夏の一幕
晴れ渡った空から陽射しが降り注ぐ。夏は白い石造りのミナス・ティリスが太陽の光を弾き、より輝きを増す季節だ。“守護の塔”と名を変えるまではミナス・アノール——太陽の塔と呼ばれていた。太陽の地——アノリアンに建つ塔だからの名だが、光を反射し輝きを増す姿を見ていると、太陽の下こそ相応しい塔という意味で名づけられたのかもしれない……と、アラゴルンは回廊で足を止め、エクセリオンの塔を振り仰いだ。
青空を衝くようにそびえ立つ巨大な塔は白い肌を輝かせ、その威容を誇っている。まばゆさに目がくらみそうになって、アラゴルンは視線を逸らした。
「ふぅ……」
額に浮いた汗を手の甲でぬぐって息を吐く。
朝議を終えて、執務室に戻る途中だった。この回廊を通るのは遠まわりになるが、風通しが良く、アラゴルンは気に入っていた。だが、今の季節は照り返しが強い。回廊は日陰に入っているが、中庭を横切る石畳や建物の壁の白い石が光を反射して目が痛い。目にするだけで、暑さが増したような気分になる。
——なかなか慣れないな……。
アラゴルンの故郷は中つ国の北西部、エリアドールだ。夏は短く、強烈な暑さとは無縁である。エリアドールより遙か南に位置するゴンドールの夏とは比べものにならない。
——以前、暮らしていた頃はもう少しマシだった気もするが……。
戴冠前のアラゴルンは野伏だった。ゴンドールより南の砂漠を旅したこともある。それどころか、素性を隠してゴンドールに士官していたことすらある。当時、こんなに暑さが堪えただろうか——と思いを巡らせ、出てきた記憶は……
——夏バテとは情けない奴だな。
暑気あたりで身体が食事を受けつけなくなり、ついには青い顔をして倒れたことだった。耳の奥に蘇ったのは、当時の執政の継嗣、デネソールの冷淡な声だった。ついでに、
——それ以上痩せるな。抱き心地が悪くなる。
ろくでもないことまで思い出してしまい、アラゴルンは回廊の柱に手を付いて、ぐったりと息を吐いた。抱き心地云々はともかく、己と暑さの関係は昔も今も変わらないということだ。
——進歩がないな。
日陰の石材の冷たさが気持ちよく、アラゴルンは額を石柱に押しつけた。そこへ、背後から静かな足音が聞こえてきた。アラゴルンのよく知る気配が近づいてくる。しばらくして、
「——陛下、どうなさいました?」
耳に馴染んだ声が聞こえた。
「なんでもないよ、ファラミア」
アラゴルンは顔を上げた。くせのある淡い金髪を肩先で揺らした背の高い男が、書類の束を抱えて立っていた。
前のゴンドールの執政デネソールの次男で、現在の執政である。またアンドゥインの東岸イシリアンを治める領主でもある。今、その清しい碧い瞳には怪訝な色が浮かんでいた。仕える主君が回廊の柱に懐いていたら、訝しむのが普通であろう。
「お加減でも?」
「いや、柱の石の冷たさが気持ちよくて、ついね……」
アラゴルンは自嘲気味の笑みを浮かべて答えた。常より“国王らしからぬ振る舞い”には厳しい執政である。案の定と言うべきか、ファラミアは無感動な口調で「さようでございますか」と言った。あからさまに呆れた顔をされなかったのは、彼なりの礼儀なのかもしれない。
「確かに暑さが厳しいですね」
中庭に目を遣ったファラミアが陽射しに眼を細める。
「執務室に氷室の氷を運ばせましょう」
「そこまでしなくていいよ」
アラゴルンは首を振った。部屋に氷柱があれば気温は下がるだろう。目にも涼やかだ。だが、氷室から氷柱を切り出し、執務室へ運ぶのはかなりの手間である。国王にそれだけの力があるのは知っているが、使いたいとは思わなかった。
しかし、そんなアラゴルンの考えと、執政の思惑は異なったようだ。
「回廊で柱に抱きつくより、氷を使ったプレイのほうが愉しめると思いますが」
真顔で言われて、アラゴルンは固まった。
「いや……その……」
さっきまでの暑さはどこへやら、急に寒気を覚えたアラゴルンだった。冷えた汗がつつーっと背中を流れる。
「えっと……だな、わたしにそういう趣味はないから、気をまわさないでくれ」
ようやくそれだけ言った。
「さようでございますか。残念ですね」
本当に残念そうに息を吐かれ、アラゴルンの背中を再び冷えた汗が流れた。
「ところで、陛下。なぜ、お一人で歩いてらっしゃるのです?」
「なぜって、朝議が終わったから……」
執務室に戻ろうと——と続けようとして、アラゴルンはファラミアが訊いたのはそういうことではないと気づいた。彼は「お一人で」と言った。いつものごとく、アラゴルンの一人歩きを遠まわしに咎めているのだ。
そう言う執政が一人歩きしているのは問題じゃないのかと訊いたことがあるが、
——国王捜索という緊急時には些末な問題です。
と言い切られてしまった。要するに、アラゴルンがふらふら一人で出歩かなければ、ファラミアが単独で歩くこともなくなると言いたいらしい。釈然としないものを感じたが、それ以上の口論は不毛な気がしたので黙っておいた。
そして、彼はいつも一人でアラゴルンを捜しにくる。今そうしているように。
「侍従が捜しておりましたよ。いつの間にか、お姿が見えなくなったと」
「それは……悪いことをしたな」
侍従に書類を運んでおいてくれと言い置いて、アラゴルンは議場の控え室を出てきた。特に姿をくらまそうと思ったわけではないが、結果としてそうなってしまったらしい。
「それで、執政殿が書類を運んできたのか?」
ファラミアが手にしている書類を見て訊けば、彼は「いえ」と首を振った。
「これは別の資料です。侍従はあちらから執務室へ向かいました」
ファラミアは庭の向こうに連なる屋根に目を遣った。
「あちらを通ったほうが近いですからね」
「そうだな」
頷いて、アラゴルンも庭の向こうの建物に目を向けた。
「あちらのほうが早く着くな。——急ごう」
アラゴルンは大股で歩き出した。同じ歩調でファラミアも歩き出す。その手にある書類の束を見て、アラゴルンは訊いた。
「朝議の書類は侍従が運んでいるなら、あなたが持っているのは何だ?」
「カイア・アンドロスの資料です。軍務の官吏から目を通してほしいと渡されました」
ファラミアは歩きながら、ぱらりと書類をめくった。
「先日、アンドゥインが増水した件を憶えてらっしゃいますか?」
「ああ、オスギリアスで一部の岸が冠水した件だろう? レゴラスから来た手紙にも川沿いの森が水に浸かったと書いてあった」
レゴラスは闇の森出身のエルフで、指輪棄却の旅の同行者だった。現在は北イシリアンで暮らしている。
人の子の真似をしたがる変わり者の彼は、季節ごとに近況を報せてくる。昨日届いた手紙には川の水が溢れ、森の中も水浸しになったとあった。だが、エルフたちの舘には被害はなかったから安心してくれとも書いてあった。
オスギリアス付近でも増水したが、廃墟部分の浸水で済み、すぐに水が引いたのであまり気に留めていなかった。しかし、カイア・アンドロスでは事情が違ったらしい。
「カイア・アンドロスでは砦の土台の一部が崩れたそうです。幸い人的被害はなかったとのことですが、砦は戦争で受けた破壊の補修もまだだったため、被害が大きくなり、現地だけでは修復できないとか……」
駐留部隊には工兵もいる。多少の損害なら修復できる。それができないというのだから、被害は相当のものだろう。
「財務にどれぐらい予算を付けられるか訊いてくれ。もし、ミナス・ティリスの工事で緊急を要しないものがあれば、その費用をまわしてもいい」
ミナス・ティリスは王都ということもあって、優先的に補修作業が進められた。生活に支障がない程度には復旧している。
それに予算が足りないというなら、不要な部分に割り当てられた予算があるのだ。そう不必要に華美な衣装という——
「わたしの衣装の予算がまわせるならもっといいが……」
しかし、口にした途端、
「陛下……」
執政の声の調子が低くなったので、それ以上続けるのは止めた。
「言ってみただけだ」
アラゴルンは肩をすぼめた。
「それぐらい優先で予算を付けてやってほしいという意味だ」
「財務の長官へ伝えます」
「ああ、よろしく」
そんなことを話しているうちに、執務室へ着いた。重厚な扉の向こうの部屋は思いのほか涼しかった。開け放たれた窓から心地良い風が吹き込んでくる。
侍従に運ばせた書類は既に届いていた。他の書類と一緒に小山を築いている。昨日片づけた分以上に増えていた。
——切りがないな。
やれやれと息を吐き、執務机へ二、三歩進んだとき、まばゆい光が目を射た。眇めた目に天井近くから射し込む白い光が映った。
——ああ、天窓か……。
そう思って見上げたはずの視界がすっと陰った。急速に景色が黒で塗りつぶされていく。どうした……と思う間もなく、アラゴルンの身に衝撃が走った。鈍い衝突音が耳を打つ。
「陛下っ!」
執政の叫び声を聞いて、アラゴルンは自分が倒れたのだと悟った。
「うっ……」
とりあえず起き上がろうと膝に力を入れたが、伸びてきた手がそれを押し止めた。
「動かないでください」
「動くなと言われても……」
アラゴルンは声を頼りに振り向いた。まだ視界は黒い紗がかかったようにぼやけている。ファラミアの顔もはっきり見えなかった。けれど意識ははっきりしている。座り直すぐらいのことはしたかった。
しかし、アラゴルンが自分で体勢を立て直す前に、身体が浮き上がった。
「おいっ……」
ファラミアに抱え上げられたのだ。勝手に持ち上げるなと抗議したが、冷えた声に遮られた。
「暴れないでください。落としてしまいます」
その言葉どおり、ずり落ちそうになったアラゴルンは、反射的にファラミアの服をつかんでしまった。下ろされるのと落とされるのでは大いに違う。それに、抱えられていたのはほんの短い時間だった。
「大丈夫ですか?」
アラゴルンを寝椅子に下ろしたファラミアが訊いた。
「ああ、大丈夫だ」
アラゴルンは頷いた。先程まではぼんやりしていた視界も、今はくっきりと見えている。一時的な目眩だったのだろう。そう思って立ち上がろうとしたが、
「起きてはなりません」
また執政に止められた。妙に心配性である。心配させたのは無様に倒れた自身のせいでもあるが……。
何にせよ、朝議が終わったばかりの段階で、「起きてはなりません」と寝転がされていては仕事にならない。脇机では書類が小山を築いている。この後も稟議書や決裁書がまわってくるだろう。片づけなければ山脈になってしまう。
「ファラミア——」
心配性の執政を安心させるべく、笑顔でアラゴルンは言った。
「心配いらない。軽い目眩だ。もう大丈夫だ」
しかし、執政の表情はやわらがなかった。長椅子の脇に膝をついた彼はきっぱりと言った。
「恐れながら、陛下。そのお言葉、信用いたしかねます」
己の右腕に信用できないと断言され、アラゴルンは肩を落とした。
「わたしはそんなに信用がないのか……」
「陛下のことは信頼しております。ですが、陛下ご自身のお体に関してのお言葉だけは信用いたしかねます」
慇懃ながら鋭い言葉に、アラゴルンは苦笑した。昔も似たようなことを言われたと思い出し、やれやれと目許を覆った。
——あなたの体調に関する「大丈夫」は信用できないんですよ。
あの頃も、食事はきちんと取っているのか、無理はしていないか、心配されてばかりだった。自分はまったく進歩していないらしい。
「……わかったよ」
苦笑交じりに息を吐き、アラゴルンは言った。
「もう少し休んでいる。それでいいだろう?」
「できれば、薬師に診ていただきたいですが……」
「その必要はない」
執政の言葉をアラゴルンは慌てて遮った。ただの目眩で寮病院の薬師を呼ぶなど、そんな騒ぎはごめんだ。
「そうおっしゃると思いました」
ファラミアは諦めたような苦笑を浮かべた。
「とにかく、しばらくお休みください。このところ、お顔の色が優れませんし……」
「そうか?」
衣服を緩めながら、アラゴルンは訊いた。横になるのだ、楽にしたいとベルトも外す。
「食が細くなられたでしょう」
気遣わしげにファラミアが言った。
「十日程前に、食事を戻されたと聞きましたよ」
筒抜けだなと、アラゴルンは息を吐いた。十日前なら、ファラミアは領地であるイシリアン──エミン・アルネンの舘にいた。細かい出来事は耳に入っていないのが普通だ。だが切れ者の執政は抜かりなく情報を仕入れているようだった。
しかし、自分の体調に、そこまで執政が目を光らせているのかと思うと、少々げんなりした。アラゴルンとて自身の体調に無頓着なわけではない。元は野伏である。食を受け付けなくなってはまずいことぐらい重々承知だ。対策は取っている。
「その後、料理長と献立について相談した。それ以降はちゃんと食べてる」
アラゴルンの反論に、執政は当然のように頷いた。
「ええ。確かにそのように聞いております」
何もかも知っているというわけだ。さすがだと思いつつ、相手がすべて知っているのなら、あれこれ話すのも面倒である。アラゴルンは大きく息を吐くとぞんざいに言った。
「だったらいいだろう」
心配をかけているのはわかっているが、ずっと小言を聞かされるのは勘弁である。アラゴルンは執務机のほうを指し、脇の男を追い払うようにひらりと手を振った。
「時間があるなら、書類の整理を頼む」
「かしこまりました」
落ち着いた声で答えた男は音もなく立ち上がり、離れていった。アラゴルンは目を静かに閉じた。
やがて執務室は紙が擦れる音と静かな寝息に満たされた。
◆◇◆◇◆◇◆
夕陽が斜めに射し込み、赤く染まった回廊をファラミアは書記を伴に歩いていた。既に夕刻のトランペットは鳴り、主な官吏は退出している。だが、夏の日は長い。冬ならとっぷりと暮れている時間帯でも、今の季節では夕焼けだ。
カツリ、カツリと石の階段を上る。薄暗い踊り場で松明が揺れていた。それを見て、書記は用意してきた手燭に火を点けた。ほの暗い行く先を照らして、彼は階段を上がっていく。
イシリアンの野伏の経験があるファラミアは夜目が比較的利くため、黄昏時なら灯りは必要ないぐらいだが、書記の気遣いをありがたく受け取っておくことにした。
目的の階では立哨の近衛兵に出迎えられた。国王の執務室へ続くこの廊下は、いかにエレスサールが身辺に構わないとはいえ、警備は厳重になっている。彫像のように立つ兵士の前を通り過ぎ、静まり返った廊下を進んだ。重厚な扉が近づいてくる。その前にも近衛兵が控えていた。
「ここまででいいぞ」
ファラミアは書記を振り返った。書類箱を受け取って彼を帰す。
元々、公務の時間外なら、ファラミアは城内を一人で歩いていた。それに対し「自分は一人で歩いておいて、わたしの一人歩きを咎めるのか」とエレスサールが駄々をこね……もとへ、異を唱えた。主の悪癖の言い逃れに使われるのは不本意なため、伴を連れて歩くようになった。それでエレスサールの一人歩きが止んだかと言えば、そうはなってない。困った主君である。
重厚な扉を開けると、控えの前室に珍しく侍従がいた。
「——ファラミア様」
椅子に腰を下ろしていた侍従は、ファラミアを見て立ち上がった。
「陛下は?」
ファラミアは僅かに眉を顰めて訊いた。脳裏に、今朝、目眩を起こした主の姿がよぎった。
伴を連れないエレスサールは側仕えも置きたがらない。その彼が控えに侍従を置くのは、訪問客を執務室内に立ち入らせず追い払いたいときである。多忙なときに使われる手段だが、体調が優れないときにも使われる。そうしておいて、今朝と同じように寝椅子か長椅子で横になるのだ。
薬師を呼ばないのは騒ぎになるのが厭だかららしい。臣下としては薬師の見立てを聞き、寝台で休んでもらったほうが安心できるのだが。
「少し疲れたとおっしゃって……しばらくお休みになるそうです」
予想どおりの返事を聞き、ファラミアは小さく息を吐いた。
「お会いできるか?」
そう訊いたのは、エレスサールが「誰も通すな」と命じている可能性を考えてのことだった。
「はい。ファラミア様なら構わないと伺っております」
「そうか……」
ファラミアはほっと息を吐いた。
今朝、目眩を起こした後のエレスサールは少々機嫌が悪くなった。大丈夫だと言ってすぐに起き上がろうとした彼を、ファラミアが強く止めたからなのだろう。体調に無頓着な主に、もっと身体を大事にしてほしいゆえの要望だが、壊れ物のように扱われるのを好まないエレスサールは煩わしく思うらしい。最後には追い払うように話を打ち切られた。その後、今日は彼と口を利く機会がなかった。
エレスサールが本気で怒ったとは思っていない。けれど慕う心は、ぞんざいにされるだけで冷える。だがそれも、
——ファラミア様なら構わないと……
今こうして、立ち入ってよいと許されていると知れば、温もりを覚える。一喜一憂——まったく惚れた身というのはやっかいだ。
「後のことはわたしがしておく。下がっていいぞ」
侍従に言って、ファラミアは把手に手をかけた。
執務室の中は薄暗かった。回廊を赤く染めていた夕陽も山の向こうに沈んだらしく、窓の向こうに見える空は、残照の朱をほのかに残した濃紺で彩られていた。暑さが厳しい時節柄、暖炉に火も入っていない。執務机や暖炉の上など、数ヶ所で燭の灯りが頼りなげに揺れていた。
ファラミアは執務机に書類箱を置くと、燭台を手に取り、こんもりとした影の見える長椅子に近づいた。
「……ファラミア?」
長椅子の上で影が動き、名を呼ばれた。元・野伏の主は気配に敏い。そっと近づいたつもりでも、こうして気づかれてしまう。
「お起こしてしまいましたね」
ファラミアはローテーブルに燭台を置き、長椅子の脇に膝をついた。
「いや、うとうとしていただけだから……」
ゆっくりとエレスサールが上体を起こす。
「お加減は?」
顔を覗き込みながら尋ねると、エレスサールは小さく笑った。
「大丈夫だよ。具合が悪いわけじゃない。ちょっと強い眠気がしてね……それだけだ」
どうやら今朝のように目眩を起こしたわけではないらしい。その点には安堵したが、長椅子に転がる物ぐさ加減はいただけなかった。
「お休みになるなら、寝台のほうがよろしいのでは?」
「ひと眠りするだけのつもりだったから……」
そう言ってから、エレスサールはやや呆れた調子でファラミアを見た。
「あなたは本当に心配性だな」
「それは陛下が……」
今朝倒れたからではありませんか——と続く言葉はさすがに呑み込んだが、脳天気な物言いには少々カチンときた。
「ああ、わかってる。今朝のはわたしの失態だった」
アラゴルンの手がファラミアの肩を宥めるようにポンと叩いた。
「だが、今は倒れたわけでも目眩を起こしたのでもない」
だから心配はいらないと穏やかに笑む顔が、今は無性に憎らしかった。人の気も知らずに——と、普段は浮かばない狭量な気持ちが湧き上がってくる。
何もファラミアの言うとおりに動いてほしいなどと、そんな大それたことは望んでいない。ただ体を大切にしてほしいという、臣下として当たり前の望みである。それを要らぬもののように言うのだ、この主は。
「ファラミア?」
押し黙ったこちらを訝しむように、エレスサールの首がこくりと傾いた。邪気などまったくないように見えるその所作が恨めしい。
「とにかくですね、もう少しお体を……」
いたわってください——と言おうとしたところ、不意にエレスサールの顔が迫ってきた。反射的に引いたファラミアの首を、伸びてきたエレスサールの手が押さえた。そして——、
生温い感触がファラミアの頬をかすめていった。
思いがけない接触にファラミアが自失している目の前で、エレスサールはいたずらが成功した子供のような顔でにこりと笑った。
「あなたが眉根を寄せてばかりいるのはどうかと思ったが、こうしても無反応なのはいいな」
そう言うと、また彼はファラミアに顔を寄せてきた。先程とは反対側の頬にやわらかいものが触れた。
「いつもこうした手であなたに驚かされてばかりだから、仕返しできるのはいい気分だ」
にっこりと笑む主を、ファラミアはただ凝視するしかなかった。毒気を抜かれるというのは、こういう気分を言うのだろう。
しかし、いつまでも自失しているようでは、この主に仕えていられない。ファラミアはさりげなくエレスサールの左手を取った。これまたさりげなく、彼の右肩に手を置く。そして——、
手に力を込めるや、体重を乗せた動きで一気にエレスサールを押した。
ドサッ……。
鈍い音とともにエレスサールの上体が長椅子に倒れ込んだ。ファラミアは素早く自らも長椅子に乗り上げ、彼が起き上がるのを押さえた。
「ファラミア、何を……」
この状況で「何を」もないだろう。
「お体の具合がよろしいこと、心配は不要なことは非常によくわかりました」
「そ、そうか。わかってくれたか」
上擦った声でエレスサールが答える。
「はい、そのうえで——」
ファラミアは喜悦の感情のまま微笑んだ。
「せっかく陛下がお誘いくださったのですから、お応えするのが臣下の務めかと思いまして」
エレスサールの顔が引きつった。
「別に誘ったわけでは……」
言い訳を紡ぐ唇に、ファラミアはそっと指を当てて遮った。
「ここでなさいますか? それとも隣に移りますか?」
ひくっと痙攣するように動いた主の喉から聞こえたのは、ひゅうっという風のような息遣いだけだった。
——まあ、返事は無くても構わない。
短い夏の夜の、けれど愉しい時間を思って、ファラミアは目を細めた。
END