酩酊
常は澄んだ青灰色の瞳が、暖炉で踊る炎を映して光彩を放っている。緩くうねる黒髪に縁どられた顔には微笑が浮かび、杯を干した喉から満足げな息が漏れた。
暖炉の前に敷かれた毛皮の上でクッションにもたれ、ほとんど寝そべるよう姿勢でいるのは、ゴンドールとアルノールの二国を統べる王エレスサール——アラゴルンだ。
私室同然の部屋とはいえ、大国の王がだらしのない格好をしているのはいかがなものか。公務を終えて襟元を緩める程度ならいいが、コートもブーツも脱いでしまうのは行き過ぎだろう。蘇芳色のシャツは胸元が覗けるまでにはだけられている。縁飾りのついた礼装用のマントは、毛布代わりに使われてくしゃくしゃだ。
酒杯を傾けはじめた当初は長椅子の上にいた。暖炉に薪をくべに椅子を下りたのを機に、そのまま床に馴染んでしまった。
これまで幾度も床に寝そべるのは止めるよう意見したが、いずれも「堅苦しいことを言うな」で片づけられてきた。そんな攻防を繰り返すうちに、暖炉前の敷物の上ならばと、うっかり頷いてしまった結果が現状である。唯一の救いは、無頓着な王も親しい者以外の前では、無防備に床の上で寝そべるなんて真似はしないだけの分別を持ち合わせている点だろうか。
その無防備に寝そべって見せても構わない親しい者の一人に、己が入っていることに喜びを感じてしまうあたり、処置なしと言うべきだろうか。白の塔の大将ボロミアは、クッションを抱えるようにもたれている麗人を眺めた。
「ボロミア」
穏やかな声が誘うように名を呼ぶ。いや、実際誘っているのだ。王の手が隣へ来いと招いている。手の動きに引き寄せられるように、ボロミアは腰を浮かした。自分をいざなった指先をそっと捕らえる。温かな感触にどきりとした瞬間、それはするりとボロミアの指をすり抜けていった。
——何をやっているのだ。深窓の令嬢でもあるまいに。
己の不甲斐なさに舌打ちしたくなる。触れたことならいくらでもあるではないか。指先どころか、熱い内側まで……。
そう思っても、目の前の麗人の一挙手一投足は、ボロミアに呪縛にも似た作用をもたらすだけの力があった。
「今日はありがとう。あんたのおかげで上手くいった」
謝意を述べるきれいな笑みに見惚れてしまう。
「軍事に係わる交渉事は大将殿がいるとすんなり決まるな」
事がひとつ片づいたと無邪気に喜んでいる当人は、隣にいる者がその笑みに声も思考力も奪われているとは思わないだろう。
「いや、あなたの手柄だ……」
だんまりはまずいと口を開いたが、ロクな言葉が出なかった。相槌にもなっていない。
「そうか? けれど、彼はわたしの話なぞ、ロクに聞いていない様子だったぞ。なんだかぼうっとしていて……」
それはあなたに見惚れていたからだろう——と、ボロミアは今日会った領主のことを思い出した。海沿いに小さな領を持つ家柄で、先頃跡を継いだばかりの若い男だった。所領は僅かなものだが、造船技術に長けた工匠を抱えていると評判で、その技術を国に供与してもらえないか、数ヶ月前から官吏が交渉していた。
自領に伝わる独自の技術は領地を潤す貴重な収入源だ。他家へ教える領主はいない。たやすく頷いてくれないのは織り込み済みだ。そこを粘り強く掛け合っていたら、領主自らミナス・ティリスに乗り込み正式に断りを入れてきた。
若いとはいえ当主が動いたのだ。相当腹を立てていると見ていい。困った官吏は上役へ泣きつき、それがまた上へ泣きつくということが繰り返され、事はとうとう総大将と執政の元へ送られてきた。
——とりあえず、わたしが会ってみましょう。
最初は執政を務めるファラミアが面会をした。ときに容赦のない物言いをする弟だが、人当たりはやわらかい。また観察眼も確かだ。相手の出方を探るにはもってこいである。その執政閣下が領主との面談後に示した解決策が、
——おそれながら、陛下がお会いになれば交渉は良い方向に進むかと……。
国王の直接交渉だった。アラゴルンは二つ返事で引き受けると言ったが、ボロミアは反対した。たかが地方の一領主が機嫌を損ねたぐらいで王に直談判させるのかと、不満だった。だが、ファラミアは時間をかけることのほうが問題だと主張した。
——わたしや兄上が話しては時間がかかります。それでは新王朝は“たかが地方の一領主”に手間取っていると、他の領主たちに舐められてしまいます。
その恐れは確かにある。だが、アラゴルンが話せば、すぐに解決するのか。
——おそらく。
執政の碧い瞳がきらりと光った。勝算があるというわけだ。ボロミアは渋々同意した。だが、不満は残った。それを察したのだろう、アラゴルンはボロミアに同席を求めた。
——軍の船を面倒見てもらうんだ。大将殿も会っておいたほうがいいだろう。
ボロミアは黙って従った。軍の船の造作を頼むからというより、相手が王に失礼を働くことがないよう監視するつもりで。
しかし、その必要はなかった。礼装を纏った王は現れた瞬間から、その場を支配し、居合わせた者を魅了した。ファラミアの目論見どおり、交渉はアラゴルンのペースで進み、決着した。
「やはり総大将が同席していたからだろう」
自身の魅力に無自覚な王はのんびりと笑う。相手が呑まれていたとは露ほどにも思っていまい。彼を間近に見慣れたはずの自分でさえ、言葉も出ないほどの感覚に陥るときがある。間近での対面は初めての若い領主はひとたまりもなかっただろう。
企みも術もなく、自然とその場を支配し、操る力は何なのか。類いまれなる血筋の貴人が持つ力なのだろうか。対面した者を惑わせ、魅了する力……。
「——これからも軍事がらみの交渉はあんたに同席を……どうした? 元気がないな」
黙りこくっているボロミアを怪訝そうに青灰色の瞳が覗き込む。
「利かん気の強い若者は気に入らなかったか」
正面より少し逸れた位置で僅かに首が傾く。こちらを見上げていながら、俯き加減の上目遣いなのはなぜなのか。その口許がふっと緩み、くすりと小さな笑いが漏れた。
「会談のときも、なんだか不機嫌そうだった」
「そんなことはない……」
とっさにボロミアは否定した。決して機嫌が良かったわけではないが、若い領主の気質が気に入らなかったわけではない。
確かに、あの若者は気が強そうではあった。部屋に入ってきたときは、こちらを睨むような目つきをしていた。だが、彼の態度は鼻につくというより、若年ゆえに舐められないよう虚勢を張っている痛々しさのほうが強かった。こちらが誠意をもって接すれば、強硬な姿勢はやわらぐだろう。今日、アラゴルンと話したときのように。
「それならいいが——」
いたずらっぽい笑みを浮かべて、麗人がボロミアの膝に手をかけた。そのままよじ登るようににじり寄ってくる。
「だったらなぜ、今も黙りこくって不機嫌そうなのか——」
上半身が伸び上がり、肩にかかっていたマントが滑り落ちた。
「教えてくれないか?」
やわらかな絹のシャツが身体の線を浮き立たせている。裸でいるより艶めかしく見えるのは錯覚だろうか。
「——ボロミア」
耳許で囁かれた声に、ボロミアの喉がごくりと音を立てた。頭の芯がくらりと揺れる。本当に目の前の景色がゆらいだ気がした。甘やかな酩酊感。如何な美酒もこれ程には酔えまい。ボロミアはにじり寄ってきた細い腰に腕をまわした。
「教えてしんぜよう」
腕の中の人がふわりと笑った。それは更に深い酔いへといざなう笑みなのか。
パチッ……。
暖炉で薪が爆ぜる。炎に照らされ、床に落ちた二人の影がひとつに重なった。
END