明月
リダーマークの王、エオメルの祖母モルウェンはゴンドールの出身であった。
マーク15代目の王フェンゲルは貪欲な性質(たち)だったと伝わっている。そんな父王とそりの合わなかった王太子センゲルは長じると国を飛び出し、ゴンドールのトゥアゴンに仕えた。モルウェンを娶ったのもその頃だ。エオメルの伯父セオデンもゴンドール生まれである。
フェンゲル亡き後、センゲルはエドラスに呼び戻されて戴冠し、モルウェンは王妃となった。エオメルとエオウィンの母、セオドウィンが生まれたのはその後になる。
エオルの家の子らは気高い王妃の美しい黒髪を称え、鋼の輝き(スティール・シェーン)と呼んだ。そんな祖母の故郷、ゴンドールのロスサールナッハ——エオルの家の子らはアルナッハと呼ぶ——をエオメルは訪れていた。
花の季節でないのが残念です——迎えてくれた領主がそう述べたように、花咲くアルナッハの名のとおり、春には色とりどりの花が野を覆うという。だが、秋の爽やかな風の中、馬を駆るのは、咲き乱れる花がなくとも楽しかった。特にかの人と一緒ならば——。
ゴンドールの王エレスサール、彼も同行していた。
真名をアラゴルンという友好国の王は、只人の二、三倍の寿命を持つ。半生を放浪の旅に費やしたアラゴルンは文武ともに抜きんでた能力を持ち、馬を操るのも巧みだ。ミナス・ティリスからの道中、二人で飛ばしたら、随行者が次々と脱落した。馬術には自信のあるエオルの家の子、その精鋭たちでさえ付いてこれなくなった。もっとも、エオメルも遅れそうになったから、彼らを笑えたものではなかったが……。
短い脱走の後、追いついた随行者たちから説教を食らったが、久しぶりに思い切り馬を走らせる楽しみを味わったおかげか、機嫌が下降することもなかった。アラゴルンも楽しそうだった。
明日の視察も馬を使うと聞いた。また二人で飛ばそうか。
——いや、その前に今夜……。
エオメルは寝台の上で広げていた地図を閉じた。立ち上がって露台へ出る。秋の夜の冷えた空気が頬を撫でた。冷たい石の手すりにもたれ、夜空を仰ぐ。冴え冴えとした銀の月と星が輝いていた。
——アラゴルン殿。
銀色の輝きの中に慕う人の顔が浮かんだ。ミナス・ティリスからここまで、くつわを並べてきた。一緒に馬を疾走させた。楽しかった。が——、
晩餐の席で別れてそれきりである。宴の広間を出る際、彼は「後で寄らせてもらうよ」と言っていたが、半刻が過ぎても音沙汰がない。
ミナス・ティリスを発つ前夜は、明朝の出立時間の早さを理由に、共に過ごすのを断られてしまった。ロスサールナッハに着けば夜を共に過ごせると期待していたが、このままアラゴルンが現れなければ空振りに終わってしまいそうである。
彼がこちらへ来ないなら、エオメルが出向けばいいのだが、いかんせん初めて訪れた土地の館である。アラゴルンが泊まっている部屋の位置すら定かでない。下手に動きまわっては迷うだけだ。案内を頼めば済む問題だが、そのためにはもっともらしい理由がいる。
理由を捻り出しても、それから使いを出して、取り次ぎから返事が来て、先触れを出して……、間に人を挟んだやり取りをしているうちに夜が明けてしまいそうだ。
——ああ、もどかしい……。
エオメルがため息を吐いていると、露台の片隅から微かな音が聞こえてきた。振り向いて、エオメルはギョッとした。手すりの上に人の手がヌッと突き出しているではないか。誰かが露台によじ登ってきているのだ。
反射的に右手を左腰の脇へやったエオメルだったが、そこに剣の柄はなかった。夜着に着替えたとき、剣帯を外したことを思い出す。迂闊な我が身に歯噛みしながら、素手よりマシと露台にある椅子の背をつかんだ。
賓客を迎えたゴンドールの貴人の舘で曲者——とは考えにくいが、油断は大敵である。すぐに対処できるよう身構えていると、手すりの上に突き出た手は慣れた様子で持ち主の身を吊り上げた。現れた人影は辺りを窺うように顔を上げた。印象的な青灰色の瞳と目が合って、エオメルはあんぐりと口を開けた。
「——やあ、こんばんは。エオメル殿」
身軽に手すりを乗り越えてきたのは、たった今、会いたいと思っていた相手、アラゴルンだった。
「失礼するよ」
音もなく露台に降り立った彼は、エオメルが椅子をつかんでいるのを見て「警戒させてしまったようだな」と自嘲気味の笑みを浮かべた。
「妙な場所から出てきて悪かった」
「い、いえ……」
エオメルは慌てて椅子を放した。
「晩餐の席にこの辺りの名士たちがいただろう?」
「はい」
国王二人を迎えての晩餐に、土地の名士が同席するのは至極当たり前のことだ。
「彼らは王と親密に話がしたいと熱心でね、部屋には入ってこないが、廊下は彼らの手下が見張っていて、正面から出てくるのは難しかったんだ」
肩をすぼめたアラゴルンは、何やら背負ってきた物を椅子の上に置いた。
「エオメル王と話があると言って出てこようものなら、名士たちが揃って『我らも』と付いてきそうだった」
エオメルも晩餐の席で、アラゴルンと大した話はできなかったが、彼らに至ってはあいさつを交わしたぐらいだ。数少ない行幸の機会を最大限に活かそうするのは野心家ならば当然。特に王がこの人ならば、近づきになりたいという気持ちは大いに理解できる。
「さすがに部屋に押し入って来るような真似はしないだろうが、部屋の前でわたしが出てくるのを今か今かと待っていられるのもぞっとしないからね」
苦笑交じりに話しながら、アラゴルンは下ろした荷物を手際よく解いた。
「面倒を避けるにはこの方法が一番だと考えて来たんだが、あなたを驚かせてしまったな」
そう言って顔を上げたアラゴルンの手には、ずんぐりとした酒瓶が握られていた。彼が背負ってきた荷物の中味だ。
「いえ、来てくださってうれしいです」
手土産の酒瓶を差し出された手ごとつかみながら、エオメルは笑った。
「寄らせてもらうと言っただろう?」
そうだ、彼は約束を守る人だ。もう来ないのではないかと、疑っていた先程の己をエオメルは恥じた。
「いい月だな」
夜空を仰いだアラゴルンが言った。
「今宵の銀の花は明るい。おかげで闇に紛れるのが難しかったが……」
月の光を浴び、微苦笑を浮かべる横顔を見て、エオメルは思わず呟いた。
「美しい……」
「ああ、そうだな」
空を振り仰いだまま、アラゴルンが頷く。どうやら彼は、エオメルが月を評したのだと思ったらしい。自分の気持ちが通じてないことが少し悔しくて、エオメルは言い直した。
「月もきれいですが……あなたも、きれいです」
驚いたようにアラゴルンが振り返った。なんだか不思議な生き物を見るように、淡い青色の目をしばたたかせている。しばらくして、彼は腑に落ちたような顔で微笑んだ。
「ああ、この衣装は職人たちの自信作だそうだ。ローハンの王に誉められたと聞けば彼らも喜ぶだろう」
濃紺のコートの袖を少し持ち上げ、隣国の王は屈託なく笑った。エオメルの気持ちはまた通じなかった。
植物文様を織り込んだ上質の布地に、金糸で襟元や袖口を刺したコートは確かに美しい。だが、エオメルが美しいと感じたのは衣装ではない。
率直に言葉に出しても気持ちが伝わらない。ならば——
「アラゴルン殿」
エオメルは彼の腕を取った。武人としては線の細い身を引き寄せる。
「エオメル……?」
腕におさまった人が小さく首を傾げた。彼がよくする仕草だ。物問いたげな表情とややうつむき加減の角度から、こちらを覗き込むように窺う愁いを帯びた眼差し。これを間近で見せられては堪らない。
「美しい……」
エオメルの口からまた呟きが漏れた。青灰色の瞳に驚きの色が浮かぶ。今回はエオメルが何を指して美しいと言ったのか、アラゴルンにもわかったようだ。しかし、意思の疎通ができたと喜んだのも束の間、
「プフッ……」
あろうことか腕の中の麗人は吹き出した。エオメルの肩に額を押し当て、薄い肩を震わせている。
「アラゴルン殿……」
エオメルがムッとした声を出すと、友邦の王は「悪い悪い」と言って顔を上げた。口許に力を入れて笑わないよう努力しているらしいが、唇からは「くくっ……」と低声が漏れている。
ああ、その唇が憎らしい。いっそ塞いでしまえたら——
そうだ、塞いでしまえばいいのだ。
エオメルは笑いを堪えている人のおとがいに手をかけると、そのまま距離を詰めた。明るい月が描く二人の影がひとつに重なる。やがて、エオメルの耳朶がとらえる音は、先程までの忍び笑いから甘い吐息に変わった。
END