土産
白の塔の下に広がる街並みをやわらかな朱の光で包み、太陽がミンドルルインから伸びる稜線の向こうに沈んだ。残照が西の空をほんのりと赤く染めている。それも間もなく夜の色に染め変えられるだろう。
窓際に立っていたゴンドールの執政ファラミアは、ひとつ息を吐くと机に歩み寄り、インク壷に蓋をした。机上に広がっていた書類をまとめ、箱にしまう。先刻トランペットが鳴り響き、多くの官吏は退出していった。この部屋に残っているのもファラミア一人だ。部下はすべて帰らせた。明日に備えて——。
明日、エレスサールが帰国する。隣国ローハンを訪ねている国王が、明日の午前、ミナス・ティリスへ着く——その先触れが本日あった。予定どおりの日程とはいえ、王を迎えるにあたってはやはり緊張が伴う。何事もないのが当たり前、ご帰国の際に問題が発生すれば一大事。粗相があってはならない。
救国の英雄に表立って弓を引く不逞の輩は幸いいないが、王本人が姿を晦ましたがるから油断できない。
モルドールの闇を払い、テルコンタール王朝を興して即位したエレスサールは概ね賢王と言えるが、前身が人目を忍ぶ野伏だったせいか、目立つことを避ける傾向が強い。そのため、帰国の度に大仰に迎えられることを厭い、背格好の似た者を身代わりに仕立てて、自身はこっそり大門をくぐるという手を用いることがこれまでに幾度かあった。
発覚する都度、「ご公務のうちです」と言い聞かせてきたが、「やっぱり厭だ」とぬか……もとい、仰せになり、身代わりを仕立てる悪癖は止んでいない。
——今回はどうなさるおつもりか。
今回のローハン訪問は滞在日数が短く、夕星の王妃を伴っていない。型破りの王も、王妃と共に大門をくぐることに異論はないらしく、彼女が同行している場合は至極普通に帰城する。なぜかと言えば、
——皆、アルウェンを見ているだろうから。
というのが根拠らしい。つまり、人々が注目しているのは美しいエルダールの妃で、自分は添え物。だから気が楽だ——という認識のようだ。
——陛下も注目されていますよ。
とは告げずにおいたファラミアだった。知らせないほうが良い真実もある。
とにかく、王妃が同行していない外遊は、エレスサールが身軽に動く可能性が高いということになる。
口には出さないが、最近、ファラミアは王の出方を楽しむ余裕が出てきた。これこそ王の思う壺、まんまと彼の術策に嵌っているのかもしれない。だが、迎えるこちら側が気を揉んでも、阻止できるものではないのだ。随行員に任せるしかないのならば、いっそ楽しんだほうが精神衛生に良いと言える。
堂々と騎乗して門をくぐろうと、フードを被った旅装でこっそり門をくぐろうと、お帰りになることに違いはないのだから。そう——
必ずお帰りになる、ここへ。
それがわかっているから、待っていられる。彼が発つのを見送ることができる。けれど——、
そばにいないのもまた事実だ。
——当たり前ではないか。
ファラミアはふるりと頭を振り、マントを羽織った。エレスサールは物見遊山に出かけたわけではない。彼は王だ。友好国の訪問は外交上重要な公務である。王の外遊中、執政である自分が都を守る——当たり前の話だ。
——けれど……。
繰り返される身の内の呟きを、ファラミアは息を吐いて払い、暗さの増してきた部屋を出た。
◆◇◆◇◆◇◆
夕食を済ませた後、ファラミアは使用人に休むよう言い、書斎に引き取った。机上にあった読みかけの書物を手に取り、しおりの挟まれたページを開いた。

——今朝、居間の暖炉へ火を入れにいった侍女が悲鳴を上げた。黒い猫がソファに寝転んでいたという。昨日、孫が屋根裏部屋で見たのと同じ猫のようだ。孫も驚いて叫び声を上げていた。孫も侍女も猫は好きなはずだが、二人はその猫のことは「気味が悪い」と言っていた。嫁は王妃殿下の猫ではないかと脅えている。夫や息子と相談し、我が館に大それた秘密はないものの、念のために猫を見かけたら口を閉ざすよう取り決めた。

書物はゴンドール第十二代タランノン王に仕えた宮廷人の妻の日記だった。タランノンは船艦王の始祖と呼ばれ、ファラストゥア(沿岸の支配者)の名を持つ偉大な王であったが、迎えた王妃との間に愛情が芽生えることはなく、世継ぎにも恵まれなかった。
愛なき后の名はベルシエルと言い、九匹の黒猫と一匹の白猫をしもべとして、オスギリアスの王宮で暮らしていたそうだ。王妃は猫たちにゴンドール中の秘密を探らせ、どういう手段を用いてか、「人の一番知られたくないこと」を聞き出していたという。
それが行き過ぎたのか、別のことで王の怒りを買ったのか、詳細はわからぬが、タランノン王の命によって王妃は猫と共に船に乗せられ、海に流されたと伝わっている。その後、ベルシエルの名は王家の書から消された。
だが、人の記憶を消すことは出来ない。王妃の名は人の口を介して残った。今でも目敏い人物や秘密を探り出す行為を指して、「ベルシエル王妃の猫」という言葉が使われることがある。それにしても……、
——こんなところまで読んでいたのか。
ファラミアはページを前へとめくった。昨夜も開いていたのに、読み進めた記憶がない。忘れたのではなく、元から内容が頭に入っていないのだ。
——参ったな。
ファラミアは苦笑して書物を閉じた。
——こんなに散漫になっているとは……。
額に手をやり、深々とため息を吐く。文字を追うことすら集中できなくなる程、落ち着きを失っているなど、認めたくなかった。が、こうなれば認めざるを得ない。仕事でミスを犯さなかったのが唯一の救いだろうか。
原因はわかっている。エレスサールの帰りが近づいてきたからだ。
先触れがなくても、最初に取り決めた日程で帰国の日の予測は付く。それで、外遊の日程が終わりに近づくと、王宮全体の空気も変化してくる。どことなくそわそわした雰囲気になるのだ。
だが、王の外遊が終わりに近づく頃には、ファラミアが抱える仕事はひととおりの決着が付く。エレスサールが発つ前に指示を仰いでおいた件ならばともかく、それ以外で国王の決裁が必要な案件は保留にするしかないからだ。
それらはファラミアの指示で集められた資料や調査書とともに、国王の執務机で主の帰りまで留め置かれる。稟議を上げても決裁が下りてこないため、だんだんと手が空いてくるのだ。
この“時間が空く”のが問題だった。つい余計なことを考えてしまうからだ。
——かの人は何をしておいでだろう。
そんな思いを追い払おうとしても、王宮を覆う空気がそぞろなものになる中では難しい。気づけば考えてしまっている。青灰色の瞳を持つ人のことを。
それが他の者のように、主の帰りを楽しみに思うものならば、胸の内から追い出すこともなかっただろう。だが、違うのだ。他の者たちは楽しみから浮き足立っているが、ファラミアが抱えているのは疑心や苛立ちといった、醜く淀んだ感情だった。
——かの人はローハンでどう過ごされたのか。
自分はローハン王の想いを知っている。第十八代のローハン王、エオメルは己を偽ることも飾ることもしない、草原の民らしいまっすぐな気性の青年だ。彼は指輪をめぐる戦いの中で出会ったエレスサールに心酔し、その想いを隠すことはなかった。そのため、戦いが終結した後、ローハン王がゴンドール王を慕っているのは周知の事実となった。
しかし、エオメルの持つ感情が思慕と称するには強過ぎ、友愛の情と呼ぶにはいささか生々しいものを含んでいることに、果たして何人が気づいていただろうか。いや、エオメル本人も気づいていなかったかもしれない。過ぎる程に率直な感情は、当人にすら邪心など無いと錯覚させる。
けれど、所詮は錯覚だ。いつ——なのかはわからぬが、彼は己の欲するところを知り、そして——、
その率直さでもってエレスサールに気持ちを伝えた……のだろう、おそらく。
二人の間のことをとやかく言う権利は自分にはない。けれど、ファラミアの抗議とも呼べぬ嫉妬をエレスサールは受け止めてくれた。
それで充分だったはずだ。
なのに、今また自分は、エレスサールがローハンでどう過ごしたか、気にしている。
——浅ましい……。
書物の文面が目に入り、ファラミアは自嘲した。
——今の世にベルシエル王妃の猫がいないことを感謝すべきだな。
そう思って書物を閉じたとき、コツリと打つ音が窓から聞こえた。瞬時に身体に緊張が走る。窓辺を窺いながら素早く剣を引き寄せた。現場から離れたとはいえ、野伏としてイシリアンの野を歩いていた頃の感覚は忘れていない。ファラミアはそろりと立ち上がった。
コツコツ……。
また窓枠が叩かれた。剣帯を締めながら、ファラミアは露台に面する窓辺へ近づき、カーテンを揺らさぬよう身を寄せた。剣の柄に手をかけているが、実のところ、この向こうにいる者を不審者だと思っていない。
城塞都市であるミナス・ティリスは、大門が閉まった後に忍び入ることはまずできない。今の時間は各層の門も閉じられている。この状況で高層にある執政館に忍び込める者はごく僅か、今、予想できるのはただ一人である。それでも万が一ということはあり、油断はできないが……。ファラミアは用心深くカーテンを開けた。
玻璃の向こう、すらりとした影が夜の闇に溶け込むかのように立っていた。夜風にマントが揺れるさまは怪しいことこの上ないが、フードの下から覗くのは、ファラミアのよく知る、親愛の情を湛えたやわらかな青灰色の瞳だった。ファラミアはひとつ息を吐き、窓を開けた。
「こんばんは。執政殿」
細身の男が室内に滑り込んでくる。
「しばらく振りだな。元気そうで何よりだ」
フードの下から現れたのは、三週間程前、都を発ったときと変わらぬ笑顔だった。
「お戻りは明日と伺いましたが……」
窓を閉め、カーテンを引きながらファラミアは言った。
「そのつもりだったが——」
しゃべりながら、エレスサールは背負っていた荷物を下ろした。
「これを早くあなたに渡したくてね」
荷袋から平たい円筒形の木箱を取り出し、にこりと笑った。
「なんですか?」
1フィート程の幅がある木箱を受け取りながら、ファラミアは訊いた。両手で持ったそれはずしりとした感覚があった。鉄の塊のような重量はないが、中身の詰まった手応えを感じる。
「土産だ」
エレスサールは笑った。
「今の時期にしかつくられないローハンのチーズだ。それも白の山脈寄りの限られた地域が生産地らしい」
言われて、ファラミアは「ああ」と思った。
「そういえば、エオウィンが毎年取り寄せています」
妻に迎えたエオウィンはローハンの王女だった。毎年今頃になると、ローハンから取り寄せるチーズがある。まあ、彼女が催促するというより、季節になると実家から送られてくるのだが。あまり日持ちのしないチーズらしく、そんなに多くは送られてこない。食卓に上る際は箱から出されているので、梱包された状態を見るのは初めてだった。
「ああ、やはり、エオウィン殿のところへ届いていたか」
そんなことをエオメル殿が話していたと言いながら、エレスサールは土産が重複したことを照れるように小さく苦笑を漏らした。
「けれど、これはエオウィン殿へ送っている物とは別のつくり手のチーズで、また違った風味があるらしい」
「はあ……」
ファラミアは呆然と呟いた。主君から品物を賜るのは喜ばしいことだが、なぜ、いきなり隣国の特産品を土産だと——それも夜間、忍び込んで——持ってくるのか……。その突拍子のなさに——型破り具合には慣れてきたつもりだったが——付いていけなかった。 チーズの箱を抱えて立ち尽くすファラミアを前に、偉大な王は荷袋に手を突っ込み、新たな品を取り出した。
「あと、葡萄酒もある」
ずんぐりとした形の瓶が現れる。
「あちらの地酒なんだが、なかなかイケる。——まあ、これもエオウィン殿ともども知っているかもしれないが……」
どうだ? と窺うような眼差しに、ファラミアは思わず答えていた。
「……いえ、その瓶は初めて見ます」
「そうか」
良かったというように、エレスサールは明るい笑みを浮かべた。目を細める主の顔に、胸の内がほんわかとなったファラミアだったが、問題はそこではないと気を引き締めた。
「あの、陛下……」
「ん?」
「なぜ、これらの品をお持ち帰りに?」
いくら「土産」と言っても、王自ら運ぶことはない。そもそも持ち帰って来ずとも、送らせれば済むことなのだ。
「なぜって、言っただろう? 土産だと」
言わなかったか? と首を傾げられ、ファラミアは肩を落としそうになった。が、ここで脱力するようでは眼前の主君に仕えていくことはできない。
「大変ありがたいことですが……。なぜ、その……急に、土産をお持ちになったのです? 今までなさらなかったでしょう」
別に、エレスサールが忍んで物を持ってきたからといって、何か裏があるとは思わないが、いったいどんな気まぐれからのことか、そこは押さえておきたい。でないと、また「執政殿に土産」と言って、外遊帰りに抜け出してくる恐れがある。そういうことはお止めくださいと叱っても効果が期待できない相手は、原因を探って対処したほうが確実に再発防止ができる。
「いや……、今までも考えてはいたんだが……」
なんだか恐ろしいことをエレスサールは呟いた。
——では、今まで機会を窺っていたのか?
ファラミアの疑念を察したようにエレスサールは「ああ、そうじゃなくて……」と手を振った。
「土産を持って帰ることじゃなく、あちらのうまい物を執政殿と一緒に食べられたらと……」
「ローハンの農産物なら、城でも食卓に上りますし、これまでに何度か相伴させていただきましたが」
ローハンの特産品が城の食卓に上る機会はそれなりにある。特に乳製品はしばしば口にする。
「だが、現地でないと口にできない物もあるだろう?」
「まあ、そうですが」
確かにローハンの特産物すべてを味わえるわけではない。海産物をローハンで味わうことが難しいように、距離の隔たりは大きい。
「そうした物を一緒に味わえたらと思ったんだ。しかし、いざ実行しようとすると難しい。王と執政が二人揃って国を空けるというのは、なかなか……」
エレスサールが肩を竦めて首を振る。難しい——というより、王が国を空ける間、留守を預かるのが執政なのだから、二人揃って外遊というのはほぼ不可能である。
「それでうまい物のほうを運ぶことにした」
齢(よわい)九十に迫る主君の顔に実に無邪気な笑みが浮かんだ。どうやら、本当に一緒に食べたくて持ってきた——だけらしい。
——さて、どうしようか。
なんとも言えぬ幸福さを噛み締めつつ、ファラミアは指先でこめかみを押さえた。正直に本心を吐露すれば、うれしいとしか言いようがない。しかし、諸手を挙げて喜べないところがなんとも……。そんな態度を取ってしまったら、この主は外遊の度、同じことを繰り返すだろう。それでは困るのだ。悩ましいところである。
「……ファラミア?」
考え込んでいると、エレスサールに呼ばれた。気づけば、間近で彼がこちらを窺っている。
「どうした? 気分でも悪いのか?」
ファラミアの顔を上目遣いで覗き込んだまま、エレスサールはこくんと首を傾げた。
「大丈夫か?」
彼の温かな指がすっと頬に添うように触れた。
とくん、とくん……。
ファラミアの鼓動が早くなった。
「ファラミア?」
黙り込んで——というより、円筒形の箱を手にしたまま動きを止めてしまった臣下を、やや斜め下から心配そうに青灰色の瞳が見つめている。
「その……大丈夫か?」
間近で囁く声が堪らない。艶めいたことを言われたわけでもないのに……。
わかっている。微妙な角度からの凝視も、囁くような声も、単なる彼の癖だ。短くない付き合いの中で承知済みである。そんな絶妙な癖がなぜ付いてしまったのか——それに関しては、いつかじっくり考察してみたいと思っているが、
今はその時でない。
——そう、今すべきは……。
ファラミアは手にしていたチーズの箱をテーブルに置いた。空いた手を自分を窺っている人の背にまわす。
「外遊先でも臣下のことをお気遣いくださりありがとうございます」
すらりと言葉が出た。
「ですが、わたしが何よりうれしいのは、こうして陛下が無事にお戻りくださったことです。できれば——」
ぐい、とエレスサールの腰を引き寄せる。
「予定どおり、堂々と騎馬でお戻りくださると更に喜ばしいのですが」
「そ、そうか……」
ファラミアの態度の変化に不穏なものを察知したのか、エレスサールの声が上擦った。
「次からはそうしよう……」
彼を引き寄せようとするファラミアの力に抗うように、エレスサールが腕を突っ張っる。自分から近寄っておいて、今更それはない。ファラミアは腕に更なる力を込め、にっこりと笑った。
「ええ、そう願います」
「……ああ、わかった」
顔を引き攣らせたエレスサールの腕にも力が入った。諦めが悪いというか、粘り強いというか……。無防備そうでいて、邪な思惑を察知すると一転、頑なに距離を取ろうとする。
——仕方ない。
ファラミアは主の背から手を放した。
「そのように厭われては、再会と感謝の抱擁もできませんね」
フッと息を吐きながら肩から力を抜き、苦笑をこぼす。
「土産はいただけても……」
エレスサールから微妙に視線を逸らし、一言ぽつりと呟いた。
「淋しいものです」
途端、エレスサールが慌てた。
「あ、いや……、そういうつもりでは……」
胸の高さに上がった両手が落ち着かない動きを繰り返す。
「すまない。その、つい……。決して悪気があったわけでは……」
「構いませんよ」
主の焦るさまを内心微笑ましく感じながら、ファラミアはやさしく答えた。
「部屋をご用意いたします。しばらくお待ちください」
「あ、ファラミア——」
踵を返した背に縋るような声がかかる。そこまで焦ることもないだろうにと、緩む口許を引き締めつつ振り返ると、長い腕が巻きつくような勢いで首にまわった。
「すまない」
耳許で謝罪の言葉が囁かれる。
「別に厭だというわけじゃない」
悔恨の響きが滲んだ声に、胸を突かれた。こんな生真面目な対応をされては、からかったこちらが悔いて赦しを乞いたくなる。まったく……、
——この人はままならない。
「わかっておりますよ」
ファラミアは自分にしがみついている愛しい主の背に手をまわした。土産もうれしい驚きだったが、この温もりを腕に抱けることが何よりの歓びだ。
——明日は代役に門をくぐってもらうことになるな。
呟いた胸の内から、この数日、溜まっていた淀みは既に流れ去っていた。
END