Memorial
アンドゥイン沿いに整備された公園の一画に劇場が造られた。その柿落としが明日に迫っており、式典出席と観劇のため、国王夫妻がオスギリアスを訪れていた。
「ちちうえー」
先に駆けていった小さな姿が振り返り、手を振った。ファラミアにとって、主筋の子息であるエルダリオンだ。
「お元気ですね」
ファラミアは目を細め、隣で小さな手に応えて手を挙げている人物に話しかけた。王子の父親である、国王エレスサールだ。
「すまない。ミナス・ティリスに置いてくるつもりだったが、服をつかんで離れなかった。いつもはもう少し聞き分けがいいんだが……」
エレスサールはちらりと周囲に目を遣って、申し訳なさそうに言った。
「世話をかける」
目立たないが、周囲には隈なく警護兵が配置されている。幼い王子のため、急遽増員した。それを察してのことだろう。
「構いませんよ」
「ありがとう。——エルダリオン。あまり遠くへ行くな」
先を行く王子はわかったというように手を振ったが、身を翻してぱたぱたと駆けていってしまった。
「まったく、しようがないな」
王は苦笑して幼子の後を追いかけていく。そんな主君父子の姿を微笑ましく眺めながら、ファラミアも歩調を速めた。警護兵の数人が後をついてくる。
この辺りは、かの指輪を巡る戦いで亡くなった者たちを祀る慰霊碑や廟が建っている。解放された廟の入り口で、無事に子息を捕まえた国王に追いついた。
「こら、遠くに行くなと言っただろう」
叱られているというのに、父親の腕に抱え上げられた王子は、キャッキャとはしゃぎ声を上げてご機嫌だ。
「聞いているのか。エルダリオン。……痛っ、髪を引っ張るな。言うことを聞かないと、次から『おでかけ』は無しだぞ」
「やー。ちちうえのけちぃ〜」
「ケチじゃない。まったく……、どこでそんな言葉を覚えてくるんだ」
叱っているのかぼやいているのかわからない言葉が、国王の口から漏れた。善政を施く大国の王も、子供には手を焼くらしい。背後の兵たちは必死に笑いを堪えているに違いない。
「ちちうえ。あそこ、よごれてる」
エルダリオンが廟の隅を指した。石の表面に褐色がかった染みが、不規則に幾つも浮いている。
「ん? ああ、あれか。あれは血の痕だ」
廟に改装されたこの建物は、かつて無数の兵士が倒れた場所だった。その痕跡は時を経た今も消えていない。
「ち? だれかけがしたの?」
「そうだ。怪我をして、亡くなった」
「なくなった……」
幼い王子の顔が曇った。
「お前が生まれる前、大きな戦いがあって、たくさんの人が亡くなった。ファラミアもそのとき戦っている。ここに残っているのは、そのとき亡くなった人たちが流した血の痕だよ」
エレスサールが腕の中の幼子に、穏やかな口調で説明した。
「見てごらん、ほら——」
褐色の染みが残る壁に父子が近づく。そして——
「この形は兜の跡だ、たぶん。こっちは手だ」
——ちょっと待て……。
ファラミアは額を押さえた。幼い子供にする説明ではない。
「刺されたのは腹かな。それで……」
「……陛下」
血なまぐさい説明を続けるエレスサールを、ファラミアはため息混じりに遮った。
「お止めください。エルダリオン様が脅えてらっしゃいます」
「え? ……ああ。怖かったか。すまない」
脅えてしがみつく幼子に気づいたエレスサールは、慌てて小さな頭を撫でた。
「大丈夫だ。今はもうこんな戦いは起こらない」
◆◇◆◇◆◇◆
「ぎゃああああああああ!」
オスギリアスの街が寝静まった夜半近く、主君一家を迎えた公館に凄まじい悲鳴が響き渡った。
「エルダリオン!」
ファラミアと一緒に酒杯を傾けていたエレスサールが、椅子を倒す勢いで部屋を飛び出した。悲鳴は幼い王子の声だ。野伏時代に“ストライダー”と呼ばれ、王朝名をテルコンタールと定めた俊足が廊下を走っていく。
「陛下、エルダリオン様」
ファラミアも王に続き、王子の寝室に入った。世話係が脅えた顔の王子を宥め、不寝番の兵士が部屋の中を調べていた。
「どうした」
「い、いきなり、まどがあいて……、なにかがはいってきた」
父親の胸に顔をうずめた幼い王子が、恐る恐る話す。
「申し訳ありません」
窓辺に居た兵士が振り返った。直立不動の姿勢で口を開く。
「錠が外れていました。今夜は風が強いですから、それで開いたのだと思います」
ファラミアは眉を顰めた。
「気をつけてくれ。風だったからいいようなもの、賊だったらどうする」
兵士は無言で頭を下げた。
「事が起こってからでは遅いのだ。用心してくれ」
「申し訳ございません」
戸締まりをしたらしい世話係が項垂れた。
「ファラミア。そう責めるな。何事もなかったのだから。——世話をかけたな。ありがとう。戻ってくれ」
兵士と世話係は一礼して出て行った。
「エルダリオン、もう平気だろ?」
「うん。でも、まどからなにかが……」
王子は脅えた眼差しで部屋の中を見回す。
「何もいない。窓は風で開いたんだ。しっかり錠をかけたから、もう開かない。そうだろう? ファラミア」
父親の視線を追ったエルダリオンがファラミアを見る。
「陛下のおっしゃるとおりですよ」
「ほら、大丈夫だ」
「うん」
エルダリオンが安心したようににこりと笑った。
「エステル。どうなさいましたの」
部屋の入り口で涼やかな声がかかり、ガウンを羽織った王妃が入ってきた。
「アルウェン。大丈夫だ。風で窓が開いて、それで驚いたらしい」
「そう。それはびっくりしたわね。エルダリオン」
王妃が寝台に腰を下ろし、王子を王の腕から抱き取った。
「もう大丈夫よ」
「うん」
安心しきった王子の顔が、母親の肩の上で頷く。母子のやり取りに、王と執政の二人は顔を見合わせ、寝室をあとにした。
◆◇◆◇◆◇◆
「母親には敵わないな」
「そうですね」
男二人は元の部屋に戻り、酒宴の続きを始めた。
「それにしても……、窓が開いただけにしては、すごい悲鳴だったな」
「怖い夢でもご覧になったのでは? 昼間の話が強烈だったようですし。こちらのホールでも、壁の石の模様を気にしてらっしゃいましたよ」
散歩の後、館のホールに入ったエルダリオンの表情には、どこか脅えるものがあった。
「石の模様?」
「廟の血痕を思い出したのでしょう」
「そうか、そんなに……。すっかり怖がらせてしまったな。父親失格だ」
年齢の割に父親業の日数が浅いエレスサールは、悄気た顔をして肩を落とした。そんな姿に思わず口元が綻ぶ。
「大丈夫ですよ。陛下を怖がってらっしゃるのではありませんから」
空になった主君の杯に葡萄酒を注ぎながら、ファラミアは安心させるように笑った。
「しかし、慰霊の廟を怖がらせてしまったのは失敗だ。あの血痕の記憶は確かに辛いものだが、エルダリオンにも知っておいて欲しい。彼らの犠牲の上に今の繁栄があるのだから。それを統治者が知らないのは罪だろう。それが脅えてしまっては……」
「考え過ぎですよ。きちんと説明なされば、殿下はおわかりになります。今は無理でも、成長なさればご理解なさいますよ」
「そうならいいが……。ああいうショックはけっこう尾を引くだろう?」
エレスサールは葡萄酒をひと口飲んで、心配そうにファラミアを見た。
「根気よくお話しなされば大丈夫ですよ。今日は血痕に驚かれただけでしょう。小さな子供は誰しもそうです。陛下もそうだったのではありませんか?」
「さあ……、そういえば、夜の闇を怖いと思っていた時期もあったかな。——とはいえ、百年以上昔のことだ。細かいことは憶えてないな」
燭台の灯りに目を遣って、エレスサールは穏やかな笑みを浮かべた。
「今はいかがです? 怖いものはございますか?」
「あるよ。わたしの目の前にいる——」
エレスサールがいたずらっぽい表情で片目を瞑る。
「執政殿だ」
ファラミアは肩を竦めて、小さく笑った。
「お戯れを」
「本当さ」
先程までとは打って変わった余裕の笑みを浮かべ、エレスサールは杯を傾けた。
「あなたは? 怖いものはあるかな」
「ええ」
ファラミアは即答した。
「おや、意外だ。なんだ? 執政殿を恐れさせるものは」
エレスサールが不思議そうな顔で首を傾げた。本当に思いつかないらしい。それにしても、「意外だ」とは失礼な話である。
「なんだと、お思いになります?」
「さあ……、わからないな。教えてくれ」
先程と逆の方向へエレスサールの首が傾く。
「陛下」
ファラミアはわずかに身を乗り出し、主の青灰色の瞳を覗き込んだ。
「王宮で繰り広げられる権謀術数の中、生き残るコツは何者にも弱みを見せないことですよ」
だから、何を恐れるかなど、たとえ主君であれ漏らせない——そう言って笑うと、エレスサールは目を見開き、それから苦笑した。
「……参ったな」
首を横に振って、葡萄酒を口に含む。
「しかし、そんなに権謀術数とやらが繰り広げられているのか?」
「ええ、それはもうたっぷりと」
目を細めて頷くと、エレスサールは含みのある目つきになった。
「繰り広げているのは執政殿自身だろう?」
「多少は」
「そういうところが怖いんだ」
まったく怖がっていないだろうに、肩をすぼめてそんなことを言う。
「それは失礼。ですが、陛下には敵いませんよ」
「わたしはあなたのような策士ではないぞ」
さも意外だと、エレスサールは反論した。相変わらず、自分のことはわかっていない。
ファラミアは根回しを行い、周囲を固め、それなりの手順を踏むが、エレスサールはそれらすべてを飛ばして事を為す。“王”だから功を奏しているものが多いが、それだけ玉座の重みを利用しているとも言える。
普段、自らの身分にこだわりを持たず、軽んじているようにも見える人が、“王の権威”を最大限に利用するのだ。それを自然体でやってしまうあたりに、空恐ろしいものを感じる。
「確かに策を練ることは少ないでしょうが、陛下はそれ以上のことを無意識になさいますからね。だから敵わないと思うのですよ」
「無意識にって……、それじゃあ、わたしは居るだけで人を嵌めているということじゃないか。酷い言われ様だ」
あんまりだと、ぼやくように言って葡萄酒を煽る。そこには玉座にある堂々とした姿も、王子相手に見せる父親の顔もない。ファラミアはくすりと笑った。
「おや、酷いなどととんでもない。重宝していると申し上げているのですよ。微笑ひとつで難物を篭絡できる国王は、他に類を見ない貴重な存在。ずいぶんと助かっております」
「ファラミア……」
恨めしげな眼差しがファラミアに向いた。
「誉めてないだろ」
「いいえ。素直に賞讃しております」
頬を緩めながらも、殊勝な態度で答える。
「心にもないことを……。やはり、あなたは策士だ」
エレスサールがくすりと笑った。
「恐れ入ります」
ファラミアもくすくす笑う。
昔はこの人を失うことが怖かった。同時に、主君の視界から自分の姿が消えることを恐れていた。けれど、今は——
彼を置いていくことを何よりも恐れている。
心境の変化はいつからだったのか。父が亡くなった年齢に近づいたからか。彼の死は寿命が尽きたからではなかったけれど、やはり、ひとつの節目のように思う。それとも、叔父を見送ったからか。いや、年下の義兄や命の恩人である小さき騎士が、老年の気配を漂わせ始めたからかもしれない。
周囲の人間の死や老いの気配は、ひとつの現実を突きつけてくる。自分がどんな策を弄しようと、主君と同じだけの時は生きられない、と。
かつての戦禍を人々の記憶に留めるために建てられた慰霊碑。けれど、あのようなものがなくても、この人は忘れないだろう。これまでどれだけの人を見送ったのか。昔、執政職に就いたばかりの頃、北の野伏に聞いたことがある。
——あの方は見送った仲間をすべて憶えているんですよ。「わたしの力が及ばず助けられなかった。憶えておくぐらいしか出来ることがない。それが長の務めだろう」そうおっしゃってね。
夜半過ぎ、彼が一人、露台や中庭で過ごしているのを何度か目にした。何を考えているのか、声をかけるのも憚られる雰囲気だった。独りにならなければ、思い出すことも出来ない。それはとても辛いことだ。ならば——、
自分のときは忘れてくれていい。
「陛下。もう休みましょう」
「そうだな。——明日は、エオウィン殿もこちらに来るのだろう?」
「ええ。夕星の王妃に久しぶりにお会いできると、楽しみにしておりましたよ」
「アルウェンも同じだ。執政ご夫妻には、家族揃って世話になっている」
「それが務めでございますれば」
「これからもよろしく。執政殿」
「御心のままに」
「ありがとう」
エレスサールが部屋を出て行く。
今夜のようなやり取りがいつまで続くだろう。漠然とした不安は、考えたところで拭えるものではない。結局、今という時間を大切に生きるしかないのだ。それくらいしか、自分に出来ることはない。敬愛する主君のためにも、それが最良の道になる。
——いつか訪れるその日まで。
ファラミアはそっと微笑み、灯りを消した。
END