今生
夕食後、自室に引き取ったリダーマークの王子セオデンは、早々に休むと言って部屋係を追い出した。さっさと灯りを消す。けれど、その後は寝台に入らず、マントを羽織って窓を開けた。エドラスに吹く強い風が篝火を揺らしている。
セオデンは近くに兵士の目がないことを確かめ、外に出た。星空の下、暗い平原が広がっている。セオデンは篝火を避けながら、黄金館を抜け出した。
かの人が夜番のとき、同じように部屋を抜け出したことがあった。麗しい人は感心しないと眉を顰め、部屋へ戻るよう進言したが、最終的にセオデンの頼みに折れてくれた。彼が旅をしたときの話、戦いの話、星にまつわる話——問うままに話してくれた。
翌朝、自室の寝台で目が覚めたため、夢だったのかとがっくりしたが、
——あまりわがままを言って臣下を困らせるな。
父に叱られたため、現実の出来事だったのだと実感した。叱られたことより、夢でないとわかったことがうれしかった。それからも度々、彼が夜番のときに抜け出しては訪ねたが、そばにいることはできなかった。セオデンが部屋へ戻らないと、彼はさっさと近衛を呼ぶようになった。
まったく相手にされないのは悔しかったが、それでも、かの人に対して腹立たしさは感じなかった。あと数年もすれば、自分も大人になる。杯を交わしながら、夜を明かすこともできる。そう思っていた。けれど……、
——殿、ソロンギルの任を解いたとは真ですか。
夕食前、将の一人が父に訊いていたのを耳にしてしまった。
——これまでに充分、力は借りた。そろそろ飛び立ちたい頃だろう。
——何を悠長な……。
——仕方あるまい。あれには背負った星がある。そういう鷲だ。
彼——星の鷲が、いつかこの地を去ることは承知していた。一度、自分には仕えてくれぬのかと訊いたことがある。彼の答えは、
——申し訳ございませぬ。
否定だった。それならそれでいいと思った。少なくとも今はそばにいるのだから。だが、やはり……、
——いいわけがない。
別れはもう少し先の話だと思っていた。
◆◇◆◇◆◇◆
「殿下。いくらエドラスとはいえ、夜分、お一人で出歩かれるなど不用意な行動はお慎みください」
眉を顰めながらも、ソロンギルはセオデンを家の中へ入れてくれた。
「お寒かったでしょう。今、温かい飲み物をご用意しますから」
「そんなものはいい」
セオデンは彼の心遣いを断った。
「それより——、父が任を解いたと聞いた」
ソロンギルは僅かに目を見張ったが、表情が動いたのはそれだけで、すぐにいつもどおりの穏やかな顔になった。
「はい。お許しをいただきました」
「エドラスを出て、どこへ行くのだ?」
尋ねはしたが、答えは聞かずとも察しはついた。
「ゴンドールか?」
「はい」
ゴンドール——セオデンの生まれた地だ。幼い頃を過ごした壮麗な都の姿が脳裏に浮かんだ。麗しき白き貴婦人、ミナス・ティリス。石造りの立派な建物が建ち並ぶさまは、かつて隆盛を誇った王国の偉容を今に伝えている。モルドールの暗い空を眺める位置にありながら、灯火の下に雅やかな人々が集い賑わう、白き都の姿はどこまでもきらびやかだ。
若いときをゴンドールで暮らした父は、あの都に惹かれた。父が王になってから、エドラスではゴンドールの言葉が使われるようになった。ミナス・ティリスのことを話すときは、とても懐かしそうな顔になる。それだけ人を惹きつけ、取り込んでしまう街だ。
——きっとこの男も……。
セオデンは黒髪の麗人を眺めた。ミナス・ティリスで暮らせば、エドラスで過ごした時など色褪せてしまうだろう。
「ゴンドールへ行ったら、エドラスのことも、わたしのことも忘れてしまうんだろうな……」
しばらくは憶えているかもしれない。けれど、離れれば自然と記憶は薄れる。きらびやかな街で暮らせば尚更だ。
「殿下はわたしを斯様な薄情者とお考えですか」
そのように思われていたとは寂しいですね——そう温かな声が続いた。何を言う。薄情には違いないだろう。エドラスを……、
——ローハンの民を捨てていくのだから。
そう言ってやろうかと思った。だが言えなかった。はじめからわかっていたことだ。星の鷲はローハンの将であっても、民ではない。民になることは可能だったろう。けれど、それをこの男は選ばなかった。
「殿下」
ローハンの民になることを拒んだ将が、セオデンの手を取った。
「わたしは確かにこの地を去ります。しかし、どこへ行こうと殿下や、殿下のお父君、エオルの子らのことは忘れませんよ。中つ国のどこにいても、リダーマークの国の安寧をお祈りしております」
剣を操る骨張った手が、セオデンの手を包む。
「殿下こそ、きっと、わたしのような流れ者のことなどお忘れになります。けれど、それでい——」
「そんなことはない!」
セオデンはソロンギルの手を振り払った。
「殿下……」
瞠目する青い瞳をセオデンは睨みつけた。
「忘れないぞ! わたしは絶対に忘れない。生きている限り、絶対に——」
叫ぶうち、鼻の奥につんとした感覚が湧いてきて、セオデンはソロンギルの家を飛び出した。
「——殿下!」
声を振り切って黄金館への道を駆け上がる。灯りも篝火も、瞬く星も、目に映るすべての光が滲んでいった。
◆◇◆◇◆◇◆
古い石の像が点在する聖なる丘、そこに軍を募った夜、ローハンの王セオデンは人ならぬ客を迎えた。裂け谷に住まう智恵者、エルロンド。ローハン軍と行動を共にしている養い子を訪ねてきたのだった。
訪問者の立ち去った後、アラゴルンの天幕を訪ねると、彼は発つ用意をしていた。
「行くのだな」
「殿」
振り返った彼の手に雄々しい長剣があった。
「見事な剣だ」
「アンドゥリル——父祖の剣です。かつてサウロンを斬った……」
智恵者の用件はそれだったかと、セオデンは頷いた。冥王を斬った剣ならば、今度の戦いに有用やもしれぬ。しかし、続いた言葉には目を剥いた。
「わたしは死者の道を行きます」
他の者が言ったなら、気が触れたかと思っただろう。けれど、目の前にいる男が正気なのは疑いようもない。
「あの道は山の向こうへ通じています。山の民は——」
冷静な声が固い決意を告げる。
「イシルドゥアに連なる者になら従う」
「山の民とは、あの呪われた道の奥に棲む……?」
「ええ。かつての戦いでイシルドゥアとの誓約を破った彼らは、その身に呪いを受け、永遠に現世を漂う幽鬼となった。しかし、今一度誓約を果たせば——」
彼らの呪縛も解けるということか。だが、それも遙か昔の話だろう。あの道の奥に何があるのか、何ひとつわかっていない。確かに言えるのは、あそこへ足を踏み入れて帰って来た者はいないという事実だけだ。
「その誓約はまだ生きていると?」
「そう信じます。今は少しでも援軍が必要な時、躊躇ってはいられません」
自分にできることならばなんでもする、言葉以上に青い瞳が語っていた。化け物と対峙するには、それに匹敵する化け物の力が必要——そういうことなのか。
「しかし、あの道を行って帰ってきた者はおらぬ。ともすれば、我らは二度と会えぬかもしれぬ」
今ここで彼を失ったら……。ローハン軍が被る影響は大きい。物理的な戦力を削がれるのはもちろん、精神面で揺らぎが生じるかもしれない。ヘルム峡谷での彼の勇姿はマークの騎士たちに感銘を与えた。止めるのが良策だ。けれど——、
「では、わたしがあの道から生還する最初の者となりましょう」
揺るぎない声の前に、止める言葉は出てこなかった。
「ここで我々の道は別れるということだ」
セオデンは息を吐いた。
「しばしの間ですよ、殿。目指す先は同じです。ミナス・ティリスで再び会えましょう」
「そう祈ろう」
本当に再び会えればいい。そう思いながら踵を返そうとし、セオデンはふと昔を思い出した。
「これで二度目だな。ゴンドールへ発つそなたを見送るのは」
「憶えておいででしたか」
緊張していた麗人の顔にやわらかな笑みが浮かんだ。
「生きている限り忘れぬと申したであろう」
「そうでしたね」
そう言って目を細めた表情は、子供の頃、憧れた将の笑い顔と同じだった。あの頃も、周囲の人間に比べると、彼の姿はいつまでも若々しいと思っていたが——、
「変わらんな。そなたは」
まさか、いにしえの一族の末裔、それも王家の血筋だとは思いもしなかった。
「殿も、変わりませんよ」
西方の民の血を引く貴人が穏やかに笑う。老いたとわかっている身でも、「変わらぬ」と言われればうれしい。特に、この人物から言われると本気にしてしまいそうだ。その思考を飛ばすように、セオデンは笑った。
「そんなことはなかろう。当時、わしは十代の小僧だった。もし同じに見えるなら、相当目が悪いことになるぞ」
「けれど、殿の目にある光はお変わりありません。あの頃と同じです」
昔と変わらぬ、やさしい光を浮かべた青灰色の瞳がセオデンを見つめた。
「良い王になられた」
きっと良き王になられます——子供の頃、幾度か“星の鷲”から贈られた言葉だった。
「“星の鷲”にそう言ってもらえたらと思っていたが、まさか、自分より若造の姿で言われるとは思わなんだ」
「がっかりなさいましたか」
「いや——」
セオデンは首を振った。再び会えるとは思っていなかった。星の鷲がゴンドールから姿を消した後、その消息はまったくつかめなくなった。麗しい将の姿はいつしか記憶の底へと封じられた。再会の機会などないと——。
それが訪れたのだ。この危急の時であっても、彼と会えたことは素直に喜ばしかった。ヘルム峡谷の戦いでは、彼はまさしく望みだった。
「会えたことはうれしかった。——武運を祈る」
セオデンは踵を返した。肩越しに礼を取る姿が見える。次に会うとき、彼は隣国の王になっているかもしれない。だが、果たして——、
次があるだろうか。これが今生の別れでないと、どうして言える。彼の行く道は尋常ではないが、自分の進む道も安閑ではない。戦いは誰にとっても死と隣り合わせの場だ。
「死ぬな。そなたが死ねばゴンドールは永遠に王を失う」
「殿もご無事で」
「ああ」
ひとつ頷いて天幕を出る。あちこちで篝火が焚かれ、物々しい空気が漂っていた。夜が明ければ自分たちも発たねばならない。感傷に浸っている時ではない。けれど——、
セオデンは立ち止まって空を仰いだ。胸にほろ苦い想いが去来する。
——彼はきっと良い王になるだろう。
輝く星が記憶の将のブローチと重なった。
END
映画のあの場面を勝手に補完してみました。