繕いもの
ファラミアは執務室に入って驚いた。
室内に王の姿がなかった——なら、近衛兵に捜索させるだけだ。驚くこともない。戴冠するまで野を駆ける身だった王は、一室に籠りきりという環境に慣れず、ふらりと執務室を抜け出すことが少なくない。最初の頃は慌てたものだが、半年も過ぎる頃には繰り返される脱走にこちらが慣れてしまった。かといって、ファラミアは甘い顔はしない。いつもきっちり叱らせていただいている。
部屋を抜け出してはいないが、露台でパイプを燻らせてのんびりしておいでのことも多い。息抜きは必要だが、そのまま露台の床で執務を行っていたり、気候の良い時分にはその場でお休みになっていたりする。初めて見たときは呆然としたが、これも今では慣れてしまった。相応しくない場所での執務には、やんわりと嗜めて躾直しの決意を新たにし、うたた寝でさぼっていたときは、その分以上にきりきり働いてもらうことにしている。
だが、本日のエレスサール陛下の所行はそのどれとも違っていた。我が王は長椅子の上で繕い物をなさっておいでだった。クッションを膝の上に載せ、そのクッションの端をせっせとお繕い遊ばしているのだ。しかも、上着を脱ぎ、ブーツを脱ぎ、シャツは襟元を緩めた王にあるまじき格好で……。ファラミアは軽い頭痛を覚えた。
しかし、当のエレスサールは、眉を顰めて額とこめかみを指で押さえた執政の姿など、目に入っていない様子で穏やかに話しかけてきた。
「ファラミア。街道の整備の件で、エオメル殿が相談があると報せてきたんだが——」
「陛下」
ファラミアは機嫌良く話しはじめた王の言葉を遮った。ここで自失して流されてしまってはいけない。
「いつからご政務に繕い物が加わったのでしょうか。それと、そのお姿はどういうわけです?」
「あ、……その、休憩しようと思って座ったら、クッションの縫い目がほどけているのに気づいてな、それで……」
「そういうことは係の者がします。陛下がなさってはいけません。その者の仕事を奪うことになります」
「……そうだったな。つい癖で……。すまない。今後は気をつけよう」
そう言いながらもエレスサールは手は休めない。最後のひと針とばかりに縫って針を抜き、余った糸を歯で噛み切った。「すまない」と口にしても、その実まったく堪えていないのだろう。クッションをぽんぽんと叩きながら、出来具合を見ている。
幸か不幸か縫い物の腕は悪くないらしく、クッションの見た目におかしなところはなかったが、問題はそんなところではない。綻びを見つけて「つい癖で」繕ってしまう国王……気やすいのは彼の長所だが、限度というものがある。これは考えものだ。ファラミアは思わずため息を吐いた。
「その……悪かった。ファラミア。息抜きにちょうどいいと思ったんだ。他人の仕事を奪うとは思わなかったから」
エレスサールはそっと窺うような上目遣いでファラミアを見た。
「まあ、いいでしょう」
針仕事を「息抜きにちょうどいい」と始めるのはいただけないが、その辺はおいおい躾けていけばいいだろう。何より繕う物がなければ針を持つこともないだろうだから、王の身のまわりの品に気を配っていればいい。
「ところで、陛下のそのお姿のほうは如何なる理由で?」
「縫うのに楽だったからな」
「では、繕い物が終わったのですから、直していただけますね」
エレスサールは苦笑しながら襟元を直した。ファラミアは上着を着せかけ、飾りボタンを嵌めていったが、ふとその一つに違和感を覚えた。糸が縫われたばかりのように新しく、色も僅かに他のものと違った。
「ひょっとして、このボタンもご自分で付けられたのですか?」
「ああ、よくわかったな。どこかで引っ掛けたらしくて、取れかかっていたんだ。朝はちゃんと付いてたんだがな」
もはや隠す気もないのだろう。エレスサールはあっさり認めてはにかむように笑った。罪のない笑顔を見ながら、ファラミアはいかにして釘を刺そうかと考えた。このまま放置しておいたら、“ゴンドールの王は衣服の面倒をみてもらえず、自ら繕い物をなさるそうだ”、なんて噂が広まりかねない。
「——陛下」
ファラミアは長椅子に座っている王の前に、すっと跪いた。
「陛下には他に繕っていただきたいものがあります」
きっぱりと言って、いつになく真摯な眼差しを王に向ける。王の手で繕うものは——
「この国の、ゴンドールの綻びをお繕いください」
ゴンドールは遂に帰還した王の下、復興へと動き出しているが、それは決して安穏な道ではない。
ひとつの指輪とともに冥王は滅び去ったが、長い間モルドールの脅威に晒された影響は大きく、国のあらゆるところに戦の疲れが残っている。特にモルドールと国境を接していた土地は人心ともども疲弊している。バラド・ドゥアの崩壊を免れ、周辺に潜んだオークの数も少なくはない。また、国が落ち着けば、戦時には息を潜めていた国内諸侯の勢力争いも出てくるだろう。
——貴方にはそういった国の綻びを繕って欲しい。
皮肉混じりの、けれど真摯な想いを重ねた言葉だった。視線の先、エレスサール王はじっとファラミアを見つめていたが、やがて口許を綻ばせた。
「ずいぶん大きな繕い物だ」
穏やかな表情の中、青灰色の瞳が煌めく。
「クッションを縫うようにはいかないな。わたし一人の手には余る。手を貸してくれるか? ファラミア」
「もちろん。仰せのままに。我が王」
ファラミアは微笑してエレスサールの手を取り、柔かな口付けを落とす。それから、再び彼を執務の机につかせるべく、立ち上がって主君に手を差し伸べた。
END