるのも無理である(断じて慣れたくはない)。眠っているのなら大丈夫かと、ファラミアが仔猫に手を伸ばしたところ——
「……みゃう」
敵は途端に目を覚まし、主君の頭にしがみついた。爪を立てられて、エレスサールが顔を顰める。
「ファラミア……」
「失礼しました」
仕方なくファラミアは手を引っ込めたが、こんな姿が人目に触れたらと思うと放っておけない。
——どうして、この人は……。
どこに出しても恥ずかしくないお姿、のはずなのに、人前に出すのに困るようなことばかりなさるのか……。ファラミアは深々とため息を吐いた。
「ファラミア。たかが仔猫じゃないか。気にするな。人間が乗ってきたら、わたしも追い払うが……」
国王が軽口を叩き始めたが、ファラミアはこれ以上付き合う気はなかった。自分は——特に国王の振る舞いに関しては——寛大な人間ではない。
「陛下——」
声のトーンを下げてじろりと睨む。
「……すまない。失言だ」
危険を察知した王は素直に詫びた。
「わかればよろしいのです」
「その……そんなに気になるなら、早く飼い主を見つけてくれ」
「かしこまりました。全力で捜しましょう。めでたく飼い主が見つかりましたら、その猫、引き剥がしていただけますね」
「引き剥がすって……」
「しばらくの間、この部屋には誰も近づけませんから、陛下もあちらこちらへお出ましになりませんよう」
幸い、今日は国外からの来客はない。諸侯との面会も、将軍や高官との会談も、本日分は全て済んでいる。この後、王の滑稽……もとい、少々変わった姿を目にする可能性があるのは、近習の者ばかりだろう。彼らは王の奇行……いや、風変わりな行動に少しは慣れている。うっかり目にしてしまったのが身の不幸と諦めてもらおう。
「部屋を出るときは下りてもらうよ……」
ぼそりと低い呟きが聞こえた。だったら今すぐ下ろして欲しいものである。第一、彼には頭上の仔猫以外にも問題がある。
「仔猫を下ろしても出歩かないでください。足を痛めてらっしゃるんですから」
「いや、これくらいは……」
「——陛下」
「……わかった。おとなしくしている」
「ご理解いただきありがとうございます」
物わかりの良い言葉を引き出して、ファラミアは満足げな笑みを浮かべ礼を取った……が——
「みゃう」
翠の双眸と視線がぶつかった。
——即刻、飼い主を見つけ出してくれる。
ファラミアは決意を胸に執務室を後にした。
END