My dear father
襟元を白貂の毛皮で飾った黒い天鵞絨のマントを肩から落とし、エルダリオンの父、ゴンドール王エレスサールはふうっと息を吐いた。寝椅子の上にマントがでたらめに折り重なる。侍従がそれを丁重に拾い上げ、部屋を出ていった。マントが除けられた場所に、すらりとしたエレスサールの身が沈む。
「お疲れ」
エルダリオンが水を注いだ杯を差し出すと、父は「ありがとう」と受け取った。
昨日、父の誕生日を迎えた。王の生誕を祝うため、一昨日からさまざまな典礼が執り行われた。諸侯が祝辞を述べに訪れたのはもちろん、日中は解放された城塞に多くの民が祝福に訪れた。父が城塞に姿を現す度、集まった人々から歓声が沸き上がった。誰もが笑顔で手を振っていた。王である父が民から慕われていることは、王太子であるエルダリオンにとっても喜ばしいことだった。
日が暮れて後、昨日は晩餐会、今日は舞踏会が開かれた。灯火の下、華やかな衣装を纏った紳士淑女たちが楽の音に合わせて踊った。舞踏会でも、料理や酒は振る舞われる。立食のテーブルに厨房が腕を振るった料理と、各地の銘酒が並んだ。王の生誕を祝う人々は自分たちも十分に楽しみ、先刻、宴はお開きとなった。
「ふう……」
水を飲んだ父は深呼吸とともに腕を伸ばし、クッションを枕にしてごろりと寝椅子に転がった。
「寝るなら寝台にしなよ」
肩を揺すると青灰色の目が薄く開いた。
「……そうだな」
薄く笑って父は起き上がり、寝椅子を下りた。しかし、足を踏み出した途端、その長身がぐらりと揺れた。
「ちょっ……!」
エルダリオンは慌てて、父の腕を引っ張った。
「大丈夫?」
「ああ……」
大丈夫だというように父は微笑んだが、その顔には疲労の色が滲んでいた。無理もない。三日間で行われた典礼ごとは両手の数より多い。そのすべてに主役である父は出席している。そのうえ、典礼に時間を割くために、執務を前倒しして行っていた。この一ヶ月間の王の日程の過密さは凄まじかった。
「具合が悪かったなら、早く引き上げればよかったのに」
「別に具合が悪いわけじゃない。ちょっとふらついただけだ」
「それを具合が悪いと言うんだろ? 国王はふらつくだけでも問題だと、ファラミアが言ってたぞ」
エルダリオンが執政の言葉を引用すると、父は大仰にため息を吐いた。
「わたしの息子は、親より執政の言うことをよく聞くのか。さみしい話だな」
「父上自身の体調に関する発言は信用ならない——その点は執政の意見に賛同する」
きっぱり言うと、父は苦笑した。
「わたしはずいぶん信用がないんだな」
「そういうこと。——ごちゃごちゃ言ってないで、疲れてるなら早く休んだら?」
「はいはい。殿下の仰せのままに」
父はおどけた表情で肩をすぼめると、寝台のある隣の部屋へ向かった。エルダリオンはその後に続き、父が寝台へ入るのを見届けた。寝台へ潜り込んだ父の顔を見れば、やはり血色が悪い。念のためと額に触れれば、手に熱を感じた。
「熱がある」
軽く睨んでやったが、父は大したことじゃないと笑った。
「一晩眠れば引く」
「そうやって笑ってるから信用ならないんだよ。まったく……」
エルダリオンは眉を上げた。
「調子が悪いなら、早めに切り上げてこればよかったんだ」
「そういうわけにはいかない。宴の出席者たちは、わたしの誕生祝いに集まってくれたんだから」
父は大真面目な顔で言った。百年以上生きている人が何を甘いことを言っているのか、呆れてしまう。今宵、貴族や諸侯が集まったのは国王の生誕祝いのためとなっているが、そんなものは名目で、真の理由は彼らの利益を生む何かがあるからだ。
「そんなの建前だろ」
「——だったとしてもだ、エルダリオン、そんなことを口に出して言うもんじゃない」
穏やかな声でたしなめられ、エルダリオンは口を噤んだ。
「どんな思惑があろうと、彼らも国を支える民だ。ゴンドールの不利益にならない限りは——」
国の不利益にならない限りは大目に見てやれ——そういうことらしい。
「わかったよ」
エルダリオンは頷いた。青灰色の目がにこりと細められる。
「おやすみ」
エルダリオンはそっと父の額に唇を落とした。
「ああ。お前はどこで寝るんだ?」
自室まで戻るのかと、父が首を傾げる。
「寝椅子を借りるよ」
そう答えながら、予備の毛布を抱える。
「そうか。おやすみ」
「うん」
おやすみ——と呟きながら、エルダリオンは寝室を出た。寝椅子に腰を下ろし、ふっと息を吐く。
——王は……孤独だな。
なぜか、そう思った。体調が悪くても、誰にもそれと悟らせず、笑顔で対処しなければならないことをそう感じたのか。それとも、貴族や諸侯の思惑を知りつつ、国益を損なうことでなければ、素知らぬ振りを通して応対することを孤独と思ったのか。どちらにしろ、周囲に気を許していないことになる。その事実を孤独だと感じたのか。
父には気の置けぬ側近もいる。その筆頭が執政職にあるファラミアだ。細かいことを言う人物だが、父が即位したときから仕えている彼の忠誠は疑う余地がない。今夜も父の体調が思わしくないと知れば、宴の場から早く退出させただろう。
だが、父は彼のような忠臣相手にも、要らぬ心配をかけぬよう気を遣い沈黙している。それが孤独に思えてならなかった。独り、誰にも触れさせない部分を抱えているような……。
エルダリオンの脳裏に磨き上げられた石の階段がよぎった。美しくも冷たい玉座。気の置けぬ相手にも真情を吐露することなく、独り抱えていくことが、あのきざはしの上に座る者の宿命なのだろうか。だとしたら、
——あまりにも哀しい。
いや……。エルダリオンは暗い思考を払うように頭を振った。父にそんな自覚はないだろう。今回のことも、体調が悪いと知れることによって騒ぎになり叱責される、その煩わしさを避けようとしただけなのかもしれない。百歳を過ぎてなお、エレスサールにはそういう子供のようなところがある。
そういうところがまた、周囲の者が放っておけないと思う理由かもしれない。そして自分も、父のそんな部分に人間味を感じている。
エルダリオンは毛布をかぶり横たわった。隣室のほうの壁を向き、昨日言った言葉を口の中で呟く。
——誕生日おめでとう。
ああ、ありがとう——。昨日聞いた父の声が耳の奥でよみがえった。胸の内がほわりと温かくなる。
——来年も、再来年も、ずっと……。
こうした時間を過ごせることを祈り、エルダリオンはそっと目を閉じた。
END