流星群
ゴンドールの王都ミナス・ティリスは、白の山脈の東端ミンドルルインの山腹にある。ローハンの言葉でムンドブルグ——守りの丘と呼ぶが、シンダール語のミナス・ティリスも守護の塔を意味する。名前のとおり階層を重ねた堅固な城塞だ。
ただし、建ち並ぶ白い石造りの尖塔が陽光に輝く姿は、砦の厳めしさではなく壮麗な印象を見る者に与える。けれど、その輝く白さも陽が落ちれば、保っていられなくなる。
夜の帳が下りたあと、都を照らすのは篝火と街の灯りだ。最上層に王の居城を抱える城塞は厳重な警備が敷かれ、各層に焚かれる篝火も多い。昼間は印象の薄かった砦としての物々しさが感じられる。エドラスでも黄金館から似たような景色が見えるが、
——ここは堅苦しいな。
友邦の城に滞在中のローハン王エオメルは、眼下に広がる夜景を見ながら苦笑をこぼした。街灯りすら堅苦しく感じるのは、エオメルの先入観によるものか、それとも今立っている露台ががっしりとした石造りだからだろうか。
夜風に撫でられた石の手すりは見かけどおり冷えており、触れた手から熱が奪われていくようだった。外観は美しい都だが、中に入ると床から壁、天井までのすべてが石に囲まれる現実に直面し、長居していると息が詰まりそうになってくる。
ローハンで石造りの建物と言えば角笛城があるが、あの砦も遡れば、ゴンドールの王が“船艦王”と呼ばれた時代に、彼らの手によって築かれたと伝わっている。よくよく石造りが好きらしい。さすが“石の国”だ。
一方、エオルの家の子らが王の居館として築いたのは、あたたかな蜂蜜色に輝く屋根を持つ木造の館だ。太い材木で組まれた館はどっしりとしているが、温もりがある。それに引き比べ——と、エオメルは露台を見まわした。装飾が施された柱は美しいが、夜の色に染まった姿はどこか寒々しい。そう思った途端、そのとおりの風が露台を吹き抜けた。ぶるりと肩が震え、思わず首をすくめた。
——本当に冷えてきたな。
かの人と一緒ならともかく、一人で露台に立っているのはつまらぬものだ。部屋に入っていようと思い、踵を返したところ、続き部屋から人が現れた。小脇にマントを抱え、手に籠を下げている。
「——お待たせしまって申し訳ない」
ゴンドールの王、エレスサール——アラゴルンだ。黒髪と青灰色の瞳を持つ麗人。エオメルの頬が緩んだ。この人の顔を見れば、息の詰まりそうな感覚も吹き飛んでしまう。ゲンキンなものだ。
「冷えてきたな」
露台へ出てきた彼は、手にしていたマントをエオメルの肩にかけてくれた。やわらかな毛が首のまわりを覆う。襟に狐の毛皮があしらわれていた。
「ありがとうございます」
エオメルはマントの襟を合わせながら、隣に来た貴人に礼を言った。エオメルにはマントをかけたアラゴルンだったが、彼自身は肩掛けを羽織っているだけだ。
「アラゴルン殿はマントは?」
「わたしにはこれがある」
彼は肩掛けの端をつまんだ。
「これは見かけより暖かいんだ。ほら——」
アラゴルンはパサリと肩掛けをエオメルの首にまわした。肩掛けの半分は彼の肩にかかったままだ。いきなり間近で微笑まれ、エオメルはどぎまぎした。胸で動悸がする。
「そ、そうですね」
かろうじて頷くと、アラゴルンは「だろう?」と言うようににっこり笑い、それから小さく首を傾げて訊いた。
「見えたかな?」
「え? あ、いえ、まだ……」
一瞬何のことを訊かれたのかわからなかったが、アラゴルンが夜空を一瞥したことで、流星の出現を尋ねていると悟り、エオメルは慌てて答えた。
「まだです」
まだも何も、さっきまで眼下の街を眺めていて、星に目が向いていなかった。
——元々そのために露台に出ていたというのに……。
今年の夏、エドラスではよく流星が見えた。近況を語るついでにそのことを話したら、アラゴルンが言った。
——そうか。ミナス・ティリスでは最近、流れ星がよく見えると評判になっている。
三日程前から増えているという。
——貴国の草原のように遮るもののない夜空とはいかないが、よかったら露台での星見をご一緒にいかがかな?
そんな素敵な誘いを断る理由はない。エオメルは快諾し、晩餐の後、どちらかの部屋で星を楽しむことが決まった。
だが、晩餐後、エオメルは部屋に一人で戻ることになった。アラゴルンに急用が入ったのだ。
国を統べる王である。賓客を迎えていても、国政は動いている。国事に係わることであれば、客との流星見物より優先されるのは当然だ。
それを当然として弁えられなかった。アラゴルンに急用が入ったことに落胆し、部屋に引き取ってからは塞ぐ気持ちから、友好国の都のことを寒々しいとすら感じた。なんという浅ましさだろう。それこそ、彼に知れたら、軽蔑されそうな独りよがりだ。
「では、これからゆっくり楽しもう」
落ち込んでいく思考を穏やかな声が呼び戻した。
「こういう物もある」
エオメルを現実に呼び戻した人はいたずらっぽい笑みを浮かべ、露台の戸口に置いた籠を持ち上げた。彼が持ってきた籠だ。葡萄酒の瓶と杯が二つ、それと切り分けられたチーズが入っていた。
「一杯やりながら待とう。今夜は雲が少ない。きっとよく見える」
アラゴルンが露台にある椅子とテーブルに目を遣った。
「そうですね」
エオメルは頷き、促されるまま腰を下ろした。
「これはシリス川沿いの赤だ」
葡萄酒を注ぎながらアラゴルンが言った。
「甘さの少ない香味の効いた味わいだ」
「それは飲むのが楽しみです」
そう言ったものの、エオメルにとって葡萄酒の味なぞ、アラゴルンと飲めれば何でもよかった。友好国の王が奨める美酒をどうでもよいなどと……酷い国賓もあったものだ。
けれど、自分の気持ちを誤魔化すことはできない。自分自身は騙せない。この人には、どうにも心が騒いでしまう。こんなふうに心が騒ぐということを、この人に会うまで知らなかった。
裡なる声のざわめきが何か自覚せぬまま、気づけば想いを告げていた。そして、その夜、関係を持った。肌を重ねて想いはより強まった。と同時に戸惑いを覚えた。自身のうちに湧き上がる狂おしいほどの衝動に。
妻のことは愛している。彼女を愛おしいと思う気持ちは本当だ。では——、
この心が揺さぶられるような感覚はなんなのか。衝き動かされるような感情の名は何か。
考えてはみたものの、己の心を覗き込むという内向きなことが性分に合うはずもなく、そんな辛気くさいことに頭を捻るより、想いのまま行動すればよいと割り切るまで、さして時間はかからなかった。
——そう、想いのままに。
エオメルは隣に座る黒髪の麗人に手を伸ばした。けれど、指先が肩に触れる直前、彼が「あっ」と小さな声を上げた。びくりと手が止まる。
「今、星が流れた」
アラゴルンが夜空を指した。
「見えたか?」
「いえ……」
星とは別のものに見惚れていたエオメルは首を振った。
「そうか。やはり、のんびり座っていてはいけないな」
言うや否や、アラゴルンは立ち上がり、エオメルの手を取った。
「せっかくお誘いしたのだ。ご覧いただかねば」
「あ、はい……」
手を取られるまま、エオメルは立ち上がった。本心を言えば、流れ星より目の前の人を見ているほうがよかった。だが、楽しそうに夜空を見上げる横顔を目にしては、そんなことを言えるものではない。アラゴルンに倣って上を向いた。
見上げた空は無数の星が瞬き、流星がなくとも十分美しかった。月は既に西に沈んでしまったらしく、姿が見えなかった。それが星見にはいたっていいのかもしれない。しかし、ずっと見上げているのは首が疲れる。気晴らしに葡萄酒を飲もうとしたとき、空にサッと光の筋が流れた。
「見えたかな?」
アラゴルンが訊く。
「はい」
「さっきもあの辺りから流れた」
彼が空の一点を指す。
「次もきっとあの辺りから流れるだろう。あそこなら座っていても見えそうだ」
そう言うと、アラゴルンは椅子を手すりの脇に引き寄せた。エオメルも同じく椅子を動かす。
「寝転がって見るのが一番いいんだろうが、手すりが邪魔になってしまう」
「いえ、これで十分です。寝転がっていては葡萄酒が飲めない」
「そうだな。チーズも食べにくい」
アラゴルンは笑ってチーズをつまみ、杯に口を付けた。エオメルも葡萄酒を飲んだ。杯を傾けるにつれ、夜空も視界に入ってくる。杯の上から覗く目に、青白く輝く光の筋が映った。アラゴルンと顔を見合わせ、二人でにこりと笑う。空いたエオメルの杯にアラゴルンが葡萄酒を注いでくれた。
それからしばらく、二人は無言で夜空を眺め、流れる光の筋を楽しんだ。時折チーズをつまみ、杯を傾ける。言葉もなく、目を交わすことすらなかった。だが、不思議と淋しさは感じず、彼と静かな時間を共有していることに満足していた。
——こんな過ごし方もあったのか。
あたたかな感情がエオメルの胸を満たしていく。満ち足りた気分に浸り、星空を見上げたまま、チーズに手を伸ばした。と、指先がチーズではないものに触れた。ほのかな温もりに薄い皮膚、その下の硬い骨の感触——アラゴルンの手だった。触れた指先がじわりと熱くなる。
「ああ、失礼」
アラゴルンが手を引っ込めようとする。とっさにエオメルは離れていく温もりを捕らえた。
「エオメル殿?」
何か?——と、問うようにアラゴルンの首が傾く。やや上目遣いにこちらを窺う、淡い色の瞳がエオメルを射抜いた。いつもこの瞳に魅了される。初めて会ったときもそうだった。天を走る光よりも——
惹きつける存在。
エオメルはこくりと唾を飲み込み、つかんだ腕を強く引いた。意外にも抵抗はなく、麗人の痩身はエオメルの傍らへ移動してきた。肘掛けに手を付いた彼が静かに微笑む。星が流れる空の下、二つの人影が一つに重なった。
「そろそろ休もうか」
愛おしい体温が離れる直前、甘い囁きが聞こえた。
END