憧憬
シリス川がアンドゥインに合流する地に開かれた港ペラルギア——王家の船の庭を意味する港湾都市はその名のとおり、ゴンドール軍にとって重要な地点となっている。
イシリアンが闇の勢力の手に落ち、アンドゥインの航行が脅かされるようになったが、船の往来が絶えたわけではない。ペラルギアには商船も多く寄港し、モルドールとの戦いが長く続く中でも栄えていた。
港を臨む丘には石造りの瀟洒な舘が建ち並んでいる。その舘のひとつで祝勝会が開かれていた。軽やかな楽の音が中庭にも流れてきている。
その中庭に佇む人影があった。年齢は二十歳程、品の良い顔立ちはまだ幾分幼さを残している。身に付けているのも仕立ての良さがわかる物で、彼が貴族なのは明らかだった。しかし、祝宴の客ではないのか、衣装に華やかさはなかった。
庭から明るい窓を眺めていた貴族の若者——ドル・アムロスの公子イムラヒルは肩を落とすと、小さくため息を吐き、花壇の端に腰を下ろした。
昨年、二十歳を超えたイムラヒルは夜会に出席することも多くなった。けれど、今夜の祝勝会への出席は父アドラヒルが許してくれなかった。軍人が多く出席するため、若年のイムラヒルに悪い影響が及ぶのを恐れた——というのが理由だった。
軍人といっても、すべてが荒々しい人間ではない。普通、夜会に招かれる軍人はそれなりの分別を備えた者が選ばれる。
だが、今夜の祝勝会は少々事情が違った。戦功をおさめた者の労をねぎらうのを名目としており、下位の者たちも多く交じっているという。位の上下がそのまま品位を表すとは言わないが、やはりその傾向は強い。軍で下位の者たちが使う言葉は荒く、品に欠けるのも確かだ。だから父がイムラヒルへの影響を考慮したのもあり得ない話ではなかった。しかし、
——嘘に決まっている。
灯火の漏れる窓を見上げ、イムラヒルは唇を噛んだ。嘘と言わないまでも、建前だ。なぜなら、姉のフィンドゥイラスは出席しているのだから。
品のない言葉が飛び交うの聞かせたくない相手としては、男のイムラヒルより、姉のほうにより気を遣うはずだ。
なぜ、フィンドゥイラスの出席は認められたか。それは今夜の祝勝会が、ドル・アムロスの公女フィンドゥイラスと、執政家の公子デネソールとの顔合わせの場に選ばれたからだ。
公子の妃にフィンドゥイラスをという話を、イムラヒルが耳にしたのは先月だった。それから縁談は駆け足でまとまり、ひと月足らずで顔合わせ——婚約となった。
父の元へはもっと早くから打診があったのだろうが、それにしても慌ただしい話だ。四十半ばまで独り身でいたデネソールだが、何か急ぐ理由でもできたのか……。イムラヒルには知る術もない。
慌ただしくはあったが、ドル・アムロスの大公家にとって悪い話ではなかった。ゴンドールを事実上統治する執政家と縁を結ぶ——それも次代の執政との縁談である。良縁と言っていいだろう。どこの家も喜んで受ける話だ。
敢えて難を挙げるとすれば二十歳違いという二人の年齢差だが、ヌメノール人の血を受け継ぐゴンドールの貴族の間では珍しくない話であり、それでこの良縁を断るよう主張する愚か者は一族の中に存在しなかった。
さて、姉の縁談がまとまったとなれば、次は弟君も……となるのが世間の例である。父が祝勝会へのイムラヒルの出席を許さなかった真の理由はこちらだろう。祝勝会でイムラヒルの縁談話が持ち上がるのを避けたかったのだ。
父にはイムラヒルの他に息子がいない。順当に行けば、イムラヒルが父の地位を継ぐことになるだろう。イムラヒルへの縁談はそのまま次期大公の妃選びになる。父が慎重になるのも当然だった。執政家との縁組みという重大事を抱えている今、これ以上、大事を増やしたくないだろう。
だから、父がイムラヒルの祝勝会への出席を認めなかった気持ちはわからないでもない。父はフィンドゥイラスにかかりきりなる。イムラヒルから目を離した隙に何かあっては……と用心したのだろう。
子供扱いするな——と言いたいところだが、イムラヒルとて、年若い自分が老獪な貴族相手に上手く立ち回れるとは思っていない。だから父の決定は仕方がないと納得している。納得してはいるが……、
——つまらない。
目の前で華やかな宴が開かれているというのに、爪弾きにされているのはつまらないものだ。宴に出席させる気がないなら、ペラルギアに連れてこなければいいものを……と言いたくなるが、明日は執政家の面々と狩りに出かけることになっている。そちらにはイムラヒルも同行するよう言われているため、ドル・アムロスに残っているわけにもいかなかった。ようするに宴と狩りが両家の顔合わせなのだ。
別に狩りそのものは嫌いではない。むしろ楽しみだ。
——この辺りだと獲物は鹿だろうか。
イムラヒルは舘の向こうに目を遣った。こんもりとした木立の影が見える。明日の狩りは郊外へ出かけるのだろうが、あそこにも鹿とは言わないが、何かいそうである。イムラヒルは立ち上がり、木立に向かって歩き出した。
夜風に木立がざわめく。揺れる枝の合間、何かが蠢いたように見えて、イムラヒルの足が止まった。父が言い残していった言葉が頭をよぎる。
——ペラルギアはアンドゥインに面した都市、渡河してきたオークが付近に出没することもある。無闇に出歩くでないぞ。
夜風より冷たいものを浴びせられた気分になり、イムラヒルはぶるりと身を震わせた。ごくりと唾を飲み込む。さすがにここにオークがいるとは思わないが……、イムラヒルはそろそろと向きを変えた。夜露に濡れた下草を踏み分け、舘の脇をまわる。
木立に面している建物は祝勝会の会場とも、イムラヒルたちが泊まっている建物とも別の棟だ。軍関係の招待客の宿泊に使われていると聞いた。まだ宴を楽しんでいるのだろう、ほとんどの部屋の窓は暗く、ひっそりと静まり返っていた。
二階でただひとつ、明かりの灯る部屋があった。何気なく近づいていくと、露台に人影が見えた。ほっそりとした長身のシルエットが浮かび上がっている。肩から背中に流れ落ちる長さの髪に一瞬女性かと思ったが、体つきと服装から男性だと判断した。夜陰にも目立つ青い瞳が印象的だった。
細身の体格は整った顔立ちも相まって軍人には見えなかったが、祝勝会の招待客なのは確かだろう。落ち着いた色彩ながら、華やいだ衣装を纏っている。
露台の麗人はイムラヒルに気づくことなく、ぼんやりと夜空を見つめている。いや、夜空ではなく、もっと遠いどこかを見ているような、そんな目をしていた。考えごとでもしているのだろうか。
淡い青色の瞳に浮かんでいるのは愁いの表情で、見ているうちにイムラヒルの胸にも切ない気持ちが込み上がってきた。黙って見ているのではなく何か声をかけたくなったが、
——しかし、なんと言って……。
躊躇っていると、麗人が誰かに呼ばれたように振り返った。露台に新たな人物が現れる。
——あれは……。
イムラヒルは息を呑んだ。露台に出てきたのは、姉の縁談の相手、デネソールだった。言葉を交わしたことはないが、昨日から何度も目にしている人物だ。
——いったいなぜ……?
今はアドラヒルやフィンドゥイラスと共に、祝宴の場にいるはずではないのか。もちろん、白の塔の大将である彼は多忙であり、急用があれば宴を抜けることぐらい承知しているが……。
——何か急の報せがあったのだろうか。
あの麗人もデネソールと一緒にいるということは、やはり軍の関係者なのだろうか。とても武官には見えないが……。茫然としているイムラヒルの視界から、いつしか二人の姿は消えていた。
その晩、イムラヒルは露台にいた人物のことが気になって、なかなか寝付けなかった。翌日、イムラヒルは露台の麗人が“不敗の将”と評判の“星の鷲”——ソロンギルだと知ることになる。
END
♪よーつゆぅにぬれるぅ もーりを抜けてぇ
しーろいバルコニー あーなたを見たー♪
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